なんとなくのアタリをつけて文章を書いていくことを言葉によるデッサンと例えている人がいるのを見て、私がやってきた、そしてこれからもやっていきたい文の書き方の一つがわかった。何か対象があり、それをデッサンする。鉛筆で下書きを描き、形もへんてこだったりぐちゃぐちゃだったりするが、その中で間違っていると思う線を練り消しで消し、もしくは残し、陰影をつけ、陰影も間違えるがそれを消して形を整えていく。
こうして残したテキストを見ていくと、下手で要領を得ていないが唯一良い所として、新鮮だという感じはいつもする。生っぽい、というか、アール・ブリュットという言葉が浮かぶ。こうして延々と、アタリをつけ続けている。世にある広告の文章の多くはアタリをつけ終えて陰影をつけてフィキサチーフをかけた姿を見ているので良くも悪くも硬直した印象がある。それに慣れているので、生っぽい素人としての文章を書き、それを見ると新鮮に感じられるのかもしれない。マスターテープという言葉があるとデモテープという言葉もある。デモテープというのは、その楽曲のアタリを録音したテープか。
アタリという考え方は自分にとって意識すべきことだ。学者の発表する文は正確でなければならないという制約がある。なんとなくそう思いました、2018年くらい、とか、そういうことではダメなのである。しかし、発表されない段階ではアタリとしての不正確な文やメモを書きまくっているはずなのである。いきなり完成形としての論文が頭の中からでてくるわけではないだろう。それに比べると詩人の詩や歌を歌う人の歌の中にある言葉というのはアタリに近いことが多いかもしれない。具体的、抽象的、象徴的、科学的、神話的、言葉を重ねて横断する自由がその中にはある。その中では意味がわからないということは一概に良いこととも悪いことともいえない。しかし、それが何かのメッセージとしての文章や歌詞としてやっているということであるならば、具体的、現実であるということの地位は格段に上がり、抽象的、空想妄想は軽んじられる。そこに私は少しの寂しさや居場所のなさを覚える。
メッセージ、報連相の世界の感覚から見るならば、激情にかられて書かれた伝達を目的としない紙に書かれた詩や絵が誰にも見られず、ポンと家にあったりすることは単に 無駄 ということになるだろう。そこに抵抗する気持ちがあるが、果たして無駄ではないのかと考えると、無駄だとも...
と、書く時に、言葉にラベルがついていて、というかラベリングするのが言葉の役割なのだが、これは良い言葉、これは悪い言葉という風に考えていることに意識的にならなければならない。
無駄はダメか。有意義は良いのか。豚はなぜ悪口になるのか。豚ってダメか?てかダメって何?
今ちょくちょく読んでいる野生の思考を書いたレヴィ・ストロースは言語を研究していたらしく、この研究者を研究することで得られる所があるかもしれない。まぁ、これもまた無駄なのかもしれないが。
コメント
コメントを投稿