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2024年3月7日

3月最初の日記。期間が空いてしまった。今日は目覚めるとひどい2日酔いだった。近所のスーパーで経口補水液と野菜ジュース、バナナを買って、イートインコーナーで飲み食いした。1日初めの飲み物1口目。ぷはぁと声がでる。あまり気にしていないが、座る時にどっこらせと言うお爺さんになる要素が私にはある。そのまま色んな食材買って自炊。2日酔いというのは、普段思わないことを思うようにできているのか、あぁ、なんでも、丁寧に袋やパッケージに入れられて売られている。もやしの袋然り、納豆は3個入りセットで丁寧に梱包されていて、キチっと積み上げられている。どの梱包も寸分違わず、目に見える違う部分としたら賞味期限の印刷くらい。奥の方に手を伸ばし1番賞味期限が遠い納豆を買った。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の作品を思い出す。あの、本気だけど皮肉でもあるような良くわからないあり方は結構好きだ。なんとなく、ロックの時代の作品という感じがする。華々しさと自分自身や自分が生きている文明に対する自虐が同居している。だからか、ロック音楽のアルバムというものは1曲目で車の自慢をしたかと思えば、2曲目ではダメ人間のバラードになったりしていて、そういう表現の為ピエロ役を買ってでるような所も結構好きだった。まぁ、そうでない人が沢山いるのもわかるけれど、根本的に自分を下げて矛盾を楽しむユーモアがあって、そういう所に今また惹かれはじめている。甲本ヒロトの良さとラップスターの良さは結構違う気がする。と、詳しくないが今のアメリカのラッパーであまり伝統的な感じがしない人、例えばLil uzi vertの曲を聴いたりすると、も、もしかしてふざけているのでしょうかとも感じるので、文化が受け入れられ成熟してくるとちょっとおちゃらける感じの人が求められてくるのかもしれない。


暫く書いてないと指筆がはかどらない。やはりなるべく毎日書くべきだな。無料でできるのだし、何か発見をするのも文章を書いている時が多い。


唐突なコラージュみたいな文章だ。「自分にとって」絵を描くのは、やっぱり何かの為って所がもっとあった方が良いんじゃないかと思っている。今まで、絵を描くことには理由がいる→絵を描くことには理由はいらない という思考の経緯を辿っていたのだが、ここにきて違う形で当初の意識にまた戻った。違う形とは何かを考えるのなら、元々どういう形で理由が必要と思っていたのかを認識しなければならない。メッセージを伝えるんだ、世界平和で... 等、本気で思っていたのだ。ノーベル平和賞を取るのも、何か危険な団体のリーダーになるのもこのタイプだったのだろう。今や良くも悪くもその気持ちは薄れてきてしまった。単純にあまり上手くいかなかったからやり方を変えようということと、生活が全然ダメで、そういう、高尚な理想を持つ、ことは良いと思うのだが、それを掲げて自分はやっているのだと言えるだろうか。言えないのではないか。そんな考えの推移の途中でも机と紙とペンとか絵の具があって、キッチンの絵を描いてみたり、適当に絵の具を塗り散らかしたりしているうちに、別に理想もなければ理由もなければダメなんてことは無く、お腹が空いたらご飯を食べるみたいな生理現象の1つとして制作自体はしていたが、元々の誇大妄想癖かつ、照れ屋のフリをしたミスター自己顕示欲としてはやや欲求不満感もあった。やはり、私は制作だけでなく展示や活動をしていく必要があると思っている。ここで重要なのは活動できるオルタナティブスペースを見つけることだ。おそらく、ホワイトキューブのギャラリーには敬遠されるだろう。あんなわけのわからない人を格式あるこの場所でやらせるのはやめてください!と、口論になっているのが目に浮かぶ。すみません。私の問題かつ、良いところでもあるのは気分のムラである。この全てから宙ぶらりんな感情は使い方を上手くしなければならない。急にカッコつけはじめたり、ふざけはじめたり、社会派になったり、個人主義になったりするので自分含め誰から見てもどう扱って良いのかがわかりにくいのである。このムラはもう腐れ縁として仕方がないとして、作戦を練る必要がある。戦って言葉は嫌いだ。作せん。私の場合、私とは何かという問い(自分探しの旅でインドから帰ってこないタイプ)を薄めにして、場所や雰囲気からはじめる必要がある。絵の展示の形態として、アルコールセット と ノンアルセットに分けてやっていく。ここでは活動名も分ける。アルコールセットが小踊人形、ノンアルセットが劇団ポテズ(仮)である。 ぐでんぐでんで侘び寂びは見えず、静謐な場所で自分の絵の展示なのだとはしゃぎまくっている私はかなりずれていた。ここはひとつ、空間に合わせて自分を発揮していくパフォーマンスと捉えて臨みたい。


