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2024年2月6日

昨日は珍しく雪が降り、今朝起きると雪が積もっていた。踏まれた雪は氷に名前が変わって半透明になる。足跡、タイヤの跡、人がいなくても人の気配を感じる。アスファルト、雪でできた中央分離帯。雪国の人からすると何を今さらなことを新鮮に感じるね。日常の中で異質に見舞われて自身の意識を半分リセットすることが時々必要だ。学校や社会に飽きたり退屈に感じるっていうのは、そこで自分が感じることに飽きているということかもしれない。もし私が余暇すら買い占めた大金持ちだったら自分の感情に飽きる前に旅行に行ったりスポーツしたり、、何するだろうな。想像力が働かない。肝心の私はそういう生活になったことがないのでその生活との向き合い方がわからないかもしれない。


一見地味なものに新しい発見をしたいというのがずっとある。例えば鯉を見て餌をあげることが一日のなによりの楽しみなおじいさんのように。まだそこまでの悟りを得られていないな。文字を書くことが楽しいというのは良いかもしれない。ある程度どこでもできる。ポータブル。そして本当にポータブルなものはパソコンでもスマホでもリュックサックでもなく、その人の意識だと思うんだ。身一つの裸の時も私には意識がある。この、意識というものが色んな文明、文化を作り上げたすごいものだが同時に厄介だ。世界には色んな物質が溢れているが、その気になれば持たないということができるというのに対して、意識というのはその気になっても持たないことができない。これは太古から続く人間の課題なのだろう。それが故に星座が生まれ、農業を発明したことをこうして文字に書く。しかし、そうして欲張り、もしくは理想を持ち発展をしてきたからこその苦しさも同時に発明された。そしてその発明されたものは永遠に残されて逃れられなくなっている。やや唐突だが、ドラッグの問題の多くがここに集約されていると思う。服が気に入らなければ買い替えて違う服を着れるが、意識は気に入らなくても買い替えることができず、ゆりかごから墓場までついてくる。これを価値と見るか、恐怖と見るか。


いつしかそんなことはしなくなったが、昔は風呂に一日に三回も四回も入っていた。それは私が潔癖だからという理由ではなく、悶々と憂鬱が心の中にあって拭えないことに対する抵抗行為であったと思う。シャワーを浴びる。湯船につかる時のその瞬間はパッと憂鬱が晴れるような気がした。というか、個人としての実感からすれば晴れた。しかし、その後何時間も経つと元の憂鬱が帰ってくる。そして今、この瞬間はこのことが初めて言語化できた瞬間である。一定の気分が続くということに非常に閉塞感を感じるのだ。真面目なドキュメンタリーを見た後にふざけたコメディを見てケラケラ笑ったりしていないと窮屈さに押し潰されそうになるのだ。しかし、これは真面目なドキュメンタリーでもふざけたコメディにもなれず常に自身を相対化し続けるどっちつかずの人になり、それではできないことが沢山あるのだが(その思想におけるリーダーとか)、何か余程大きなきっかけでもなければそういう人としてこれからも生きていかざるを得ないのだ。


紙に絵具で絵を描いたりすることで意識を塗り替えたりパレットナイフで削ったりしていきたい。そうしてできたもの。十年前と全然変わっている。信念の無い人と見るか、柔軟と見るか。どちらもだろうな。ニコラ・ブリオーの著作を読みたい。関係性の美学という本を読みたかったのだが、今はラディカントも気になる。気になる星人として色んな哲学に触れたい。なんかこれから、癖強いおじさんになる気がするが、というか今がそうなのかもしれないが、もうそれは良しとしよう。多少ダメとも自分が自分の意思に対して納得したい。

