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6月, 2023の投稿を表示しています

老舗

夜ご飯はレトルトにした。美味しかった。箱を見ると1941年創業とある。全然想像がつかない。副菜はポテトサラダを買ってきた。お惣菜はスーパーの容器から取り出して皿に盛り付けると食事が良い感じになる。洗い物は増えるけど。食べ終わってすぐ洗い物をした。たまに面倒くさくて放置している時がある。罪滅ぼしにお湯にだけ浸けて。水を飲む。喉が渇いているときは喉を通る水の音がよく聴こえる。 文を書く。体験したことが書かれたものが好きだった。かなり前に読んだ、司馬遼太郎の、ニューヨーク散歩は面白かったし、映画はあまり見ないけれど、ドキュメンタリー、ノンフィクションが好きだった。ただ、それが面白い為にはその人や被写体の人たちが一般よりも刺激的なリアリティを生きている必要がある。他の人たちとその人たちの生きている現実の対比が面白さを生んでいる。と、思っていたのだが、果たしてそうだろうか。たとえば家と職場を往復する1年間の生活の写真集、それもドキュメンタリーであり、ノンフィクションではある。これ、面白いかな...と、なる時、その人が思ってもみなかった工夫が生まれることがある。

マネージャー

これから働きマンなので、そうじゃない時間を有効に使わなければ。たまにパァッと遊んで、その他はこつこつやっていこう。もっと切り替えがうまくなりたい。来月に4コマの本を作らなければならない。もう1冊作りたい本があって、その物語を考えながら電車に乗っているところ。それで、展示を10月にやりたいかなあ。9月をちょっと、小さなキャンバスとかの制作にあてて、本と、作品の展示。普通に、売りたい。私の場合、売れたいというのは薄く、売りたいというのが濃い。もっと興味持ってもらえるように、それで、良いじゃんとなるようなものが作れるように精進しよう。自分が感動すれば、他人も感動させられるかね。ただ、絵って感動というものともまた違うような感じもする。音楽は思いっきり、感動って感じがするのだけど。実際、涙腺が緩むのも私は音楽の方だ。そんなこともあってどこかで、音楽というものに憧れているかもしれない。 もうすぐ6月も終わり。7月は働く時間の自分、制作する自分、自分自身のマネージャーもやるような意識で暮らしてみる。難しいよこいつのマネージャー。めちゃくちゃなんだもん。厳しく、時に優しくいきます!

7月を待たずに暑い日が続く。6月は前半と後半で違う月のようだ。汗をかく。塩の香り。 仕事が夜までの日が続く時は自炊せず外食にしようと決めた。無理してやることでもないしね。今日は鶏肉を捨ててしまったし。肉を捨てるのは申し訳ない気持ちになる。ただ、命を...と思った数分後には忘れている。半端な善人、いや、悪人かもしれない。昨日は学芸大学駅で人生3回目くらいに降りて、よくいますみたいな顔をしてちょっと散歩をして、展示を見て、本を買わせてもらい、そのまま電車で仕事に行き、その途中に音楽を聴きながら読んだ。その前日からgateballersというバンドの音楽にハマっていた。私が好きなのは「The all」=「poem」という曲。本当に曲にハマる時、一日中その曲しか聴かない時がある。昨日はそんな日だった。そんな一日の終わりにも曲の中で新しい発見があったりして、その音が聴こえはじめるとその前とは違う耳で同じ曲を聴いているような感覚になる。 歌詞の中で、「一人でも踊れ」という言葉があって、そこから曲が盛り上がっていくのだが、それと読んでいる本がリンクしていくような感じがして、とても美しい時間だった。一人でも踊ろうと思った。というか、ずっとそうしていたことを自覚して、そういう人だとわかって生きていくということだ。何ものでもない自分の思うことをフィルターを通さず感じることをまずできるようにしていきたい。