ところで、人形劇というものに何か自分の心がざわつきはじめ、そのままざわつき続けている。私の鈍いアンテナがここまで反応しているということは何かがある。勉強して制作に反映していく。

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ていぎ

夏バテが続いている。今は布団の上で横になっているところ。さっき、茄子と豚肉の炒め物定食を食べた。最近食が細っているが、食べないとどんどん食べれなくなるのでね。食べよう。 ここまで書いて二時間ほど眠ってしまった。一番気持ちの良い眠り方だ。クーラーをガンガンに効かせて、布団にくるまれた無気力なサナギと化した自分に嫌気がさすが、焦れば焦るほどに無気力であるということを自覚させられるだけなのでやめておく。ゴロゴロする幸せに意識を向ければいい。自炊もめんどくさいので外食。もしくはパンとか弁当とか買って食べるか。私は結構、食べ歩きみたいなのが好きだ。横浜の中華街とかで。落ち着きが無いのだろう。落ち着きが無いというのは悪いこととされるが、果たしてどうなのか。思うに日本は他国と比べて落ち着き度がかなり高い国のように見える。だからなんだ、というのははいのだが、ずっと思っていることだ。思考のゴミ箱だ。 駅に向かった。今まで何回、駅という場所に来て、これから何回、駅という場所に向かうのだろう。小学生の算数の問題がここに。一生において駅に来た回数が多い人と少ない人がいるだろうな。車生活の人々なんかは学生以来電車なんて使ったことない人もいるそうだし。なんか、それはすごく楽しそうだ。マイペースにいけるというか。ただ、怖いのは渋滞だな。 書く文はこんな感じだが、読む文としては、名だたる哲学者の本だったり、ちょいと難解な文が好きだ。全くわからないのでなく、半分くらい内容がわかるような文。私は、考えを固める為に文を読むのでなく、考えを揺らす為に文を読んでいると思う。考えが揺れてまとまらなくなるが、分け隔てなく他者の文を読もうとしているということでもある。しかし固まる為に読みたいという気持ちもわかる。固まる為に読む、知る、聞くなどする場合には、何に触れるかを絞る必要がある。美容を学びたいのであれば、美容を学ぶ人、関心がある人や教える人、本、などなどだが、そもそも美容などいらないという人や文に触れるとなると固まりが解かれたり、意識が足踏みしたりするようになる。ここでいう美容という単語は他の言葉と入れ替えてもいい。芸術でも絵でも音楽でも仕事でも。定義が狭い言葉と広い言葉とあって、狭い言葉について悩む人は少ないが広い言葉について悩む人は非常に多い。私もその一人である。これは爪楊枝である、という考えが人による...

