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2024年2月14日

なにか作られるものは、他者の実生活に対する影響が少ないほどに自由である。勝手に絵を描くことはできるが、勝手にマンションを建てたりすることはできないはずなのである。洋服には着れるという機能があり、建物には住めるという機能があり、時計には時間がわかるという機能がある。絵には、文章にはどんな機能があるだろう。意思、情報の伝達。というのは一つの大きな役割だ。グラフィックデザイン、連絡。しかし、その役割を果たすことを目的としない場合はどうだろうか。ファインアートや小説。小説を全然読んでこなかったのでこれから読みたい。退屈や憂鬱に飲み込まれる前に楽しみを作っていく意識は重要だ。私は意外と堅物なのか、楽しむということが非常に苦手だったように思う。その分、楽しい時があまりにも楽しそうなので、ちょっと変な人なのではないかとなってしまう。



小説とはなんだ。中説や大説もあるのだろうか。最近この、見知った単語に疑問を持つことが私の中で流行している。去年見ていたThe three stoogesの影響もあるのだろうか。彼らはアメリカで活動した三人組のユダヤ人コメディアンで、内容はスラップスティックコメディという、動きで魅せるタイプのコメディ(チャップリンとか)で、英語がわからなくても楽しめるのだが、その中ででてくるセリフがなんというか、英語という言語に対してボケるような感じなのである。三人の中で誰かが言ったことに対して一人がme tooと言い、もう一人がme threeと言うといった具合に。こう、文章で書くと全く面白くないのだが。まるでThe three stoogesがつまらないみたいだ。すまん。ラリー、カリー、モー。



私は文章を書くことも読むことも非常に好きで、小説を自分で書くということも試みたことも何度かあるのだがその全て挫折した理由は、見ての通り、文の中にまとまりや脈絡を持たせられないというのがあった。もしもう一度書くとしたらしっかりテーマを決めてそこから逸れないように書くべきだ。この、脈絡の無さというのは現代っ子ぽいと思う。ツイッターのタイムラインや、日本の看板だらけの繁華街。体系化されていない断片がコラージュされた文章。時折、良いことを書いていたり鋭い発見があったりする。そして、この日記はそれで良しとして、言葉で遊ぶことで自分の中を掘り下げて考えをえぐりだしたり、新しい発見を組み合わせたりする場所にしたい。そして2月の3日に決めたように、極々個人的なことか遠いことを書いていく。




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ていぎ

夏バテが続いている。今は布団の上で横になっているところ。さっき、茄子と豚肉の炒め物定食を食べた。最近食が細っているが、食べないとどんどん食べれなくなるのでね。食べよう。 ここまで書いて二時間ほど眠ってしまった。一番気持ちの良い眠り方だ。クーラーをガンガンに効かせて、布団にくるまれた無気力なサナギと化した自分に嫌気がさすが、焦れば焦るほどに無気力であるということを自覚させられるだけなのでやめておく。ゴロゴロする幸せに意識を向ければいい。自炊もめんどくさいので外食。もしくはパンとか弁当とか買って食べるか。私は結構、食べ歩きみたいなのが好きだ。横浜の中華街とかで。落ち着きが無いのだろう。落ち着きが無いというのは悪いこととされるが、果たしてどうなのか。思うに日本は他国と比べて落ち着き度がかなり高い国のように見える。だからなんだ、というのははいのだが、ずっと思っていることだ。思考のゴミ箱だ。 駅に向かった。今まで何回、駅という場所に来て、これから何回、駅という場所に向かうのだろう。小学生の算数の問題がここに。一生において駅に来た回数が多い人と少ない人がいるだろうな。車生活の人々なんかは学生以来電車なんて使ったことない人もいるそうだし。なんか、それはすごく楽しそうだ。マイペースにいけるというか。ただ、怖いのは渋滞だな。 書く文はこんな感じだが、読む文としては、名だたる哲学者の本だったり、ちょいと難解な文が好きだ。全くわからないのでなく、半分くらい内容がわかるような文。私は、考えを固める為に文を読むのでなく、考えを揺らす為に文を読んでいると思う。考えが揺れてまとまらなくなるが、分け隔てなく他者の文を読もうとしているということでもある。しかし固まる為に読みたいという気持ちもわかる。固まる為に読む、知る、聞くなどする場合には、何に触れるかを絞る必要がある。美容を学びたいのであれば、美容を学ぶ人、関心がある人や教える人、本、などなどだが、そもそも美容などいらないという人や文に触れるとなると固まりが解かれたり、意識が足踏みしたりするようになる。ここでいう美容という単語は他の言葉と入れ替えてもいい。芸術でも絵でも音楽でも仕事でも。定義が狭い言葉と広い言葉とあって、狭い言葉について悩む人は少ないが広い言葉について悩む人は非常に多い。私もその一人である。これは爪楊枝である、という考えが人による...