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2024年3月7日

3月最初の日記。期間が空いてしまった。今日は目覚めるとひどい2日酔いだった。近所のスーパーで経口補水液と野菜ジュース、バナナを買って、イートインコーナーで飲み食いした。1日初めの飲み物1口目。ぷはぁと声がでる。あまり気にしていないが、座る時にどっこらせと言うお爺さんになる要素が私にはある。そのまま色んな食材買って自炊。2日酔いというのは、普段思わないことを思うようにできているのか、あぁ、なんでも、丁寧に袋やパッケージに入れられて売られている。もやしの袋然り、納豆は3個入りセットで丁寧に梱包されていて、キチっと積み上げられている。どの梱包も寸分違わず、目に見える違う部分としたら賞味期限の印刷くらい。奥の方に手を伸ばし1番賞味期限が遠い納豆を買った。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の作品を思い出す。あの、本気だけど皮肉でもあるような良くわからないあり方は結構好きだ。なんとなく、ロックの時代の作品という感じがする。華々しさと自分自身や自分が生きている文明に対する自虐が同居している。だからか、ロック音楽のアルバムというものは1曲目で車の自慢をしたかと思えば、2曲目ではダメ人間のバラードになったりしていて、そういう表現の為ピエロ役を買ってでるような所も結構好きだった。まぁ、そうでない人が沢山いるのもわかるけれど、根本的に自分を下げて矛盾を楽しむユーモアがあって、そういう所に今また惹かれはじめている。甲本ヒロトの良さとラップスターの良さは結構違う気がする。と、詳しくないが今のアメリカのラッパーであまり伝統的な感じがしない人、例えばLil uzi vertの曲を聴いたりすると、も、もしかしてふざけているのでしょうかとも感じるので、文化が受け入れられ成熟してくるとちょっとおちゃらける感じの人が求められてくるのかもしれない。 暫く書いてないと指筆がはかどらない。やはりなるべく毎日書くべきだな。無料でできるのだし、何か発見をするのも文章を書いている時が多い。 唐突なコラージュみたいな文章だ。「自分にとって」絵を描くのは、やっぱり何かの為って所がもっとあった方が良いんじゃないかと思っている。今まで、絵を描くことには理由がいる→絵を描くことには理由はいらない という思考の経緯を辿っていたのだが、ここにきて違う形で当初の意識にまた戻った。違う形とは何かを考えるのなら、元々どういう形で...

つづき

apple IDがわからなくなったりして前のiPhoneの引き継ぎが何もできていない。ほぼアナログの生活は気づくことが沢山あった。まとまった量の文章を読むのは紙の本の方が読みやすいということや、普段iPhoneをいじっていた時間が暇になるので頭の中でギャグを考えたりした。気分が晴れない時に考えるギャグは結構面白い。淡々と自分に対しての冷めた視点がでてくる。逆に気分が良い時はギャグを欲していない気もする。四六時中笑っている人が求めるのは意外に禅的なものだったりするのだろうか。 音楽の聴けない散歩はつまらなそうに感じたがやってみると捗った。音楽がある時は意識が音に向かうのだが、ないと行き先の無くなった意識が目の前の景色や自身の考えに向かっていった。考えは徐々に形を変えて増幅し空想になり、膨らみきるとそこに溺れ景色にはとんと興味がなくなってしまう。方向音痴なのはこのあたりにも原因がありそうだ。夕焼けで空の色が変わったり、不思議な形の雲がでてきたりしなければ歩いている中で色や形に興味を持つことはなく、自分の考え(考えというのも言葉だ)や街中の看板、地名、言葉が頭に入ってくる。この名前はなんなのか、意味の中を自分の身体が歩いた。絵を描くには満たない脳を持ち絵を描くにはどうしたら良いだろうか。 印象に残った夕焼けの色や建物の形を覚えているだろうか。私は覚えていない。覚えているといえばほとんど、印象に残ったということだけだ。だから写真を撮ったりするのだろうか。目に焼き付けるということができず、一日経って頭の中で現像してみても抽象としてのイメージしかでてこない。そんな風に、私の視覚はひたすらに一時的な映像の連続として続いてきた。誰しもそんなものなのではないかと思うのは間違いで、人によっては一度通った道はもう忘れず、住んでいる建物の窓の数まで覚えていたりする。建築的視覚とでも言うべきだろうか。それに比べると私の視覚というのは貧弱である。人間の目というものがその人にとって二つまでしか持てない以上、他の目に何が見えているのかというのは永遠にわからない。 思うに、日本の都市型の視覚というのは混乱であるが、雪景色や砂漠にある視覚というのは調和された視覚である。生活の必要から環境に応じて視覚も変化していき、雪景色の中にいる人には私には見えない白が見え、砂漠にいる人には私には見えない砂の色が見え...

ゆうーつ

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