今日も台所から

最近、今日食べる料理と一緒に明日の分も作り置きするという技術を覚えた。昨日は味噌芋煮を4人前くらい作ったので今日も食べたし、なんならまだ少しだけ残っている。タッパーに入れて冷蔵庫に保管しておく。なんかチーズとか入れたり、ご飯と混ぜて食べたりしたい。アレンジアレンジ。編曲、リミックス作業、描いた絵をスキャンしてフォトショップで編集するようなことかな。 水を飲む。喉を通って胃に入っていく。前よりもそのことを感じている。 今日は少し疲れていたのか、早起きはしたものの、その後少し昼寝をしたりと横になっている時間が長い日だった。散歩したり絵を描いたりした。絵を描く時間が前より明らかに短くなっている。もう少し、そのことについても考えたい。長くした方がいいのか、これくらいで良いのか。むしろもう短くしきるべきか。前はとにかく意味もなくひたすら描いてた。今は何か世の中の中に、意味が無ければやってはいけないみたいな感じがダサいみたいな考え方があるっぽいのだが、私の場合は如何に。どちらかというと意味を求める人なのかもしれないと思う。 日付の絵に関しては、漢字でいう草書の描き方と楷書の描き方にわけたいと思っている。サラッとした良さとごてごてした良さがあるはず。間のある力の抜けた魅力と、ごてごてした厳しさや、ビシっと(擬音語)した魅力。水彩と油彩のちがいのような。 話が往復したり重複したりするのだが、自炊の際は写真をたくさん撮ることにしてみる。何の変哲も無いキッチンの玉ねぎの写真やテキスト、四コマやなんかを織り交ぜた本が作れたらいいなと。こんなの作ってみたよという。なんだよ対してインスタとかツイッターとか、そういうのと変わらないんじゃ。。というような内容を紙に印刷して編集するという作業を通してどういう風になっていくのか。ま、とにかく、絵と並行してゆっくりやっていくことですな。なんとなく、忙しくしなければならないという考えを止める。別にじっとしていたり寝ているだけの日があったって良いじゃない。 今日は散文の気分の日だ。言葉遊びをしたくなる。はっぴいえんどを聴いた。無性にアコギが弾きたくなり、少し弾いた。無性にアコギが弾きたくなる音楽というのがある。無性に散歩がしたくなる音楽もあれば、横になりたくなる音楽、踊りたくなる音楽、泣いちゃう音楽?  あと、男の人の方がギター好き率が高い気がする...

慣暑

もう慣れたし大したことないと思いながら外に出て、こんなもんかと思ったのもつかの間、歩けば歩くほど暑すぎる。涼しい歩き方とかないのだろうか。考えてみたが身体が温まる歩き方、体操などはあるが、身体を冷やす体操は無さそうだ。冷やすことに関しては水か氷か科学の力に頼るしか無いのか。冷えピタまでいかない、涼ピタを発明したら売れそうだと思う。16℃くらいの温度が続くシールみたいなものだ。私は首の後ろに貼りたい。お腹に貼るのは腹痛を起こしそうだからやめた方が良い。どうしても貼るというのなら止めはしませんが。発明というのはこういう、そんなこと考えてどうするのよと一蹴される空想からはじまることと、偶然なにかが起きてそれを発明と呼ぶことがあると思う。後者に関してはその人が発明したというよりは発見をしたのである。 電車に乗った。涼しい。電車が暑かったらこの国は地獄だと思う。駅のホームでサンドイッチを食べた。このサンドイッチというのも発明である。それもたかだかパンとパンの間に具を挟むというなんとも素朴なアイディアなのだが、これが美味しい。片手で食べれるという時代を超えた普遍的なインスタントさもある。紙とペンがあれば絵を描けるようにパンと具があればサンドイッチができる。私の好きなインスタントさだ。この敷居の低さは易々と跨ぐことができるがそこには無限の奥深さがある。こういう、シンプルな発明の方が、核反応とか、新しい金融システムとか頭の良い人にしかわからない発明よりも好きだと思う。わかる、から好きなのか。わかる、というか、関われると信じることができること。本当に、ボールから手を離すと下に落ちるくらいのことを見つけていきたい。目の前のものを写生することにその効果を見ることがある。適当に、ズボンだ、とか思っていたものの縫い目が目に入ってくる瞬間は絵を描いたりしないと私の場合は中々生まれてこない。勉強?も兼ねて写生するのは趣味でやりたい。物の構造、葉っぱの形。透けている色と透けない色。