時間ができてしまったので初めて行く図書館に行ってみた。図書館自体がかなり久々である。建物の外観は質素だったけれど中は広々していて本もすごく充実していた。児童向け図書も絵本だけでなく漫画じゃない伝記が沢山あって、児童向けというものがどの辺りのことを指しているのかが曖昧に感じはじめる。伝記になる人は大きな良いとされる功績を残した人なのだと思うが、国や地域によって誰が選ばれるのか全然違うだろうな。
図書館の中を歩いている間、Spotifyでポーランドで聴かれる音楽TOP50っていうのを聴いていたけれど、現地でやっている人たちに混ざって、デュア•リパとか、トラヴィス•スコットとか、ポーランド以外のグローバル•スターのミュージシャンの音楽が沢山入っていて、ああやっぱりすごいんだなと思うと同時に、なにか複雑な気持ちに。これは趣味や興味の均質化に対する複雑さだ。と、何を馴染みの無い国のヒットチャートに魅力的な癖の強さを求めているのだ。反省。ただ、心にひっかけておく。国は大き過ぎるので個人の話にしてみるが、ガラパゴス的な思考、成長、衰退、変化等がその人にしかない特異な部分を作るので、それを好きになっていきたい。苦手、でも良いのかもしれないが、そうなると途端に趣味や興味、人格まで数値化して考えだすようになってしまいそうだ。そして私は、嫌。
時間はたっぷりあった。色んな本を右手に取り左手に取り、ああでもないこうでもないと考えた。この、図書館ならではの悩みも今となると贅沢だ。人工知能が今までの私のデータから興味を推測して提案してきたりしない所がいい。そうなるともう、能動的に手に取るしかない。この時に働く頭があると思う。iPhoneが教えてくれるという方が贅沢に感じられてきたが、今はレコードで音楽を聴く人然り、本を買う人然り、逆転現象が起きていると思う。あぁ、この空間の中の、限られたアナログの物体の中から何かを見出したいという、制限付きの欲望。
私も、何が間違ったのかどう頑張っても紫色の画材しか手に入らない絵描きになったら、案外納得して、紫色を極めるとか思いだしそうだ。監督と脚本があって、映画ができるのではなく、役者とカメラがあって脚本が後からできていくような。
そういうブリコラージュの発想で3月3日の絵は描いてみたい。今日は、知覚の扉という本を読んだ。好きだった、そして今も好きなドアーズのバンド名の元になった本だ。が、これを言語化するのはまだ早いというような気がしている。寝る。
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