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2月, 2024の投稿を表示しています

2024年2月29日

日記の更新が空いてしまった。今月最後の日。今年はうるう年なのか。毎年変わらず時間が経つのは早いような遅いような。今年は何があったっけな。と、まだ2月よ。そして3月は誕生日がある。誕生日に関しては時が経つに連れてどうでもよくなっている。誕生日という話題で誰かと盛り上がることもほとんどなくなってしまったように思う。まあ、もっと他の話題ができたのだが、老後のこととか!?早い早い。と、そんなこと思っている間にあっという間よという理屈もわかるのだが、得てして人が未来のことを語る時、今の社会システムがそのままに、今の70歳のように自分も70歳になるのだというような何か確信みたいなのを持っていることが多くあり、私にはそれが良くわからない。その確信に基づくからこそ様々な保険なりが成り立つのだろう。その、保険の会社なりはなぜ何十年も先も存続していて、こうしたらこうするという約束をできるのだろうか。私は、私が60歳である時にこうするという約束は何もできない。生きてるかも、死んでるかもわからないし、全くイメージがつかない。この、イメージがつかないというのは何も悪いことでないのだが、どうやら恐れる人もいるようだ。こうで、こうで、こうなっているはずなんだ、違ったらどうしよう、と。この、自分の設定したこだわりがギャップを生んで自分を苦しめることは良くある。私は結構この先が長いことに対してのほほんとしていられるのは、このこだわりが薄いからか。ただ、堅い生活をずっと続けていた人なら違うのかな。何処かで、不安を感じなければという本能があるのだろうか。毎日ちょっと不安で、ずっと先のことを不安になれない。 書いているのは布団の中。30分前に起きたばかり。私はしばしば、起きてしばらく特に身にならないYouTubeを見て、ふぇぇ とか ワッハハハ とか  かぁぁぁ とかやっている。一分一秒無駄にしたくない人からすればかなりムカつく人間だ。と、一分一秒も無駄にしたくなかった時があったことも思い出す。私にはあまり合わなかったと思う。何って、自分の好きな文化はあらゆる愛しの無駄から生まれてるんだから。観光なんかで、ここもここもこここもここもここもここもと詰め込み過ぎて、この美術館を30分で回らなきゃいけない。ひぃ、写真撮らなきゃとなるのがあんまり好きじゃない。「写真を撮る」という行為は、無駄じゃなかったこ...

2024年2月24日

昨日は絵が止まらず中々眠れなかった。ここは、ハサミで切って貼ってみようとか、そういう意思、意識も普通の考えとしてでてきた感じ。あんまり理屈っぽいのと作ることが同じ時間に両立することって難しいなって思う。例えば音楽に詳しいピアニストの人もいざピアノを弾く時には無、みたいな感じなのではないか。スポーツをやる人もそうなのかな。スポーツ漫画で、ここはこうくるのか、こうか、いや!?まさか、このフォームは みたいなのは現実には難しいのではと思う。そんなわけで、文章で書いた方が良いことはこちらに書いて、絵としてできることは絵としてやっていこう。あと、偏ったり傾いたりする、しているということを認識することだ。どこにも、平均的なバランスを取っている人なんていないはず。私は放っておくと兎角、完全な調和、とか、完璧なロジック、とか、そういうことを求めたがる。その割に傾いている。完璧に近づく能力が無いのだろう。そのまま傾いていきたい。 ローリングストーンズをずっと聴いてた。14歳からずっと好き、、と書くと自信がない(もう色んなことが朧げになっているので)が、好きだったと思う。一時期存在もほぼ忘れていたが、今また好きになっている。何せ去年にニューアルバムがでて、それがめちゃくちゃ傑作なのだ。7曲目のMess it upって曲がめちゃくちゃ良くて、、良すぎて、アルバムの制作に携わった方々にはやや申し訳ないが、通してはあまり聴かず、7曲目を多めに聴いている。ロックとヒップホップのメンタリティの違いが気になり続けていて、ローリングストーンズの研究をしてみる。

2024年2月23日

やっていても特に得をしたりしないことを継続するのは趣味的で自由がある。得だからこうという発想はどこかで必要だけれど、そんなわけでもなくこうという発想も、損でもこうという発想もあっていいし、無ければ考え自体がシステマチックに味気なくなっていく。なるだけ考えに雑味があることを肯定していくようにしている。雑味から生まれる創作物が良いと思う。 A3サイズの紙に絵描いてみた。いつもA4サイズとか、小さい紙に描いていたからか気持ちがのびのびしていた。特に何も考えず急に描きたくなって描いたので出来上がるまでどんな風になるのかわからず、あぁ、そうなるんだ、と後から自分が見返しているみたいな不思議な気持ちだった。自分の中の他者が描いているような。自動筆記に近いのかもしれない。無意識で描いた後意識が修正するということを繰り返して形ができる。なんとなく、意識を使って長い目で考えることが今、苦手に感じている。その場の思いつきでパッとできるようなことをしていたい。この日記はそう。