余   白

帰りにお茶についての本を読んだ。やっぱり、日本も含めた東洋の、未完の美学みたいなものが気になる。俳句とか、短歌っていうフォーマットや、少し欠けた茶碗、水墨画、席画、見る人の頭の中で物語が生まれるような版画、雑草を活かした庭、空き地、何かと一緒に食べたくなる白いお米。 自分の想像力を持ちたいなら、余白も持たないとなと感じた

歪みとは

ギターのディストーションの音というのは元々アンプを作った人やエレキギターを作った人は想定していなかった音だという。本来の音の出し方からは間違っていると。でもその音に魅力を感じる人や心動かされる人が確かにいて、今も何処かで誰かが、そして私もまた新しい間違いを発明している。これには正しさの信奉者でないことが必要になるだろう。しかし、正解をベースにした世界との二重生活を送らねばならない。前者に寄りすぎれば破綻者になり、後者によりすぎればつまらなく、何も生み出せなくなる。 絵筆を握る時は破綻者となり、外に出ればマトモの役者としている、とか、色々と発想は生まれる。 仕事に向かう途中、路上の排水溝の中に生えている植物を見つけた。よく見ると、そこら中に生えている。なんだか、その外の植物に比べて大変そうとも思ったが、良く考えると、水という水がここに流れ込んでくるので、水分を吸収するという観点から考えるとむしろ理にかなった場所にいる。そのまま歩いていると排水溝からはみ出している植物にも出会った。排水溝の中の植物、なんて、今まで気に留めたことはなかったのだけれど、これからはちょっと意識することになりそう。知ると存在しはじめることがよくある。髪を赤く染めると赤い髪の人が見えるようになるのだろう。 歩きながら、時々立ち止まり、思いついたことをメモする。それらはこれから生まれる絵画の種になるだろう。絵画、というものが本当にやりたいのかどうかは未だにわからないが、今の自分から考えて具体的な形として落とし込みやすいものが、思いつくのがそれしかないという所がある。はじまるものなんて何でもそういうものだった。たまに何か啓示を受けてはじまった人もいるけれども、私はそういう人ではないみたいだ。それで、絵がたまったら展示ができるね。これもやっていないよりやっていた方が楽しいし、社会的には、その期間だけでも面白スポットの一つを作ってみたい。絵が売れたりしたらもっと楽しい。自分はお金の風通しも良くしていかなければ。良く売って、良く払うといった、それはまあ大金とかではないかもしれないけれど、プチ景気を身近なところで作れたら良いな。移動・流動、流れる水、飛んでいく鳥。

風通し

夜中でもコンビニは昼間みたいだ。 夜風を感じたくて窓を開けて眠る。密室が苦手だということに気づく。室内と外の間のようなところが好きなんだ。それはタイの居酒屋、扉を開けっぱなしの洋服屋、窓を開けて走る車、あけすけな恋、わかりやすい夢。 住む場所も興味も作品も人との関わりも風通しが良いのが良い。もし、サラリーマンになったなら、社食は食べないで、昼休みはあそこの中華料理屋で、あっちのタイ料理屋で、そこのカレー屋で、適当にぴょこぴょこ現れては かぁぁ美味しいなんて呟いて仕事に戻るんだ。 風通しが良いというのは私にとって非常に大切なものだ。風が吹かず、ずっと同じ天気で、春も夏も秋も冬もないなら暴風雨もあったりする方がいい。 住む場所も興味も作品も人との関わりも風通しが良いのが良い。要塞みたいな所に住み、地下室がラボになっていて、そこでずっと一つのテーマを研究しているみたいな生活は合わないだろうな。もっと、あっちにふらふら、こっちにふらふら、はらはら、ひらひら、ふらふら、へらへら、ほらほら、そういうのが合っているね。作品を作ることに関しても、自己完結しつつ、開けた感じではいたい。完結性と開放性の二つのバランスをどうやってとるか。今はどちらかというと、密室での完結になっているけれど、開放するポイントはなにかな。展示とか、ライブ的なことだろう。半開けのようなあり方を模索したい

