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2024年2月7日

なんでか7時間くらい歩いた日だった。知らない曲を聴いたり、昔出会った曲を聴いたりしながら。

ひたすら無駄で、社会にとって何の役にもたたなかった時間だ。それは自己嫌悪等ではなく、ただ時間を過ごした時間のこと。最高では無いけれどどちらかというと楽しい時間だった。

どう足掻いても自分は死んでいく。ゆりかごから墓場の間のグラデーションの時間の中に文章を書いている自分がいる。そのことを大きくも小さくも見積もらずにいられることがいつか変わっていくのだろうか。いつか変わると思いつつ変わらないまま今もいる。


真面目なこと?を書くのは止めにして、今日歩きながらぽわぽわと思ったこと。作品としてではなく趣味としてのデッサンをしてみたいと思っている。鉛筆なら字の如く鉛が、ボールペンならインクが描く対象に擬態する。鉛は鏡であり、窓であり、猫であり、植物であり、建物になる。そういうイリュージョニストとしてのデッサンをすることが気になっている。気弱な人がギターをぶらさげて傍若無人なスターにもなった。それは、無理しているとか裏表とかではなく、それに向き合う時にその人の中で芽生えたその人の新しい面なのだろう。


普段、日常と呼ばれる中で自分が感じる気持ちとは別のところ。それは無視され鏡は自分を映す。木は生えて建物が建っている。2024年っぽい、一人弁証法的制作というものを考えた。対象を見る。花がある。花は私にとって花だとしか思えないところを、この花があるということに対して自分の中でボケてみるのである。もし、この花が10mくらいのサイズだったら?


そしたら、茎折れちゃうんじゃないという真っ当なツッコミを入れる。そうすると何かやはり理由があってこの花がこのサイズになっているということがわかる。この方式に当てはまると対象に対して無限に色んなボケのアイディアが浮かぶ。車のタイヤが自転車のタイヤみたく細かったら?タイヤが二つだったら?雪が降ってはじめて、三角屋根の家が多い理由に気づいていく。物理法則に支配されて植物から人工的なプロダクトまで存在している。しかし絵の中には巨人もかめはめ波もある。歴史を振り返って写真が生まれて以降の絵画の流れの中で描き続けた人が初めに気づいたことはそういうことなのではないか。

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