2024年2月22日

何書こう。 ここ何年かで好き嫌いと正しい間違いがごちゃごちゃにならないようになった気がする。間違っているし無駄だけど好きなんて好きがでてきたりして、良い感じだ。正しい絵とか描くより、好きな絵を描きたい。一種のフェティッシュだろうか。好きなものに理由が必要だという考えがでてくるのは、好きであることがどう見えるかという他者の視点を意識しているからだろうか。この、他者ありきの好きというあり方が良くあって、それはそれで良いものだと思う。が、特に誰に勧められたわけでもない音楽を聴き、好き勝手に絵を描いていく楽しみ、とか、そういうものを大切にしていきたいと思う。それを手放せばわかりやすい人になれるのかもしれないが、私は複雑な人になりたい。この日記を書くことも大事にしていく。

2024年2月21日

朝起きたての時と、夜眠る前で違う考え方になっているのは、起きた瞬間に忘れるが眠っていた時に見ていた夢があって、それを無意識に引きずっているんだろうか。そのまましばらく起きて生活をして、現実を吸収して、眠る間に夢を吸収する。起きた直後はドリーミーでスピリチュアルな感覚で、眠る直前はリアルで俗な感覚だろうか。夢を見る人見ない人がいるが、一人の中に複数の世界があることは良いことだと思う。活発な世界(時間)、思索に耽る世界(時間)、ボーッとする世界(時間)、ここでいう世界というのは時間のことか。複数の世界があるとは色んな時間を持つということだ。そして、それら複数の世界が一つの世界に混ざることを現代人は夢想(サンドイッチを食べながら仕事をする)したりするわけだが、私はなるだけ分けていきたい。そうしないと私のようなズボラはすぐにだらしなくなってしまう。かと思えばなんだか几帳面な所もあるのだが、この、ズボラさと几帳面さを人間は何処かで併せ持っているはず、しかしこのボタンを掛け違えると、肝心なところが適当で変なことに細かい謎の思考になってしまう。この謎の向こうにも何かがある気持ちもするのだが、一旦置いておく。 この、謎の迷宮をウロウロし続ける私が意識すべきは、やり過ぎず楽しくウロウロするのは肥やしになるから良しとすること。逆にあまりにやり過ぎや、なにか嫌な気分がする時は避けるということだ。ウロウロしていいこととしないことも分けて考えるようにする。何年でも考え続けたり、ああでもないこうでもないとしていることが魅力になっていくようなものと、パッと判断して決めた方がいいこと。もう少し、パッと決めることをがんばる

2024年2月20日

忙しくて?日記書けず。足がむくんでパンパンだ。靴下の跡が縞模様になってふくらはぎにくっきりつく。このふくらはぎから足首まで重くて、足首をくるくる回すとぽきぽきなることはザ•疲れという感じがする。肩を回すと左側だけごりごりと音がする。大分昔からだ。解消法を2日ほど試したが続かなかった。 手ツボ、足ツボマッサージが好きだ。自分でできるし。足のこの部分を押すと、目に効くとか、足から目までは160cmほどの距離があるのだが、その距離を超えてくる感じ。足っていうのは、縁の下の力持ちだ。手は目立つ。花形だ。手の指は絵を描く。器用だ。手の指に生まれ変わるなら小指になりたい。何故って楽ちんそうだからだ。他の指がせっせと働いている間、小指はあんまり関係ない所でボーッとしている。まぁ、これはこれで罪悪感も感じそうだが。親指に怒られる。スマホのフリック入力は全部親指がやっている。この文は親指が文字のボタンを押すことにより全部書いていて、他の指はスマホの後ろ側に回ることで入力を支えているが、正直小指は何をやっているのか良くわからない。親指がピッチャーで、人、中、薬指がキャッチャーで、小指はなんだ。優しくて素敵で面白い文を書きたいので親指には期待している。これからもよろしく。