何も知らないところから

名前も知らない街で未知の言語に囲まれることは、見えるものに意味がまだなかった頃に似ているのだろう。生まれたての赤ん坊は無意味の世界にぽつんと転がり、抱きしめられ、泣いたり、寝たりする。視界が開けて初めて目にするなにかに名前はまだない。自分にも名前はない。自他の区別もなく、ベットで横になっているのはなぜかと問うこともなく、抱きしめられ持ち上げられるときには空を飛ぶようなものだ。空中遊泳は束の間、またベットで横になる。月日を繰り返すうち、自分は転がれることに気づく。気づいた。と、思うだろうか。しかし、気づくということが赤ん坊から成長する上で大切なこと、いや、ほとんど全てなのである。自分はこういう発音で呼ばれているらしいということに気づき、初めて自分が生まれる。それまでは意識の上では自分というものはないはずである。そこで、名前というものを知る。他の人にも名前があり、ものに名前があり、感じることに名前があり、行動に名前があり、その名前を組み合わせると新しい意味がうまれた。赤ん坊の記憶も忘れて、こうして書いていく言葉は、あの時に名前があると気づいたことの、それを組み合わせられると気づいたことの続きである。それはこれからも続いていく。

揺れても

利き手の右手の人差し指を軽く火傷したので氷で冷やし、普段右手でやっていることを左手でやってみた。やってみるとそちらの方が頭が働くような気がした。手指が覚えていてただそれをやっているということがあるみたい。例えば文字を書く。指という漢字を紙に書く時に、右手の場合にはそう書きたければ書くだけなのだが、左手の場合には、どんな字だったっけと一瞬頭の中にイメージを浮かべてから書いている気がする。 10歳になるくらいまでは利き手というものに非常に興味があって、左手で文字を書く練習などしていた。なぜ、こちらの方がやりやすい、やりにくいと感じるのか、それはいつ決まったのか、いくら考えても全くわからなかったからであるのと、なんとなく、左手で文字を書くという新鮮さとレア感みたいなものにちょっと憧れていたのもあると思う。遂にやりにくいと思いながらも学校のノートを全部左手で取ろうとしたりして、このまま左利きになってみようかななんて考えたりもしたが、どこかで挫折して右利きを継続している。 なぜこうなっているのかということを疑問に感じてハックするような感覚がその時にもあった。ポケモンのゲームも裏技を使ったりバグらせたりできるということを知るともうまともにはやらずにどんどんバグらせた。今もゲームボーイカラーの画面の中で秩序をほとんど失いつつも、僅かにその欠片を残して広がった意味不明な空間を覚えている。今もその、子どもの好奇心と疑問の延長のような意識を強く残していると思う。 なんだかiPhoneはゲームボーイみたいにも見える。形もちょっと似ている。画面があって、ボタンを押すと何かが起きる。操作したことが画面に反映される。ただ、ゲームボーイは何かその中で完結させようとするがiPhoneは現実と結びつけようとしてくる。結構前に、ゲーム化する世界という本を買ったので暇な時に読んでみよう。ジャケ買いならぬ、タイトル買いであった。まさしく、ゲーム化している感じがするもの。これで支払えばポイントをゲット。そのポイントを使ってこういうことができるみたいなことや、マップを見てここに行く為にどうするか、このくらいの時間が必要で、こういうルートで、とか、現実とゲームとの違いが薄くなっているような。便利な感じも、なんだか軽い感じもする。仕方ない感じもすれば、これでいいのかなという感じも。私は毒を食らわば皿までみたいな所...

