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2024年2月21日

朝起きたての時と、夜眠る前で違う考え方になっているのは、起きた瞬間に忘れるが眠っていた時に見ていた夢があって、それを無意識に引きずっているんだろうか。そのまましばらく起きて生活をして、現実を吸収して、眠る間に夢を吸収する。起きた直後はドリーミーでスピリチュアルな感覚で、眠る直前はリアルで俗な感覚だろうか。夢を見る人見ない人がいるが、一人の中に複数の世界があることは良いことだと思う。活発な世界(時間)、思索に耽る世界(時間)、ボーッとする世界(時間)、ここでいう世界というのは時間のことか。複数の世界があるとは色んな時間を持つということだ。そして、それら複数の世界が一つの世界に混ざることを現代人は夢想(サンドイッチを食べながら仕事をする)したりするわけだが、私はなるだけ分けていきたい。そうしないと私のようなズボラはすぐにだらしなくなってしまう。かと思えばなんだか几帳面な所もあるのだが、この、ズボラさと几帳面さを人間は何処かで併せ持っているはず、しかしこのボタンを掛け違えると、肝心なところが適当で変なことに細かい謎の思考になってしまう。この謎の向こうにも何かがある気持ちもするのだが、一旦置いておく。


この、謎の迷宮をウロウロし続ける私が意識すべきは、やり過ぎず楽しくウロウロするのは肥やしになるから良しとすること。逆にあまりにやり過ぎや、なにか嫌な気分がする時は避けるということだ。ウロウロしていいこととしないことも分けて考えるようにする。何年でも考え続けたり、ああでもないこうでもないとしていることが魅力になっていくようなものと、パッと判断して決めた方がいいこと。もう少し、パッと決めることをがんばる

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GW1

今日は一日の途中でゴールデンウィークだと気づいた。なんとなく街並みの雰囲気も違ったからだ。路上でレッドホットチリペッパーズのコピーをやっている人たちがいてすごく良かった。ちょっとだけ踊った。can't stop addicted to the sinding. 世の中の連休といえば私にとっては昔から、忙しい日であるのだ。 世間はなんとかですねえと言ったり思ったりする時、狭く思うならそこは世間の外側、広くいくなら内側である。で、最近は内側にいるなと思っている。 iPhoneにデフォルトで内蔵されているgaragebandという音楽の打ち込みができるアプリがあるのだが、昨日今日とそれで少し遊んだりした。無料なのにあんなこともこんなこともワンタッチでできて、なんだか自分がすごい音楽をやっている人みたいな気持ちになった。気づいたら時間がたってて、気持ちはスクリレックスだったね。て、garagebandがすごいだけなのだが。少しDTMをやることに興味が向かっている。ゲームボーイを改造して色んな線をつなぎ、音楽をやったりするやつをやりたい。 楽器のビジュアルに対して多くの人が何か特定のイメージを持っている訳だけど、例えばこれがそもそもは楽器でないものを楽器にした時にどんな音楽が生まれるか、あるいは生もうとするか。そこにはそもそものイメージがない。イメージがないものをやる時に新しくイメージを生もうとしたり、ビジョンを改めて考えたりする必要に迫られるのではないか。抽象的な日記になった。

片付け

部屋の片付けをしようしようと試みるが遅々として進まず、なぜこんなに単純なことができないのかと悩む。何から手をつけて良いかわからない。イメージが湧かないのだ。 こういう部屋にしたい、するという目標があればできるのだろうか。その目標が持てない。特に無いのだろう。私にあるのは快適なのが良い、散らかっているより片付いていた方が良いはずという抽象的過ぎる意思だ。 夏バテ気味であまり調子が良くない。これも色々進まないことの原因だろう。ちょっと休むのも良いかもしれないと、横になり大きく伸びをした。日記が下手になっていることに気づいた。リハビリとして適当に書いてみる。お腹の調子が悪い。しじみの味噌汁を飲もう。ああいう、プハア系の飲み物が好きだ。そういう意味では、炭酸飲料も味噌汁も似ている。似ても似つかない二つの飲み物は、プハア系というジャンルによって結びついた。こういう、名付けによって関係なさそうなものが一緒のグループになることが気になる。 コンビニに行ってしじみではなくあさりの味噌汁を買った。なぜだか大きな貝の方が魅力的に見えた。お湯を注ぐ。店の外では電灯の光に向かって虫たちが突撃していた。夏の風物詩であり、昔は何故そんな行動をするのか意味がわからず怖かった記憶があるが、今はどちらかというと共感している。懸命に生きていく。 暑い疲れたお腹痛いというかなり駄目な独り言を言った。味噌汁を飲むと少し落ち着いた。お腹に染みる。トランプも買おうと思ったけど、行ったコンビニにはなかった。

深夜各停

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