2024年2月17日

時間ができてしまったので初めて行く図書館に行ってみた。図書館自体がかなり久々である。建物の外観は質素だったけれど中は広々していて本もすごく充実していた。児童向け図書も絵本だけでなく漫画じゃない伝記が沢山あって、児童向けというものがどの辺りのことを指しているのかが曖昧に感じはじめる。伝記になる人は大きな良いとされる功績を残した人なのだと思うが、国や地域によって誰が選ばれるのか全然違うだろうな。 図書館の中を歩いている間、Spotifyでポーランドで聴かれる音楽TOP50っていうのを聴いていたけれど、現地でやっている人たちに混ざって、デュア•リパとか、トラヴィス•スコットとか、ポーランド以外のグローバル•スターのミュージシャンの音楽が沢山入っていて、ああやっぱりすごいんだなと思うと同時に、なにか複雑な気持ちに。これは趣味や興味の均質化に対する複雑さだ。と、何を馴染みの無い国のヒットチャートに魅力的な癖の強さを求めているのだ。反省。ただ、心にひっかけておく。国は大き過ぎるので個人の話にしてみるが、ガラパゴス的な思考、成長、衰退、変化等がその人にしかない特異な部分を作るので、それを好きになっていきたい。苦手、でも良いのかもしれないが、そうなると途端に趣味や興味、人格まで数値化して考えだすようになってしまいそうだ。そして私は、嫌。 時間はたっぷりあった。色んな本を右手に取り左手に取り、ああでもないこうでもないと考えた。この、図書館ならではの悩みも今となると贅沢だ。人工知能が今までの私のデータから興味を推測して提案してきたりしない所がいい。そうなるともう、能動的に手に取るしかない。この時に働く頭があると思う。iPhoneが教えてくれるという方が贅沢に感じられてきたが、今はレコードで音楽を聴く人然り、本を買う人然り、逆転現象が起きていると思う。あぁ、この空間の中の、限られたアナログの物体の中から何かを見出したいという、制限付きの欲望。 私も、何が間違ったのかどう頑張っても紫色の画材しか手に入らない絵描きになったら、案外納得して、紫色を極めるとか思いだしそうだ。監督と脚本があって、映画ができるのではなく、役者とカメラがあって脚本が後からできていくような。 そういうブリコラージュの発想で3月3日の絵は描いてみたい。今日は、知覚の扉という本を読んだ。好きだった、そして今も好きなドアーズ...

2024年2月16日

このところ寒いのもあって、絵を描けたりする時間も布団の中にこもってしまうことが多く、身体も今まで史上一番鈍っている。久しぶりにThe casualtiesってかなり激しいパンクバンド聴いて、た、たるんでいるのでは、自分と思った。寄り添ってくれるものにも、はじき飛ばされるものにもそれぞれの良さがある。聴く人に挑戦するような音楽。気合いが入るが、入りきらず、私は横になる。この、気合いという言葉だが、私は子どもの頃は良く使っていたが徐々に使わなくなり、最近では私の中で死語になってしまいつつある。成熟したとも思ったが、一度無理の無い中で衰えと考えてみても良いかもしれない。 今から豚汁を食べる。寒さと豚汁のマリアージュ。寒い地域の寒い季節の方が豚汁は流行るだろうな。雪の降る中の炊き出しの豚汁なんか絶対美味しいもん。暑い地域の料理と寒い地域の料理、海沿いの料理と山の近くの料理とあって、日本のごちゃ混ぜになっている感じは好きだ。外国の料理もどんどん取り入れて食べてるような。結構、日本は美食の国なのではないか。 豚汁を食べた。美味かった。今日の食事はいつもより幸せだった。食べるという行為を自身の喜びやアイデンティティにしていくというのは名案だと思う。そうしたら、食事があるたびに、私は幸せだということになる。これから何度もその幸福が訪れる。本当にそれが幸せだと思っているんだけどな。しかし、失礼ながら無味乾燥な気持ちで米にがっついてしまう時がこれからもあるだろう。そういう時をなるだけ減らしていきたい。

2024年2月15日

あんまり関心なくとも、暇な時に大きい絵を描いてみるのも良いかもしれない。遠くから見る絵と、近くで見る絵があるなと思う。iPhoneとかパソコン、本は近くで見ることを前提にできているな。 ところで、片付けしないと。大きなものを作る等に対して躊躇うのは、スペースの問題だ。そういう意味では、小さいカードみたいな作品を沢山作って積み上げていくような形があってるね。大きいものを作るという瞬間にはいてみたいが、取っておくのはちょっと、と、エコの欠片も無いことを思ってしまう。キャンバスじゃなくて紙に描くなら良いかもしれない。ロール状にしてとっておけるし、そこまでかさばらない。 今日も今日とて自身のあり方に非常に迷っていた。何をどうしたら良いんだろうなという気持ちが、何をどうしてみようといった気持ちのスイッチになるべく入れれるようにしていく。多分、明確な目標というのがあまり自分に合わないのだろう。

