なにか作られるものは、他者の実生活に対する影響が少ないほどに自由である。勝手に絵を描くことはできるが、勝手にマンションを建てたりすることはできないはずなのである。洋服には着れるという機能があり、建物には住めるという機能があり、時計には時間がわかるという機能がある。絵には、文章にはどんな機能があるだろう。意思、情報の伝達。というのは一つの大きな役割だ。グラフィックデザイン、連絡。しかし、その役割を果たすことを目的としない場合はどうだろうか。ファインアートや小説。小説を全然読んでこなかったのでこれから読みたい。退屈や憂鬱に飲み込まれる前に楽しみを作っていく意識は重要だ。私は意外と堅物なのか、楽しむということが非常に苦手だったように思う。その分、楽しい時があまりにも楽しそうなので、ちょっと変な人なのではないかとなってしまう。
小説とはなんだ。中説や大説もあるのだろうか。最近この、見知った単語に疑問を持つことが私の中で流行している。去年見ていたThe three stoogesの影響もあるのだろうか。彼らはアメリカで活動した三人組のユダヤ人コメディアンで、内容はスラップスティックコメディという、動きで魅せるタイプのコメディ(チャップリンとか)で、英語がわからなくても楽しめるのだが、その中ででてくるセリフがなんというか、英語という言語に対してボケるような感じなのである。三人の中で誰かが言ったことに対して一人がme tooと言い、もう一人がme threeと言うといった具合に。こう、文章で書くと全く面白くないのだが。まるでThe three stoogesがつまらないみたいだ。すまん。ラリー、カリー、モー。
私は文章を書くことも読むことも非常に好きで、小説を自分で書くということも試みたことも何度かあるのだがその全て挫折した理由は、見ての通り、文の中にまとまりや脈絡を持たせられないというのがあった。もしもう一度書くとしたらしっかりテーマを決めてそこから逸れないように書くべきだ。この、脈絡の無さというのは現代っ子ぽいと思う。ツイッターのタイムラインや、日本の看板だらけの繁華街。体系化されていない断片がコラージュされた文章。時折、良いことを書いていたり鋭い発見があったりする。そして、この日記はそれで良しとして、言葉で遊ぶことで自分の中を掘り下げて考えをえぐりだしたり、新しい発見を組み合わせたりする場所にしたい。そして2月の3日に決めたように、極々個人的なことか遠いことを書いていく。
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