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2024年2月29日

日記の更新が空いてしまった。今月最後の日。今年はうるう年なのか。毎年変わらず時間が経つのは早いような遅いような。今年は何があったっけな。と、まだ2月よ。そして3月は誕生日がある。誕生日に関しては時が経つに連れてどうでもよくなっている。誕生日という話題で誰かと盛り上がることもほとんどなくなってしまったように思う。まあ、もっと他の話題ができたのだが、老後のこととか!?早い早い。と、そんなこと思っている間にあっという間よという理屈もわかるのだが、得てして人が未来のことを語る時、今の社会システムがそのままに、今の70歳のように自分も70歳になるのだというような何か確信みたいなのを持っていることが多くあり、私にはそれが良くわからない。その確信に基づくからこそ様々な保険なりが成り立つのだろう。その、保険の会社なりはなぜ何十年も先も存続していて、こうしたらこうするという約束をできるのだろうか。私は、私が60歳である時にこうするという約束は何もできない。生きてるかも、死んでるかもわからないし、全くイメージがつかない。この、イメージがつかないというのは何も悪いことでないのだが、どうやら恐れる人もいるようだ。こうで、こうで、こうなっているはずなんだ、違ったらどうしよう、と。この、自分の設定したこだわりがギャップを生んで自分を苦しめることは良くある。私は結構この先が長いことに対してのほほんとしていられるのは、このこだわりが薄いからか。ただ、堅い生活をずっと続けていた人なら違うのかな。何処かで、不安を感じなければという本能があるのだろうか。毎日ちょっと不安で、ずっと先のことを不安になれない。


書いているのは布団の中。30分前に起きたばかり。私はしばしば、起きてしばらく特に身にならないYouTubeを見て、ふぇぇ とか ワッハハハ とか  かぁぁぁ とかやっている。一分一秒無駄にしたくない人からすればかなりムカつく人間だ。と、一分一秒も無駄にしたくなかった時があったことも思い出す。私にはあまり合わなかったと思う。何って、自分の好きな文化はあらゆる愛しの無駄から生まれてるんだから。観光なんかで、ここもここもこここもここもここもここもと詰め込み過ぎて、この美術館を30分で回らなきゃいけない。ひぃ、写真撮らなきゃとなるのがあんまり好きじゃない。「写真を撮る」という行為は、無駄じゃなかったことの確認みたいな意味合いもあるのかな。何か切迫感を感じる。写真も撮らず、旅先でゴロゴロしたりしているのが一番贅沢なのかもしれない。て、それは流石に勿体無いと思うのだが、昔にわかバックパッカーした時はそういう人が意外といた。あれは多分、日常の自分から離れた所で自分を感じる瞑想なのだろう。日常の自分を規定するあらゆるものから離れて初めて感じられることを感じようと努めているのかな。そういう意味では、この日記を書くことは私の中で瞑想的な時間になっている。文章を書く時は独り言なんかも言わないし、カッと言葉の世界に入って日常のことはその他の扱いにできている気がする。

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ていぎ

夏バテが続いている。今は布団の上で横になっているところ。さっき、茄子と豚肉の炒め物定食を食べた。最近食が細っているが、食べないとどんどん食べれなくなるのでね。食べよう。 ここまで書いて二時間ほど眠ってしまった。一番気持ちの良い眠り方だ。クーラーをガンガンに効かせて、布団にくるまれた無気力なサナギと化した自分に嫌気がさすが、焦れば焦るほどに無気力であるということを自覚させられるだけなのでやめておく。ゴロゴロする幸せに意識を向ければいい。自炊もめんどくさいので外食。もしくはパンとか弁当とか買って食べるか。私は結構、食べ歩きみたいなのが好きだ。横浜の中華街とかで。落ち着きが無いのだろう。落ち着きが無いというのは悪いこととされるが、果たしてどうなのか。思うに日本は他国と比べて落ち着き度がかなり高い国のように見える。だからなんだ、というのははいのだが、ずっと思っていることだ。思考のゴミ箱だ。 駅に向かった。今まで何回、駅という場所に来て、これから何回、駅という場所に向かうのだろう。小学生の算数の問題がここに。一生において駅に来た回数が多い人と少ない人がいるだろうな。車生活の人々なんかは学生以来電車なんて使ったことない人もいるそうだし。なんか、それはすごく楽しそうだ。マイペースにいけるというか。ただ、怖いのは渋滞だな。 書く文はこんな感じだが、読む文としては、名だたる哲学者の本だったり、ちょいと難解な文が好きだ。全くわからないのでなく、半分くらい内容がわかるような文。私は、考えを固める為に文を読むのでなく、考えを揺らす為に文を読んでいると思う。考えが揺れてまとまらなくなるが、分け隔てなく他者の文を読もうとしているということでもある。しかし固まる為に読みたいという気持ちもわかる。固まる為に読む、知る、聞くなどする場合には、何に触れるかを絞る必要がある。美容を学びたいのであれば、美容を学ぶ人、関心がある人や教える人、本、などなどだが、そもそも美容などいらないという人や文に触れるとなると固まりが解かれたり、意識が足踏みしたりするようになる。ここでいう美容という単語は他の言葉と入れ替えてもいい。芸術でも絵でも音楽でも仕事でも。定義が狭い言葉と広い言葉とあって、狭い言葉について悩む人は少ないが広い言葉について悩む人は非常に多い。私もその一人である。これは爪楊枝である、という考えが人による...