2024年2月14日

なにか作られるものは、他者の実生活に対する影響が少ないほどに自由である。勝手に絵を描くことはできるが、勝手にマンションを建てたりすることはできないはずなのである。洋服には着れるという機能があり、建物には住めるという機能があり、時計には時間がわかるという機能がある。絵には、文章にはどんな機能があるだろう。意思、情報の伝達。というのは一つの大きな役割だ。グラフィックデザイン、連絡。しかし、その役割を果たすことを目的としない場合はどうだろうか。ファインアートや小説。小説を全然読んでこなかったのでこれから読みたい。退屈や憂鬱に飲み込まれる前に楽しみを作っていく意識は重要だ。私は意外と堅物なのか、楽しむということが非常に苦手だったように思う。その分、楽しい時があまりにも楽しそうなので、ちょっと変な人なのではないかとなってしまう。 小説とはなんだ。中説や大説もあるのだろうか。最近この、見知った単語に疑問を持つことが私の中で流行している。去年見ていたThe three stoogesの影響もあるのだろうか。彼らはアメリカで活動した三人組のユダヤ人コメディアンで、内容はスラップスティックコメディという、動きで魅せるタイプのコメディ(チャップリンとか)で、英語がわからなくても楽しめるのだが、その中ででてくるセリフがなんというか、英語という言語に対してボケるような感じなのである。三人の中で誰かが言ったことに対して一人がme tooと言い、もう一人がme threeと言うといった具合に。こう、文章で書くと全く面白くないのだが。まるでThe three stoogesがつまらないみたいだ。すまん。ラリー、カリー、モー。 私は文章を書くことも読むことも非常に好きで、小説を自分で書くということも試みたことも何度かあるのだがその全て挫折した理由は、見ての通り、文の中にまとまりや脈絡を持たせられないというのがあった。もしもう一度書くとしたらしっかりテーマを決めてそこから逸れないように書くべきだ。この、脈絡の無さというのは現代っ子ぽいと思う。ツイッターのタイムラインや、日本の看板だらけの繁華街。体系化されていない断片がコラージュされた文章。時折、良いことを書いていたり鋭い発見があったりする。そして、この日記はそれで良しとして、言葉で遊ぶことで自分の中を掘り下げて考えをえぐりだしたり、新しい発見を組み...

2024年2月13日

去年の10月にはじまったローカル通貨の〇〇payというのが、今月で失効になるらしい。何かトラブルがあったのだろうか。現代の通貨という感覚は慣れ親しんでいるにも関わらず非常にわかりにくくて、今の自分には良くわからない。徐々に勉強していく。ビョンチョル•ハンという人が書いた透明社会という本があり、そこには「貨幣は、事物の通訳不可能性を、特異性を全て撤去する」という記述があるらしく(つまり私は読んでいない)この本を読んでみたい。ビョンチョル•ハンは韓国生まれのドイツ在住の哲学者でその本が元々韓国語で書かれたのか、ドイツ語で書かれたのか、英語で書かれたのかわからないのだが、日本語に翻訳されているので、その言葉のニュアンスがそもそもの言葉という事物を正確に通訳しているのかはわからないのだが、翻訳する人はそういうことを強く意識しているのだろう。直訳、意訳、執筆者と読者をつなぐ人の努力がなければ今の私の考えもないということになる。 なぜ、Artは芸術という日本語で訳されるのだろうか。そして何故、アルファベットという26文字でものの名前から出来事、とにかくなにから何まで表そうとする人たちと、私のように漢字を使わなければ表せない人がいるのだろうか。これが私の幼少期からの疑問である。これは中国語を母語とする人にも言える。母語であるにも関わらず、読めない漢字や書けない漢字があるのである。漢字の総数は、約50,000とも60,000とも、八万五千とも言われているのである。やや自分びいきになるが、私は宇宙人から見れば日本語や中国語よりも英語の方が絶対に簡単だという風に思っていた。理由は単純、漢字が無いからである。 しかし最近、YouTubeで英語の方が難しいという説を聞き、それもあるなと思った。内容としては、漢字は一つの文字で意味を持つが、アルファベットは一つの文字で意味を持ちづらいというものだ。漢字では、鮫、鯨、鮭と書くのに対して英語では、Shark,Whale,Salmonと、魚編という漢字ルールはすっ飛ばして26文字の組み合わせとして表現されるのでその単語を知らなければ意味を推測することが難しいのである。そのことが実は絵の描き方にも強い影響を与えているのではないかと感じる。

