今の今まで関心が比較的薄かった、技術的な方向に意識が向かっている。その理由の一つに、情緒的なものの限界を感じたからだということがある。正確には、情緒的なものの他者との関わりの限界というべきか。これは、紙にアクリル絵の具で描かれた絵である。ということは共有可能なことであるが、そこに纏わる思いは移ろいやすく、その実態を捕まえようとしてもできない。なぜなら思いや情緒、ドライにいうと意識というものが目に見えないものだからだ。文字の発明の理由、それを介した様々な書物が生まれたのは、その目に見えないものを見えるものとして定着させたいという欲求があったからか。話す言葉は目に映らず音になる。その音は文字になるまで目の世界に生きていなかった。口からでる言葉は音楽に近く、文字になる言葉は絵に近い。
このあたり、自分の感じていること、それは感じるということについて感じていることの近くを文にできていると思うのだが、核心をつくほどには言語化できていない。指が止まる。
ボールを手に持つ。手を放す。ボールが下に落ちる。ということと、こういう状況がある。こうなる。その人は嬉しいなどということを一緒にしてはいけない。人の感じることをマニュアル化したりされたりするのは危険なことだ。そしてそのことこそが私が情緒的なものの限界と感じる理由である。
人による、そして、それでいいことそれがいいことが何か基準を持つことの難しさというか。
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