昨日も一昨日も、ゆりかごから墓場までという言葉を使ってしまった。何か恥ずかしい。小学生の時の作文を思いだす。同じ単語が何度も重複すると、何かくどさを感じてしまう。黄色い靴に、黄色いズボン、黄色い上着と黄色い帽子、それはそれで突き抜けていて良い気もするが、どこかで避けていた自分がいた。文章の中で浮いている文字も気になる。一、二、三、4、五、六、七、八。
トイレ、お手洗い、化粧室、便所、同じことを指していてもそれぞれの単語が持っている色があって、それらが調和していない時にクオリティが下がるような気もするが、同時に上述した一、二、三、4...のように、何か新しい色が生まれそうな雰囲気も感じる。テレビがついていて、十五分間の中に暗いニュースとスポーツのニュースと政治のニュースと星占いがあるような、コラージュ的な意味の連なり。それは紙の上にインクの跡があり、アクリル絵の具が塗られ、写真が貼られている。写真は、イラストの写真だ。意味が重なると一つ一つの意味が薄れていく。それは歳を重ねると見たものや感じたことが朧げになっていくこととも重なる。あの時悩んでいたことはもうどうでもよくなってしまった。それは良いことだけれど、同時に嬉しかったこともどうでもよくなっている気もする。カメラ小僧的な人生を送る人がいるけれど、これはそのことと繋がっていると思う。記録することに対する熱。
カメラ小僧っていうのはあんまり良い言い方じゃない気がするな。それじゃなんだろう。カメラ僧? 僧侶は何か関係があるのだろうか。日本語とは別の言語を母語とする人が日本語を見つめる感覚があって、その距離に色んなヒントが隠されていると思う。私は、いや、僕は、俺は、あたしは、自分は、なんて自分のことを呼んだ方が良いと思うかと問われたとしよう。どう答えるのだろうか。まぁ、自由なんじゃない。俺はそう思うよ。でもその、俺っていうのはなんなのと問われると確かに、何なんだろうな。俺という単語の歴史。なんだか竜のようにも見えてきたがちょっと違う。俺は申みたいな文字で竜は甲みたいな文字だ。漢字は文字自体が意味を持っている。アルファベットは文字自体が意味を持っていない("I"という文字は例外だが)。色んな言語が気になるが、学んで自分のものにしたいほどの熱がないので、色んな国の言葉を話せる人が気づくことや言語学者に学びたい。何で気になるって絶対、考え方や社会がそこで使われている言葉によって変わるはずだもの。
今日は知らない言葉を話す人がいて、話された人が笑っていた。多分何か、面白いことだったのだろう。
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