2024年2月12日

日付が回ってしまったが、寝るまでがその日だと思っている。電車の中で日記を書こうとしたが疲れていて気が乗らず、今は寝転がり布団にくるまって書いている。この、寝ながら文章を書けるようになったというのは携帯式端末の生んだ発明だ。転がって手紙を書く人がいるだろうか。 部屋は真っ暗。視界にはiPhoneの画面と液晶の光に照らされた手、指。布団の継ぎ目と陰影。この、真っ暗な中で一人で考えることを、 ここまで書いて熟睡してしまった。何を書こうとしていたのか。昨日の自分にバトンを渡されている。真っ暗な中での一人きりの力を誰しも持っていたらいいなと思う。誰といてもどこか空虚さを感じている自分がいませんか!? そんなあなたにオススメは...となると急に胡散臭くなるのだが、それが病理とか、現代の闇とかそういうことでなく、ただそういうものだと認めていくことをしていく。

2024年2月11日

左右非対称の道具というのは、基本的に右利き向きにできている。左利き用の製品の場合のみ、左利き用等と記載される。左利き用グローブとか。右利きの私にはこうして書くなどして意識しないと左利きの人の感じ方がわからないが、左利きの人には右利きの社会がもっと見えているのではないか。その構造の中にいると構造が見えにくいが外に出ると俯瞰して見えるように。 と、いうこと等を考えながら歩き、駅に着いた。お腹が空いていることに気づき、駅構内の立ち食い蕎麦屋で豚肉と白菜の蕎麦を食べた。箸を左手で持とうか一瞬迷ったが、右手に持った。柚子胡椒が効いていて美味しい。五感の中で視聴覚に対して味覚、嗅覚、触覚は言及されることが少ないように思う。見たもの、聴いたものを説明するよりも、味の説明の方が難しいような。そのうち、味わい香る、触れる映画もでてくるのだろうか。受動の極致としての鑑賞。 立ち食い蕎麦屋は好きだ。今日は祝日だからか異様に繁盛していて麺をすする音が合唱していた。自分とここにいる人たちがなにか江戸時代の運命共同体のような気がしてくる。本当にその時そう思ったのかというと、自信はないのだが。自分の中に、知識として大して知らないまま理想化されたイメージとしての江戸時代があることに気づく。ここではないどこかを考えることが好きなのだろう。

2024年2月10日

今の今まで関心が比較的薄かった、技術的な方向に意識が向かっている。その理由の一つに、情緒的なものの限界を感じたからだということがある。正確には、情緒的なものの他者との関わりの限界というべきか。これは、紙にアクリル絵の具で描かれた絵である。ということは共有可能なことであるが、そこに纏わる思いは移ろいやすく、その実態を捕まえようとしてもできない。なぜなら思いや情緒、ドライにいうと意識というものが目に見えないものだからだ。文字の発明の理由、それを介した様々な書物が生まれたのは、その目に見えないものを見えるものとして定着させたいという欲求があったからか。話す言葉は目に映らず音になる。その音は文字になるまで目の世界に生きていなかった。口からでる言葉は音楽に近く、文字になる言葉は絵に近い。 このあたり、自分の感じていること、それは感じるということについて感じていることの近くを文にできていると思うのだが、核心をつくほどには言語化できていない。指が止まる。 ボールを手に持つ。手を放す。ボールが下に落ちる。ということと、こういう状況がある。こうなる。その人は嬉しいなどということを一緒にしてはいけない。人の感じることをマニュアル化したりされたりするのは危険なことだ。そしてそのことこそが私が情緒的なものの限界と感じる理由である。 人による、そして、それでいいことそれがいいことが何か基準を持つことの難しさというか。

2024年2月9日

ひどく寝てしまった。疲れてたのだろうか。疲れ、寝て、起きるという生き物のセオリーに私も則っている。猫や他の動物との連帯感を感じる。 久しぶりに自炊をした。自分の為に作るご飯は美味しくないという人もいるが私は美味しく感じる。それは料理が美味しいのではないと思うが、自分が作ったという達成感とアマチュアで荒削りな味付けを新鮮に感じるからだろうか。作り方を言語化できない。塩胡椒ちょっと。醤油をもうちょっと。好きな色をただのノリで混色する感覚だ。自分の為の料理というのはチャレンジャーになることも可能だ。アヴァンギャルド野菜炒め、スパイス味噌汁、和洋折衷丼。商品化不可の誰も知らない個人プレー。 お得意の話が飛び、羽ばたく。学校の先生はできないだろう。何の授業かわからないと心のPTAから苦情がきそうなところだが、サーカスの衣装が気になる。異化効果という言葉が浮かぶ。サーカスの歴史というのは、1770年のイギリスでアストリー•ローヤル演芸劇場で開催されたものがルーツになっているという。服飾には歴史があり、その時代や土地によって、なんとなくここからここまでの範囲というのがあるが、そこからはみ出していることによって服を、行為を、相対化させる装置としてのサーカス。ボタンがデカ過ぎる。そんな帽子を被って、そんな髪型をして、そんなメイクをするのか、その、「そんな」が組み合わさったものがサーカスの衣装になっていく。芸とはなんだろう。直立することは芸にならないが、逆立ちすることは芸になる。あべこべの世界。現実と呼ばれるものとの差異がショーになる。それを見た後に、現実に帰ってきた瞬間、何か生活に対してメタ的になるだろう。そうか、私たちは、足で歩いている。現実からずらされたものの存在を見ることで、現実は少し揺らぎ、新しい可能性を見せる。伝統に対しての余所者が魅せる芸の観客は伝統の中の人が多かったのだと思うが、このことは示唆に富んでいる。伝統や現実と闘うのではなく、非現実の集団が芸を通して異質なものを共存させ、現実を揺さぶり、熱狂させる。 いや、白けていた人もいたのだろう。何か異形の者に仮装した集団が、強固だと信じていた現実の中で新しいレイヤーを作り始めていることに馴染めなかった人もいたことは想像に難くない。 私は様々なレイヤーを味わい、移動してみたい。それらがあるということが自分の喜びである。見上げ...