今日も台所から

最近、今日食べる料理と一緒に明日の分も作り置きするという技術を覚えた。昨日は味噌芋煮を4人前くらい作ったので今日も食べたし、なんならまだ少しだけ残っている。タッパーに入れて冷蔵庫に保管しておく。なんかチーズとか入れたり、ご飯と混ぜて食べたりしたい。アレンジアレンジ。編曲、リミックス作業、描いた絵をスキャンしてフォトショップで編集するようなことかな。 水を飲む。喉を通って胃に入っていく。前よりもそのことを感じている。 今日は少し疲れていたのか、早起きはしたものの、その後少し昼寝をしたりと横になっている時間が長い日だった。散歩したり絵を描いたりした。絵を描く時間が前より明らかに短くなっている。もう少し、そのことについても考えたい。長くした方がいいのか、これくらいで良いのか。むしろもう短くしきるべきか。前はとにかく意味もなくひたすら描いてた。今は何か世の中の中に、意味が無ければやってはいけないみたいな感じがダサいみたいな考え方があるっぽいのだが、私の場合は如何に。どちらかというと意味を求める人なのかもしれないと思う。 日付の絵に関しては、漢字でいう草書の描き方と楷書の描き方にわけたいと思っている。サラッとした良さとごてごてした良さがあるはず。間のある力の抜けた魅力と、ごてごてした厳しさや、ビシっと(擬音語)した魅力。水彩と油彩のちがいのような。 話が往復したり重複したりするのだが、自炊の際は写真をたくさん撮ることにしてみる。何の変哲も無いキッチンの玉ねぎの写真やテキスト、四コマやなんかを織り交ぜた本が作れたらいいなと。こんなの作ってみたよという。なんだよ対してインスタとかツイッターとか、そういうのと変わらないんじゃ。。というような内容を紙に印刷して編集するという作業を通してどういう風になっていくのか。ま、とにかく、絵と並行してゆっくりやっていくことですな。なんとなく、忙しくしなければならないという考えを止める。別にじっとしていたり寝ているだけの日があったって良いじゃない。 今日は散文の気分の日だ。言葉遊びをしたくなる。はっぴいえんどを聴いた。無性にアコギが弾きたくなり、少し弾いた。無性にアコギが弾きたくなる音楽というのがある。無性に散歩がしたくなる音楽もあれば、横になりたくなる音楽、踊りたくなる音楽、泣いちゃう音楽?  あと、男の人の方がギター好き率が高い気がする...
カフェインとらないようにしてみたら見事動けず、転がってyoutubeを眺める時間が長い一日を過ごしたのは私だけではないだろう。なんでか私は歴史とか、言語に行きがちなのだが。エンタメを吸収する時間が少ないような、もしくはエンタメでないものまでエンタメになっているような。その中でも勿論、シリアスなものから軽いものまであるけれど、この所はずっと軽いものを知ろうとしている。疲れ気味なのかこの時代のこの場所における当事者意識が薄くなってしまっているようだ。この時代しか、過ごせないのにねー。違和感は沢山。バランスとしては、自分が生まれる前の文化を振り返る、みたいな感じがしっくりくる。今できることはなんなのだろうな。この所も元気がでてきたらもっと詰めて考えていきたい。なんとなくモヤモヤと、経済観がテーマになるような気がしている。世界的な一つの経済観を志向するのでなく、オルタナティブな経済がそこかしこにあるようなあり方。これも歴史に学ばねばうまくいかないだろう。自分にとって親しみやすいか親しみ辛いかは別として、こういうあり方があるということ自体は幾つでも知っておきたい。私は触れるということとそうなるということは別物だと思っている。わかりにくいか。運動をするということと身体を動かすのが好きだということは違うということや、美術史の本を読んでいると果たして美術に興味があるのかということ。読まざるを得ないみたいなこともあるかもしれないし、今まで興味が無かったので興味を持ってみようという動機もあるかもしれない。それがそのままその人の関心になったりならなかったりする。