今日も台所から

最近、今日食べる料理と一緒に明日の分も作り置きするという技術を覚えた。昨日は味噌芋煮を4人前くらい作ったので今日も食べたし、なんならまだ少しだけ残っている。タッパーに入れて冷蔵庫に保管しておく。なんかチーズとか入れたり、ご飯と混ぜて食べたりしたい。アレンジアレンジ。編曲、リミックス作業、描いた絵をスキャンしてフォトショップで編集するようなことかな。 水を飲む。喉を通って胃に入っていく。前よりもそのことを感じている。 今日は少し疲れていたのか、早起きはしたものの、その後少し昼寝をしたりと横になっている時間が長い日だった。散歩したり絵を描いたりした。絵を描く時間が前より明らかに短くなっている。もう少し、そのことについても考えたい。長くした方がいいのか、これくらいで良いのか。むしろもう短くしきるべきか。前はとにかく意味もなくひたすら描いてた。今は何か世の中の中に、意味が無ければやってはいけないみたいな感じがダサいみたいな考え方があるっぽいのだが、私の場合は如何に。どちらかというと意味を求める人なのかもしれないと思う。 日付の絵に関しては、漢字でいう草書の描き方と楷書の描き方にわけたいと思っている。サラッとした良さとごてごてした良さがあるはず。間のある力の抜けた魅力と、ごてごてした厳しさや、ビシっと(擬音語)した魅力。水彩と油彩のちがいのような。 話が往復したり重複したりするのだが、自炊の際は写真をたくさん撮ることにしてみる。何の変哲も無いキッチンの玉ねぎの写真やテキスト、四コマやなんかを織り交ぜた本が作れたらいいなと。こんなの作ってみたよという。なんだよ対してインスタとかツイッターとか、そういうのと変わらないんじゃ。。というような内容を紙に印刷して編集するという作業を通してどういう風になっていくのか。ま、とにかく、絵と並行してゆっくりやっていくことですな。なんとなく、忙しくしなければならないという考えを止める。別にじっとしていたり寝ているだけの日があったって良いじゃない。 今日は散文の気分の日だ。言葉遊びをしたくなる。はっぴいえんどを聴いた。無性にアコギが弾きたくなり、少し弾いた。無性にアコギが弾きたくなる音楽というのがある。無性に散歩がしたくなる音楽もあれば、横になりたくなる音楽、踊りたくなる音楽、泣いちゃう音楽?  あと、男の人の方がギター好き率が高い気がする...

慣暑

もう慣れたし大したことないと思いながら外に出て、こんなもんかと思ったのもつかの間、歩けば歩くほど暑すぎる。涼しい歩き方とかないのだろうか。考えてみたが身体が温まる歩き方、体操などはあるが、身体を冷やす体操は無さそうだ。冷やすことに関しては水か氷か科学の力に頼るしか無いのか。冷えピタまでいかない、涼ピタを発明したら売れそうだと思う。16℃くらいの温度が続くシールみたいなものだ。私は首の後ろに貼りたい。お腹に貼るのは腹痛を起こしそうだからやめた方が良い。どうしても貼るというのなら止めはしませんが。発明というのはこういう、そんなこと考えてどうするのよと一蹴される空想からはじまることと、偶然なにかが起きてそれを発明と呼ぶことがあると思う。後者に関してはその人が発明したというよりは発見をしたのである。 電車に乗った。涼しい。電車が暑かったらこの国は地獄だと思う。駅のホームでサンドイッチを食べた。このサンドイッチというのも発明である。それもたかだかパンとパンの間に具を挟むというなんとも素朴なアイディアなのだが、これが美味しい。片手で食べれるという時代を超えた普遍的なインスタントさもある。紙とペンがあれば絵を描けるようにパンと具があればサンドイッチができる。私の好きなインスタントさだ。この敷居の低さは易々と跨ぐことができるがそこには無限の奥深さがある。こういう、シンプルな発明の方が、核反応とか、新しい金融システムとか頭の良い人にしかわからない発明よりも好きだと思う。わかる、から好きなのか。わかる、というか、関われると信じることができること。本当に、ボールから手を離すと下に落ちるくらいのことを見つけていきたい。目の前のものを写生することにその効果を見ることがある。適当に、ズボンだ、とか思っていたものの縫い目が目に入ってくる瞬間は絵を描いたりしないと私の場合は中々生まれてこない。勉強?も兼ねて写生するのは趣味でやりたい。物の構造、葉っぱの形。透けている色と透けない色。