2024年2月8日

昨日も一昨日も、ゆりかごから墓場までという言葉を使ってしまった。何か恥ずかしい。小学生の時の作文を思いだす。同じ単語が何度も重複すると、何かくどさを感じてしまう。黄色い靴に、黄色いズボン、黄色い上着と黄色い帽子、それはそれで突き抜けていて良い気もするが、どこかで避けていた自分がいた。文章の中で浮いている文字も気になる。一、二、三、4、五、六、七、八。 トイレ、お手洗い、化粧室、便所、同じことを指していてもそれぞれの単語が持っている色があって、それらが調和していない時にクオリティが下がるような気もするが、同時に上述した一、二、三、4...のように、何か新しい色が生まれそうな雰囲気も感じる。テレビがついていて、十五分間の中に暗いニュースとスポーツのニュースと政治のニュースと星占いがあるような、コラージュ的な意味の連なり。それは紙の上にインクの跡があり、アクリル絵の具が塗られ、写真が貼られている。写真は、イラストの写真だ。意味が重なると一つ一つの意味が薄れていく。それは歳を重ねると見たものや感じたことが朧げになっていくこととも重なる。あの時悩んでいたことはもうどうでもよくなってしまった。それは良いことだけれど、同時に嬉しかったこともどうでもよくなっている気もする。カメラ小僧的な人生を送る人がいるけれど、これはそのことと繋がっていると思う。記録することに対する熱。 カメラ小僧っていうのはあんまり良い言い方じゃない気がするな。それじゃなんだろう。カメラ僧?  僧侶は何か関係があるのだろうか。日本語とは別の言語を母語とする人が日本語を見つめる感覚があって、その距離に色んなヒントが隠されていると思う。私は、いや、僕は、俺は、あたしは、自分は、なんて自分のことを呼んだ方が良いと思うかと問われたとしよう。どう答えるのだろうか。まぁ、自由なんじゃない。俺はそう思うよ。でもその、俺っていうのはなんなのと問われると確かに、何なんだろうな。俺という単語の歴史。なんだか竜のようにも見えてきたがちょっと違う。俺は申みたいな文字で竜は甲みたいな文字だ。漢字は文字自体が意味を持っている。アルファベットは文字自体が意味を持っていない("I"という文字は例外だが)。色んな言語が気になるが、学んで自分のものにしたいほどの熱がないので、色んな国の言葉を話せる人が気づくことや言語学者に学び...