逆立ち感性

髪を逆立たせられるくらいに短くした。とってもお気に入り、ありがとうございます。 pinterestで色んな昔のパンクスの人たちの写真を見た。主にイギリス。顔つきから服装から、ビッとしてる怖いタイプの人とサーカス団っぽい人がいる気がする。サーカスのコスチュームやメイクも気になっている。伝統がある社会の中でアウトサイダーとして存在する為に伝統の操作をしている。そこが膨らむわけない所を膨らませたり、肩幅を異様に大きくしたり、通常の?化粧ではあり得ない所にラインが入っていたりする。これを異化効果という。こないだ知った言葉だから、使いたい。気持ちはまだ中学生。 私は疎かったので良くわからないが、ファッションショーにでてくる衣服も、そういう異化を感じることがある。肩幅、襟、袖、ボタン、そういう衣服に纏わるシステムをハッキングして破壊し、新しく作り直す。それらは物理的なシステムの話だが、精神や文化的習慣に対する場合もあるだろう。なにか、勝手なシンパシーを感じはじめているので、勝手に一人で考え、自分の中でこれらの感覚を熟成させていきたい。私はなにか伝統的なものからあぶれてしまった人間だからこそ色々吸収し、あぶれたあり方を模索していく。軌道を伝統に戻そうとしない。元々自分の軌道はそこにはない。私がなにか、正解を探す時に迷ったまま戻ってこれなくなるのはそういうことであった。 荻原朔太郎の詩集を買った。本屋でページをぱらぱらめくっていて、日本語が今(西暦2023年)の言葉から離れているが、近いものでもある時の感覚を好んでいると思った。離れすぎるとそもそも意味がわからず、今の言葉は合理的すぎ、合わないと感じる。と、現代の詩人の人たちや小説家の本をろくに知らないことに気づく。生きられるのはこれからしかないので、これからの人に、そういう人が作ったものを通して触れられることを思うと嬉しい。どんな人が何を思ってどういうことをしようとしているんだろう。そしてどうなるのだろう。それは楽しみなことである。

足りない知らない

身体が小さくなったらしい。何ヶ月か前まで身体を鍛えて沢山食べていたのを止めたからだろう。歩いて、スーパーの窓ガラスに映る自分を不意に見ると、確かに。この、外の窓ガラスに自分の姿が映るのを不意に見ることに興味がある。他人の一人としての自分が一瞬そこに見える、これが客観的に見えている自分なのだろう。 確かになんか小さくなった気がする。元々小さいのだが、太ったり痩せたりすることは良くあるけど小さくなること中々ないぞ。ちょっと大きくなろうかな。 そんな、ガラスに映った姿を見て、前と着たい服装も変わってきた気がした。顔もなんか変わった気がする。生活という名の整形外科医が目を優しくしたり鋭くしたり、負けてたまるかと口をひん曲げたりした。 The filth and the furyというsex pistolsのドキュメンタリーを見た。字幕はついてないし生活の流れの中で流し見していたので内容はそんなに入ってきていないが、あんまり長い映像を見ない自分にとってはニヶ月に一度くらいの珍しいことだ。なにか、生きる中で足るを知って悟りたいような、まあまあ、冷静になりなよみたいな気分でいた時 もあったが、いや、あるからこそ、こう、足りねえ 知らねえ みたいなエネルギーを感じる時に、こういうものをどこかで求めていたんだと気づく。それがsex pistolsのメンバーの場合、上手くいっていたのかというと、そうではなかったのだろうけど、そのはじまりの根っこにある自分だってという気持ちはあっていいし迂闊に歳を重ねると忘れてしまうことだけれど、それを忘れないようにしようと思った。なになにさんの知り合いが言いたいことがあるらしいとかではなく、あなたが言いたいことがあったって良いということ。 今日は髪を切る。髪が伸びるって不思議だよね。背は伸びないのにさ。
何処かで知らない人の詩を読みたい。 こういう時、言葉がどこでも共通だったらなとも思う。でもそれじゃあつまらないか。 パンクロック、サーカス、ウィリアムブレイクの絵、その人本人だけからでた言葉、16歳くらいまでのヤンチャの俺は俺だみたいな気持ち(限定)、紙、筆ペン、音に合わせて身体を動かすこと、2日酔いの時に電車の端の席でぼーっとすること、こういう人いたんだという人に出会うこと、お腹がぺこぺこの時にご飯をがつがつ食べること、ほんとうに眠たくて明日は予定が無いときの布団、結果のでない実験、連休 そういうことが好きだと思った

