3月最初の日記。期間が空いてしまった。今日は目覚めるとひどい2日酔いだった。近所のスーパーで経口補水液と野菜ジュース、バナナを買って、イートインコーナーで飲み食いした。1日初めの飲み物1口目。ぷはぁと声がでる。あまり気にしていないが、座る時にどっこらせと言うお爺さんになる要素が私にはある。そのまま色んな食材買って自炊。2日酔いというのは、普段思わないことを思うようにできているのか、あぁ、なんでも、丁寧に袋やパッケージに入れられて売られている。もやしの袋然り、納豆は3個入りセットで丁寧に梱包されていて、キチっと積み上げられている。どの梱包も寸分違わず、目に見える違う部分としたら賞味期限の印刷くらい。奥の方に手を伸ばし1番賞味期限が遠い納豆を買った。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の作品を思い出す。あの、本気だけど皮肉でもあるような良くわからないあり方は結構好きだ。なんとなく、ロックの時代の作品という感じがする。華々しさと自分自身や自分が生きている文明に対する自虐が同居している。だからか、ロック音楽のアルバムというものは1曲目で車の自慢をしたかと思えば、2曲目ではダメ人間のバラードになったりしていて、そういう表現の為ピエロ役を買ってでるような所も結構好きだった。まぁ、そうでない人が沢山いるのもわかるけれど、根本的に自分を下げて矛盾を楽しむユーモアがあって、そういう所に今また惹かれはじめている。甲本ヒロトの良さとラップスターの良さは結構違う気がする。と、詳しくないが今のアメリカのラッパーであまり伝統的な感じがしない人、例えばLil uzi vertの曲を聴いたりすると、も、もしかしてふざけているのでしょうかとも感じるので、文化が受け入れられ成熟してくるとちょっとおちゃらける感じの人が求められてくるのかもしれない。
暫く書いてないと指筆がはかどらない。やはりなるべく毎日書くべきだな。無料でできるのだし、何か発見をするのも文章を書いている時が多い。
唐突なコラージュみたいな文章だ。「自分にとって」絵を描くのは、やっぱり何かの為って所がもっとあった方が良いんじゃないかと思っている。今まで、絵を描くことには理由がいる→絵を描くことには理由はいらない という思考の経緯を辿っていたのだが、ここにきて違う形で当初の意識にまた戻った。違う形とは何かを考えるのなら、元々どういう形で理由が必要と思っていたのかを認識しなければならない。メッセージを伝えるんだ、世界平和で... 等、本気で思っていたのだ。ノーベル平和賞を取るのも、何か危険な団体のリーダーになるのもこのタイプだったのだろう。今や良くも悪くもその気持ちは薄れてきてしまった。単純にあまり上手くいかなかったからやり方を変えようということと、生活が全然ダメで、そういう、高尚な理想を持つ、ことは良いと思うのだが、それを掲げて自分はやっているのだと言えるだろうか。言えないのではないか。そんな考えの推移の途中でも机と紙とペンとか絵の具があって、キッチンの絵を描いてみたり、適当に絵の具を塗り散らかしたりしているうちに、別に理想もなければ理由もなければダメなんてことは無く、お腹が空いたらご飯を食べるみたいな生理現象の1つとして制作自体はしていたが、元々の誇大妄想癖かつ、照れ屋のフリをしたミスター自己顕示欲としてはやや欲求不満感もあった。やはり、私は制作だけでなく展示や活動をしていく必要があると思っている。ここで重要なのは活動できるオルタナティブスペースを見つけることだ。おそらく、ホワイトキューブのギャラリーには敬遠されるだろう。あんなわけのわからない人を格式あるこの場所でやらせるのはやめてください!と、口論になっているのが目に浮かぶ。すみません。私の問題かつ、良いところでもあるのは気分のムラである。この全てから宙ぶらりんな感情は使い方を上手くしなければならない。急にカッコつけはじめたり、ふざけはじめたり、社会派になったり、個人主義になったりするので自分含め誰から見てもどう扱って良いのかがわかりにくいのである。このムラはもう腐れ縁として仕方がないとして、作戦を練る必要がある。戦って言葉は嫌いだ。作せん。私の場合、私とは何かという問い(自分探しの旅でインドから帰ってこないタイプ)を薄めにして、場所や雰囲気からはじめる必要がある。絵の展示の形態として、アルコールセット と ノンアルセットに分けてやっていく。ここでは活動名も分ける。アルコールセットが小踊人形、ノンアルセットが劇団ポテズ(仮)である。 ぐでんぐでんで侘び寂びは見えず、静謐な場所で自分の絵の展示なのだとはしゃぎまくっている私はかなりずれていた。ここはひとつ、空間に合わせて自分を発揮していくパフォーマンスと捉えて臨みたい。
ところで、人形劇というものに何か自分の心がざわつきはじめ、そのままざわつき続けている。私の鈍いアンテナがここまで反応しているということは何かがある。勉強して制作に反映していく。
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