2024年2月7日

なんでか7時間くらい歩いた日だった。知らない曲を聴いたり、昔出会った曲を聴いたりしながら。 ひたすら無駄で、社会にとって何の役にもたたなかった時間だ。それは自己嫌悪等ではなく、ただ時間を過ごした時間のこと。最高では無いけれどどちらかというと楽しい時間だった。 どう足掻いても自分は死んでいく。ゆりかごから墓場の間のグラデーションの時間の中に文章を書いている自分がいる。そのことを大きくも小さくも見積もらずにいられることがいつか変わっていくのだろうか。いつか変わると思いつつ変わらないまま今もいる。 真面目なこと?を書くのは止めにして、今日歩きながらぽわぽわと思ったこと。作品としてではなく趣味としてのデッサンをしてみたいと思っている。鉛筆なら字の如く鉛が、ボールペンならインクが描く対象に擬態する。鉛は鏡であり、窓であり、猫であり、植物であり、建物になる。そういうイリュージョニストとしてのデッサンをすることが気になっている。気弱な人がギターをぶらさげて傍若無人なスターにもなった。それは、無理しているとか裏表とかではなく、それに向き合う時にその人の中で芽生えたその人の新しい面なのだろう。 普段、日常と呼ばれる中で自分が感じる気持ちとは別のところ。それは無視され鏡は自分を映す。木は生えて建物が建っている。2024年っぽい、一人弁証法的制作というものを考えた。対象を見る。花がある。花は私にとって花だとしか思えないところを、この花があるということに対して自分の中でボケてみるのである。もし、この花が10mくらいのサイズだったら? そしたら、茎折れちゃうんじゃないという真っ当なツッコミを入れる。そうすると何かやはり理由があってこの花がこのサイズになっているということがわかる。この方式に当てはまると対象に対して無限に色んなボケのアイディアが浮かぶ。車のタイヤが自転車のタイヤみたく細かったら?タイヤが二つだったら?雪が降ってはじめて、三角屋根の家が多い理由に気づいていく。物理法則に支配されて植物から人工的なプロダクトまで存在している。しかし絵の中には巨人もかめはめ波もある。歴史を振り返って写真が生まれて以降の絵画の流れの中で描き続けた人が初めに気づいたことはそういうことなのではないか。

2024年2月6日

昨日は珍しく雪が降り、今朝起きると雪が積もっていた。踏まれた雪は氷に名前が変わって半透明になる。足跡、タイヤの跡、人がいなくても人の気配を感じる。アスファルト、雪でできた中央分離帯。雪国の人からすると何を今さらなことを新鮮に感じるね。日常の中で異質に見舞われて自身の意識を半分リセットすることが時々必要だ。学校や社会に飽きたり退屈に感じるっていうのは、そこで自分が感じることに飽きているということかもしれない。もし私が余暇すら買い占めた大金持ちだったら自分の感情に飽きる前に旅行に行ったりスポーツしたり、、何するだろうな。想像力が働かない。肝心の私はそういう生活になったことがないのでその生活との向き合い方がわからないかもしれない。 一見地味なものに新しい発見をしたいというのがずっとある。例えば鯉を見て餌をあげることが一日のなによりの楽しみなおじいさんのように。まだそこまでの悟りを得られていないな。文字を書くことが楽しいというのは良いかもしれない。ある程度どこでもできる。ポータブル。そして本当にポータブルなものはパソコンでもスマホでもリュックサックでもなく、その人の意識だと思うんだ。身一つの裸の時も私には意識がある。この、意識というものが色んな文明、文化を作り上げたすごいものだが同時に厄介だ。世界には色んな物質が溢れているが、その気になれば持たないということができるというのに対して、意識というのはその気になっても持たないことができない。これは太古から続く人間の課題なのだろう。それが故に星座が生まれ、農業を発明したことをこうして文字に書く。しかし、そうして欲張り、もしくは理想を持ち発展をしてきたからこその苦しさも同時に発明された。そしてその発明されたものは永遠に残されて逃れられなくなっている。やや唐突だが、ドラッグの問題の多くがここに集約されていると思う。服が気に入らなければ買い替えて違う服を着れるが、意識は気に入らなくても買い替えることができず、ゆりかごから墓場までついてくる。これを価値と見るか、恐怖と見るか。 いつしかそんなことはしなくなったが、昔は風呂に一日に三回も四回も入っていた。それは私が潔癖だからという理由ではなく、悶々と憂鬱が心の中にあって拭えないことに対する抵抗行為であったと思う。シャワーを浴びる。湯船につかる時のその瞬間はパッと憂鬱が晴れるような気がした。と...