パンク

 The Casualties聴いた。絵もちょっと。こういう、歌詞は聞き取れなくとも本気で歌っていることや演奏していることを感じとる時、自分はまだまだ本気でやれていないなとも思う。まあ、あんまり短距離走で考えるとすぐバテるのでゆっくり頑張る。 最近は蒸し暑い。なんとなく、詩を読みたいと思った。詩を知りたいというのか。いや、魅力を感じられるようになりたい。知ることは簡単だけれど、感じることが難しい時代になっているきがする。20世紀の詩人の名前、主な功績を100人暗記している人より、ひとつの詩に心動かされる人でありたい。これは絵然り、音楽然りかも。なんとなく、網羅しなければというようなこと、こういうことを知らなければいけないのかな、ということ、これ好きであれも好きなの変かな、とか、そういう計算された興味や好きはやめて、ただ心動かされていたい。興味は生のままにして、見栄えを気にして編集しない。そうしたら、自分も気づかなかった本音に近づくかもね。

ぽて

絵 描き方  なんて検索しそうな日だった。昨日描いていて途中の絵は、下書きの方が良かったな。あるあるなんだと思うんだけれど。デモテープの方が良いっていうのも良くあるんだろう。私は、Guns and rosesというバンドが中学生から好きで、今もたまに聴く。こないだデモ音源を発見して、それを聴くと後に名曲、というか代表曲になるwelcome to the jungleという曲は、そこまで名曲になりそうな雰囲気が無くてなんか良かった。ここからこうなるんだという。これ、下書きの段階では微妙な絵が良い絵になったりするってことなのかな。 字面にすると変な人だけど、音楽の中の叫び声が好きだと思った。結構、叫び声というもののファンかもしれない。悔しさとか愛とか怒りとか全部詰まってる感じがする。それをイヤホンで聴くときは自分の中の動物っぽい部分に触れられる。その動物は中々でてこないが、そういうときだけスっとでてくるような。 髪が伸びて重たい。昔は前髪が視界に入るということが苦手だったけれど、いつの間にかそんなことはなくなっている。目に映る景色は前髪と共に生きている。しかし、見えるときと見えないときがある。 ラブリー突破口を開きたい。男の、可愛いもの、ことを外部化するというテンションに自分は馴染めていないと思う。気にせず集中して、やりたいことをやるっていうことだ。そして応援してくれる人がいれば大切にする。応援、に関して思うのは、私がする場合もそれを意識しようと思っているのだが、なるだけ抽象的にすることだ。なんかいいとか、そういうことが良いのである。こうでこうでこうで、こうではなく、なおかつこうであることが良いという具体性は本人が思っていることとは違うことがままあるので、勝手に期待して、なんか違ったというのは止める。結構、スターとか、アイドル的な人が調子を崩したりするときはそういう部分に理由がある気がする。人の気持ちに応えたいという良い人さがその人の気持ちを崩したり、逆に嫌な人にさせたりしてしまう。もう少し身勝手で良いんだと思っている。

