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2024年2月9日

ひどく寝てしまった。疲れてたのだろうか。疲れ、寝て、起きるという生き物のセオリーに私も則っている。猫や他の動物との連帯感を感じる。


久しぶりに自炊をした。自分の為に作るご飯は美味しくないという人もいるが私は美味しく感じる。それは料理が美味しいのではないと思うが、自分が作ったという達成感とアマチュアで荒削りな味付けを新鮮に感じるからだろうか。作り方を言語化できない。塩胡椒ちょっと。醤油をもうちょっと。好きな色をただのノリで混色する感覚だ。自分の為の料理というのはチャレンジャーになることも可能だ。アヴァンギャルド野菜炒め、スパイス味噌汁、和洋折衷丼。商品化不可の誰も知らない個人プレー。


お得意の話が飛び、羽ばたく。学校の先生はできないだろう。何の授業かわからないと心のPTAから苦情がきそうなところだが、サーカスの衣装が気になる。異化効果という言葉が浮かぶ。サーカスの歴史というのは、1770年のイギリスでアストリー•ローヤル演芸劇場で開催されたものがルーツになっているという。服飾には歴史があり、その時代や土地によって、なんとなくここからここまでの範囲というのがあるが、そこからはみ出していることによって服を、行為を、相対化させる装置としてのサーカス。ボタンがデカ過ぎる。そんな帽子を被って、そんな髪型をして、そんなメイクをするのか、その、「そんな」が組み合わさったものがサーカスの衣装になっていく。芸とはなんだろう。直立することは芸にならないが、逆立ちすることは芸になる。あべこべの世界。現実と呼ばれるものとの差異がショーになる。それを見た後に、現実に帰ってきた瞬間、何か生活に対してメタ的になるだろう。そうか、私たちは、足で歩いている。現実からずらされたものの存在を見ることで、現実は少し揺らぎ、新しい可能性を見せる。伝統に対しての余所者が魅せる芸の観客は伝統の中の人が多かったのだと思うが、このことは示唆に富んでいる。伝統や現実と闘うのではなく、非現実の集団が芸を通して異質なものを共存させ、現実を揺さぶり、熱狂させる。


いや、白けていた人もいたのだろう。何か異形の者に仮装した集団が、強固だと信じていた現実の中で新しいレイヤーを作り始めていることに馴染めなかった人もいたことは想像に難くない。


私は様々なレイヤーを味わい、移動してみたい。それらがあるということが自分の喜びである。見上げ、見下ろし、後ろに回って。絵というものが正面性を持っていることに気づく。平面の絵は基本的に、正面から見ることを前提にしていると思う。この点、彫刻は右から、左から、後ろからみることもできる。この角度が良いな、というのもある。右から見ると良い絵というのは想像しづらい。それ、額縁。具象の絵であるならば、彫刻としての3D空間の中に生きる私が紙にイリュージョンを施し、3D的な平面を作り上げるということになる。勿論、描き方にもよるだろうが、奥にあるものは小さくなり、手前にあるものは大きく見える。光が当たり影ができる。光。


電気が生まれて以降の視覚を取り巻く環境はそれ以前とは全く変わったのだろう。夜の街並みはありとあらゆる方向から光が差している。キュビスムの絵が生まれた理由にはこのことも絡んでいるのかもしれない。太陽と月と火に照らされた世界の先に現れた電気的視覚の表現。上下左右から光が降り注ぐ。照らされた人、動物、建物、自然と人工が混ざり、サイボーグ的な環境はいつしか内面化され、電灯は木と同じような自然の一部になった。暗闇の土地は年々照らされるようになり、そこでは夜の意味も変質した。昼間の森の中は、電気以前の視覚と近いのだろう。夜の街、それは繁華街でも住宅街でも、というのは電気以前の視覚とは全く違うはずだ。光源は混乱し、独特の輝きを見せている。



これから夜の帰り道も楽しくできそうだ。段々と、発見することが上手くなってきたと思う。もっと若者だった時の私にプレゼンしたいくらい。なんかわからんけど、こう思うんだよという文章しか書けなかった。それはそれで、初期衝動としての輝きがあったのだが。わけわからないまま美術の本を読んでたのも良かった。キュビスムなんて文字を入力する時に、何か昔入っていた部活のような、懐かしさを感じる。幸せに思う。

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ていぎ

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今日も台所から

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