日記の更新が空いてしまった。今月最後の日。今年はうるう年なのか。毎年変わらず時間が経つのは早いような遅いような。今年は何があったっけな。と、まだ2月よ。そして3月は誕生日がある。誕生日に関しては時が経つに連れてどうでもよくなっている。誕生日という話題で誰かと盛り上がることもほとんどなくなってしまったように思う。まあ、もっと他の話題ができたのだが、老後のこととか!?早い早い。と、そんなこと思っている間にあっという間よという理屈もわかるのだが、得てして人が未来のことを語る時、今の社会システムがそのままに、今の70歳のように自分も70歳になるのだというような何か確信みたいなのを持っていることが多くあり、私にはそれが良くわからない。その確信に基づくからこそ様々な保険なりが成り立つのだろう。その、保険の会社なりはなぜ何十年も先も存続していて、こうしたらこうするという約束をできるのだろうか。私は、私が60歳である時にこうするという約束は何もできない。生きてるかも、死んでるかもわからないし、全くイメージがつかない。この、イメージがつかないというのは何も悪いことでないのだが、どうやら恐れる人もいるようだ。こうで、こうで、こうなっているはずなんだ、違ったらどうしよう、と。この、自分の設定したこだわりがギャップを生んで自分を苦しめることは良くある。私は結構この先が長いことに対してのほほんとしていられるのは、このこだわりが薄いからか。ただ、堅い生活をずっと続けていた人なら違うのかな。何処かで、不安を感じなければという本能があるのだろうか。毎日ちょっと不安で、ずっと先のことを不安になれない。
書いているのは布団の中。30分前に起きたばかり。私はしばしば、起きてしばらく特に身にならないYouTubeを見て、ふぇぇ とか ワッハハハ とか かぁぁぁ とかやっている。一分一秒無駄にしたくない人からすればかなりムカつく人間だ。と、一分一秒も無駄にしたくなかった時があったことも思い出す。私にはあまり合わなかったと思う。何って、自分の好きな文化はあらゆる愛しの無駄から生まれてるんだから。観光なんかで、ここもここもこここもここもここもここもと詰め込み過ぎて、この美術館を30分で回らなきゃいけない。ひぃ、写真撮らなきゃとなるのがあんまり好きじゃない。「写真を撮る」という行為は、無駄じゃなかったことの確認みたいな意味合いもあるのかな。何か切迫感を感じる。写真も撮らず、旅先でゴロゴロしたりしているのが一番贅沢なのかもしれない。て、それは流石に勿体無いと思うのだが、昔にわかバックパッカーした時はそういう人が意外といた。あれは多分、日常の自分から離れた所で自分を感じる瞑想なのだろう。日常の自分を規定するあらゆるものから離れて初めて感じられることを感じようと努めているのかな。そういう意味では、この日記を書くことは私の中で瞑想的な時間になっている。文章を書く時は独り言なんかも言わないし、カッと言葉の世界に入って日常のことはその他の扱いにできている気がする。
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