BLACKHOLEという映画評論家の人たちが色んな映画を批評したりああでもないこうでもないと話すYouTubeチャンネルがあり、それの音声だけ聴きながら絵を描いている。 サブスクで色んな映画を見たり音楽を聴いたりできて、誰しもなんか言いたくなるのか評論家っぽくなりがちな今、批評、評論というものが何か薄っぺらくなっているからかむしろ評論家ですという人をすごいと感じる。私は書いたことないのだが、レビューサイトというのだろうか、5つ星のうち星をいくつかつけて、感想を書く。ひたすら簡単だ。何か良いこと言った気にもなれるし... これも一つの評論なのだろう。大抵あまり参考にならず、子どもたちに夢を見させる為のアニメーション映画を見て、綺麗事だねとか言っちゃいかねない雰囲気がそこにはあるのだが、評論家と名乗る人たちは感想を抱く、見たものを説明するということを魅力的にすることを心がけていて、批評が一つの作品になっているようだ。
私がなにか作りたいと思うのは、批評するという行為が苦手だからというのもあるだろう。この人の作ったあらすじはこうですと言って、全然違ったら、ただの思い込みだったら... こうして日記を書くことも含めて段々と、レビューする為の言葉を学んでいきたいとも考えている。自分から何かを作る行為と他人が作ったものをレビューする行為の違いの一つに、後者の方が簡単に感じるということがあると思う。しかし、簡単だからこその難しさというものが存在するはずである。
作者と観客の関係性の中にも様々なグラデーションがあり、音楽を演奏する人とDJ、2024 S/Sの新作と古着屋、絵を描いて、しばらく置いて、また見る時、その時の自分は観客という感じもする。生きていて時が過ぎると今の自分が昔の自分に対しての観客にもなり得るというか。恥ずかしいことばかりなのだが。こういう、半観客という感覚が気になる。DJはプレイヤーであると同時にリスナーである。古着屋は売る量より買わなければならない。そうして作者と観客の間を行き来することで成り立っているのだろう。
電車の中で書いていてもうすぐ目的地に着くので筆(指)を置きたいがオチがない。漫才に向かないだろう。 こうして何か自分の発見みたいなことを書いていて、後から200年前にもっと精度の高い形で発見されていたことを知ったりするが、それで良いのである。それを知るのも先に気になっていたからだろう。
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