2024年2月5日

BLACKHOLEという映画評論家の人たちが色んな映画を批評したりああでもないこうでもないと話すYouTubeチャンネルがあり、それの音声だけ聴きながら絵を描いている。 サブスクで色んな映画を見たり音楽を聴いたりできて、誰しもなんか言いたくなるのか評論家っぽくなりがちな今、批評、評論というものが何か薄っぺらくなっているからかむしろ評論家ですという人をすごいと感じる。私は書いたことないのだが、レビューサイトというのだろうか、5つ星のうち星をいくつかつけて、感想を書く。ひたすら簡単だ。何か良いこと言った気にもなれるし... これも一つの評論なのだろう。大抵あまり参考にならず、子どもたちに夢を見させる為のアニメーション映画を見て、綺麗事だねとか言っちゃいかねない雰囲気がそこにはあるのだが、評論家と名乗る人たちは感想を抱く、見たものを説明するということを魅力的にすることを心がけていて、批評が一つの作品になっているようだ。 私がなにか作りたいと思うのは、批評するという行為が苦手だからというのもあるだろう。この人の作ったあらすじはこうですと言って、全然違ったら、ただの思い込みだったら... こうして日記を書くことも含めて段々と、レビューする為の言葉を学んでいきたいとも考えている。自分から何かを作る行為と他人が作ったものをレビューする行為の違いの一つに、後者の方が簡単に感じるということがあると思う。しかし、簡単だからこその難しさというものが存在するはずである。 作者と観客の関係性の中にも様々なグラデーションがあり、音楽を演奏する人とDJ、2024 S/Sの新作と古着屋、絵を描いて、しばらく置いて、また見る時、その時の自分は観客という感じもする。生きていて時が過ぎると今の自分が昔の自分に対しての観客にもなり得るというか。恥ずかしいことばかりなのだが。こういう、半観客という感覚が気になる。DJはプレイヤーであると同時にリスナーである。古着屋は売る量より買わなければならない。そうして作者と観客の間を行き来することで成り立っているのだろう。 電車の中で書いていてもうすぐ目的地に着くので筆(指)を置きたいがオチがない。漫才に向かないだろう。 こうして何か自分の発見みたいなことを書いていて、後から200年前にもっと精度の高い形で発見されていたことを知ったりするが、それで良いのである。それを知...

2024年2月4日

なんとなくのアタリをつけて文章を書いていくことを言葉によるデッサンと例えている人がいるのを見て、私がやってきた、そしてこれからもやっていきたい文の書き方の一つがわかった。何か対象があり、それをデッサンする。鉛筆で下書きを描き、形もへんてこだったりぐちゃぐちゃだったりするが、その中で間違っていると思う線を練り消しで消し、もしくは残し、陰影をつけ、陰影も間違えるがそれを消して形を整えていく。 こうして残したテキストを見ていくと、下手で要領を得ていないが唯一良い所として、新鮮だという感じはいつもする。生っぽい、というか、アール・ブリュットという言葉が浮かぶ。こうして延々と、アタリをつけ続けている。世にある広告の文章の多くはアタリをつけ終えて陰影をつけてフィキサチーフをかけた姿を見ているので良くも悪くも硬直した印象がある。それに慣れているので、生っぽい素人としての文章を書き、それを見ると新鮮に感じられるのかもしれない。マスターテープという言葉があるとデモテープという言葉もある。デモテープというのは、その楽曲のアタリを録音したテープか。 アタリという考え方は自分にとって意識すべきことだ。学者の発表する文は正確でなければならないという制約がある。なんとなくそう思いました、2018年くらい、とか、そういうことではダメなのである。しかし、発表されない段階ではアタリとしての不正確な文やメモを書きまくっているはずなのである。いきなり完成形としての論文が頭の中からでてくるわけではないだろう。それに比べると詩人の詩や歌を歌う人の歌の中にある言葉というのはアタリに近いことが多いかもしれない。具体的、抽象的、象徴的、科学的、神話的、言葉を重ねて横断する自由がその中にはある。その中では意味がわからないということは一概に良いこととも悪いことともいえない。しかし、それが何かのメッセージとしての文章や歌詞としてやっているということであるならば、具体的、現実であるということの地位は格段に上がり、抽象的、空想妄想は軽んじられる。そこに私は少しの寂しさや居場所のなさを覚える。 メッセージ、報連相の世界の感覚から見るならば、激情にかられて書かれた伝達を目的としない紙に書かれた詩や絵が誰にも見られず、ポンと家にあったりすることは単に  無駄  ということになるだろう。そこに抵抗する気持ちがある...

2024年2月3日

なんとなく語呂が良い日だと気づき、何かできることはないかと考え、日記をまた書くことにした。これからは日記のタイトルは年月日にして、どこに行った誰と会ったということは書かずに極々個人的なことか遠いことを書いていく。なにって、ここに行ってああしたこうしたということよりビートルズの話の方が書きやすいと思うんだ。そこには書く対象や物事との距離がある。 普通の人なのか、人より猫の方が、猫より虫の方が、虫より花のほうが自分との距離を感じる。2024年より1964年の方が。 作るということも、その時代を意識し始めるとどうも時事ネタになってしまい、ゴシップっぽくなったり、冷静に見れなかったりする。そしてそれは本意でない。自分の本意を理解することは難しいが本意でないことを理解するのはわかりやすい。だからか、頭の中の独り言も、こうしてみよう、ああしてみようというよりも、そういうのはやめようといった、なにか、制するという感じなのだ。戸締りを気遣う人なら、あぁ、家の鍵閉めたわぁとは思わないが、家の鍵閉めてないかも...   と、思うことはあるように。何かを考えるということ自体が暗い方向や不安な方向に進みやすい性質があると思う。 だから、考えんのヤメタでなく、更に考えたい。