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2024年2月11日

左右非対称の道具というのは、基本的に右利き向きにできている。左利き用の製品の場合のみ、左利き用等と記載される。左利き用グローブとか。右利きの私にはこうして書くなどして意識しないと左利きの人の感じ方がわからないが、左利きの人には右利きの社会がもっと見えているのではないか。その構造の中にいると構造が見えにくいが外に出ると俯瞰して見えるように。


と、いうこと等を考えながら歩き、駅に着いた。お腹が空いていることに気づき、駅構内の立ち食い蕎麦屋で豚肉と白菜の蕎麦を食べた。箸を左手で持とうか一瞬迷ったが、右手に持った。柚子胡椒が効いていて美味しい。五感の中で視聴覚に対して味覚、嗅覚、触覚は言及されることが少ないように思う。見たもの、聴いたものを説明するよりも、味の説明の方が難しいような。そのうち、味わい香る、触れる映画もでてくるのだろうか。受動の極致としての鑑賞。

立ち食い蕎麦屋は好きだ。今日は祝日だからか異様に繁盛していて麺をすする音が合唱していた。自分とここにいる人たちがなにか江戸時代の運命共同体のような気がしてくる。本当にその時そう思ったのかというと、自信はないのだが。自分の中に、知識として大して知らないまま理想化されたイメージとしての江戸時代があることに気づく。ここではないどこかを考えることが好きなのだろう。

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GW1

今日は一日の途中でゴールデンウィークだと気づいた。なんとなく街並みの雰囲気も違ったからだ。路上でレッドホットチリペッパーズのコピーをやっている人たちがいてすごく良かった。ちょっとだけ踊った。can't stop addicted to the sinding. 世の中の連休といえば私にとっては昔から、忙しい日であるのだ。 世間はなんとかですねえと言ったり思ったりする時、狭く思うならそこは世間の外側、広くいくなら内側である。で、最近は内側にいるなと思っている。 iPhoneにデフォルトで内蔵されているgaragebandという音楽の打ち込みができるアプリがあるのだが、昨日今日とそれで少し遊んだりした。無料なのにあんなこともこんなこともワンタッチでできて、なんだか自分がすごい音楽をやっている人みたいな気持ちになった。気づいたら時間がたってて、気持ちはスクリレックスだったね。て、garagebandがすごいだけなのだが。少しDTMをやることに興味が向かっている。ゲームボーイを改造して色んな線をつなぎ、音楽をやったりするやつをやりたい。 楽器のビジュアルに対して多くの人が何か特定のイメージを持っている訳だけど、例えばこれがそもそもは楽器でないものを楽器にした時にどんな音楽が生まれるか、あるいは生もうとするか。そこにはそもそものイメージがない。イメージがないものをやる時に新しくイメージを生もうとしたり、ビジョンを改めて考えたりする必要に迫られるのではないか。抽象的な日記になった。

片付け

部屋の片付けをしようしようと試みるが遅々として進まず、なぜこんなに単純なことができないのかと悩む。何から手をつけて良いかわからない。イメージが湧かないのだ。 こういう部屋にしたい、するという目標があればできるのだろうか。その目標が持てない。特に無いのだろう。私にあるのは快適なのが良い、散らかっているより片付いていた方が良いはずという抽象的過ぎる意思だ。 夏バテ気味であまり調子が良くない。これも色々進まないことの原因だろう。ちょっと休むのも良いかもしれないと、横になり大きく伸びをした。日記が下手になっていることに気づいた。リハビリとして適当に書いてみる。お腹の調子が悪い。しじみの味噌汁を飲もう。ああいう、プハア系の飲み物が好きだ。そういう意味では、炭酸飲料も味噌汁も似ている。似ても似つかない二つの飲み物は、プハア系というジャンルによって結びついた。こういう、名付けによって関係なさそうなものが一緒のグループになることが気になる。 コンビニに行ってしじみではなくあさりの味噌汁を買った。なぜだか大きな貝の方が魅力的に見えた。お湯を注ぐ。店の外では電灯の光に向かって虫たちが突撃していた。夏の風物詩であり、昔は何故そんな行動をするのか意味がわからず怖かった記憶があるが、今はどちらかというと共感している。懸命に生きていく。 暑い疲れたお腹痛いというかなり駄目な独り言を言った。味噌汁を飲むと少し落ち着いた。お腹に染みる。トランプも買おうと思ったけど、行ったコンビニにはなかった。

深夜各停

 電車の中で日計りという写真集を見た。私の好きな写真集である。本は読んだと言うのに、写真集は見たと表すのは、文字があるかないかということが読むと見るの違いと認識しているのだろうか。しかし、写真の中にも文字が入っている。それらの多くは看板や貼り紙。飲み屋の名前、貼り紙禁止。 ただ、看板を読んだとはあまり言わないだろう。そうすると、文字が多いと読む、少ないと見たと呼ぶのだろうか。3文字を読むと思うか、見ると思うか。ファッションブランドのロゴを読むのか、見るのか。私は見た。 写真の特性に朧気ながら気づく。この写真集の中にある写真は古くて1990年、新しくて2002年。私が生まれる前のものもあれば、生まれた後のものもある。ただ、2002年の時点で私は思いつく限りでは新宿に一度も行ったことはなかった。その写真の中にいる人、人々、服装、街並み、看板、見た私は時代を感じとった。今のことではないということを。見たことのないことを見た、その場所にいなかったことへのノスタルジー。それは厳密にはノスタルジーではなく、ノスタルジー風である。何がそう思わせるのかはわからない。懐かしさと新鮮さ。行ったことがある土地だと、この場所は通ったことがある、良く行ってた、今もいたりする。しかしそこにまつわる風景は目の前にある写真とは少し違う。その少しの違いというのは例えば、建物が変わっていたり、新しい店ができていたり、その前を横切る人たちが違ったりする。横切る人まで街並みに入れれば一瞬でも同じ瞬間はない。その一瞬というものに何かを感じる、もしくは感じたいと思う人が取り憑かれたように写真を撮ったりするのかもしれない。 日記も2度と同じものは書けないと思う。それは良し悪しとは別の、ただそういう瞬間だったからというのがある。そういう、コントロールのできなさを、たまたま写り込んだもの、それらはノイズであるが一つの魅力なのである。絵にコーヒーをこぼした時、何か予測していなかったことが目の前で起きる時、それらにどう反応するか、頭の中で作り上げたものは外側に出る時、頭の中のものにはならない。それはもどかしさでもあるが現実である。誰もが頭の中のことをそのまま、ただただそのままにいけば、ここで写真を撮る時にこういう人が走り、こういう人は立ち止まり、こういう人は後ろを向いていて、、スタジオではそれが可能かもしれない...