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深夜各停

 電車の中で日計りという写真集を見た。私の好きな写真集である。本は読んだと言うのに、写真集は見たと表すのは、文字があるかないかということが読むと見るの違いと認識しているのだろうか。しかし、写真の中にも文字が入っている。それらの多くは看板や貼り紙。飲み屋の名前、貼り紙禁止。 ただ、看板を読んだとはあまり言わないだろう。そうすると、文字が多いと読む、少ないと見たと呼ぶのだろうか。3文字を読むと思うか、見ると思うか。ファッションブランドのロゴを読むのか、見るのか。私は見た。


写真の特性に朧気ながら気づく。この写真集の中にある写真は古くて1990年、新しくて2002年。私が生まれる前のものもあれば、生まれた後のものもある。ただ、2002年の時点で私は思いつく限りでは新宿に一度も行ったことはなかった。その写真の中にいる人、人々、服装、街並み、看板、見た私は時代を感じとった。今のことではないということを。見たことのないことを見た、その場所にいなかったことへのノスタルジー。それは厳密にはノスタルジーではなく、ノスタルジー風である。何がそう思わせるのかはわからない。懐かしさと新鮮さ。行ったことがある土地だと、この場所は通ったことがある、良く行ってた、今もいたりする。しかしそこにまつわる風景は目の前にある写真とは少し違う。その少しの違いというのは例えば、建物が変わっていたり、新しい店ができていたり、その前を横切る人たちが違ったりする。横切る人まで街並みに入れれば一瞬でも同じ瞬間はない。その一瞬というものに何かを感じる、もしくは感じたいと思う人が取り憑かれたように写真を撮ったりするのかもしれない。


日記も2度と同じものは書けないと思う。それは良し悪しとは別の、ただそういう瞬間だったからというのがある。そういう、コントロールのできなさを、たまたま写り込んだもの、それらはノイズであるが一つの魅力なのである。絵にコーヒーをこぼした時、何か予測していなかったことが目の前で起きる時、それらにどう反応するか、頭の中で作り上げたものは外側に出る時、頭の中のものにはならない。それはもどかしさでもあるが現実である。誰もが頭の中のことをそのまま、ただただそのままにいけば、ここで写真を撮る時にこういう人が走り、こういう人は立ち止まり、こういう人は後ろを向いていて、、スタジオではそれが可能かもしれない。しかし道端で見ず知らずの他人にそんなことを要求するのは無理である。そういう、不確実さの波の中で良いポイントを探して紙に定着させることが気になる。それは、写真の中ではどちらかというと質素な部類なのかもしれない。西洋庭園ではなく、新しい雑草を受け止め魅力に転じさせていく発想。


写真がモノクロであることの、見る人の意識の膨らみも気になる。情報過多に慣れ、私も含めてなんでも受け身になりつつある昨今、情報過小、あるべき情報がそこにない、本当の目には色がついているところが白黒になっていることで、見る人がより、見るということに大して能動的にならなければ見えてこないような感じがある。この、受動的に見る、能動的に見るという区分に関心がある。段々と、能動的に見るということに、見たいという欲に意識が向かっている。絵描きに向かないことに、私は見ることや観察するということの重要性を過小に見ていた。それは見るということを受動的なこととして感じていて、そしてそれしかできなかったからだ。感情記ならやりたいが、観察記みたいなことはやりたくないと思っていた。しかし、それでいうと観察と感情は別のものなのか?見ることは付け加えることにはなり得ないのだろうか。今、私がそうだとしたらそれはただの力不足であるといえる。検索結果や現実に目に映る景色を前にしてただぼーっと立ち尽くしていたりするのは、私のせいである。もっと能動的に、目を凝らさねばならないと感じる。



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