キッチン

とんでもない時間、一日が終わってから起きてしまい、反省。台所が荒れていたので掃除。とりあえず、台所だけは掃除するようにしよう。そこで絵も描くし。他はまあ、ちょっとあれだけど。押入れとか、収納が少なすぎるのも問題ではあるが、新しく収納を準備したりする気力がなし。そして今のとこそれで良いということにしておこう。 とある絵を見て、感銘をうけた。自分も一生懸命描いてみよう。今まで一生懸命やってなかったような書き方だけど。もっと形や色に集中したい。それは、上手くて、洗練されているというより、なにか紙やキャンバスに熱を埋め込んだようなものにしたい。で、あんまり大きいのは描こうとしない。大きいのはいつか。いつかが来るのかはわからないけど、そうして、知らねーみたいな感じで未来の自分に投げておくのも必要だと思った。特に自分が、色んなことをコントロールできる、できていると思いがちな時はね。自分がコントロールできることなんて自分のやることの一部分くらい、、 だけれど、絵を自由に描くことはコントロールできることが非常に多い。子どもが絵を描く理由になっていると思う。子どもならなおさら、どこで生まれどこで育ち、決めることはできずなんとなく流れで暮らしていることが多いのであり、そこで、何かをコントロールしたいという欲求は、絵を描いたりとか、蛇口をひねって水をだしたりとか、そういう行為に向かうのではないか。新しい物語を発明したり。誰が主人公で、誰がでてきて、それがなんなのかを決めるという、その人の持つ世界。 今年は半分過ぎそうだけれど、今年はより一層創造性に向かいたいと思っている。創造性というものが好きなのだということを知る。とにかく、一生懸命描いてみよう。適当さも忘れず。

間違いの途中

間違っているということは昔はもっと恐ろしいものだったが、今はなんだか図太くなってきたというか、開き直った精神もでてきている。暗いニュースに目もくれず絵を描いたりしては、できました、展示をしたいという考えは正しいか。そう、それが全てで、自分は正しいと思う鈍さはもう持っていない、が、別に間違ってても良いと思っている。ずっとそれで良いのかはわからないが、、というか、あんまりそういうことを考える余裕がない。この3年間考えた所で無力な自分に嫌気が差してひとりで酒を浴びるように飲んだりしているだけであった。あぁあの、緩やかな自死のような生活。何度かかなり危険な状態もあった。だからやめて、できることに集中していきたい。 自分のジャンルというのが無い人と思う。だからこそ越境したりもできるが、軸みたいなものが無い。もうそのことも考えるのは放棄して、結構前に友人に聞いたアイデンティティのあり方を試していきたい。それは、自分の根っこを自分の前に置くというものだ。これからどうするということをアイデンティティにしていく。少し、赤ちゃんに近いだろうか。振り返る胎児の思い出はそこそこに、ハイハイや掴まり立ちを覚え、食べれるものを増やし、新しい言葉を覚え、、やることが沢山ある。理由は特に無いが、あるとすればそうしたいからである。ハイハイができれば自分で移動ができる。移動してみたい。よし、移動できるようにしよう。彼らは何か本で読んだり動画を見たりして、その動きを模しているわけではなく、自然とハイハイという技を習得している。 そんな具合に、やれることを増やしていき、それが世の中の何かになればなと思う。ただこれは、社会貢献みたいなものともまた違う。もう少し、自己満足の力というか。こう書くと身勝手な人だが、そして実際そうなのだが、それでいいのである。見るからに綺麗な言葉を使うことに躊躇するようになってきている。それは私が綺麗な人間ではないからだろうというのが7割くらいと、なんだかそういう言葉にうさんくささを感じるようになってしまったのが3割くらい。 エゴならエゴでいい。そのエゴを何か別の綺麗な言葉や崇高に見える理念に置き換えること、自分は自分でも知らずいつもやっていた気がするのだが、もうそういうことは合わなくなってしまったのでしないようにする。 綺麗な言葉は、良いかな。綺麗すぎる言葉に置き換えること。綺麗...
しっかり真面目に考えないと何かしちゃいけないというわけではない、絵を描くとか、なんかギターを適当に弾くとか、そういうことは積極的にやっていきたい。それらは他人の人生に深刻な影響を及ぼしたりはしないので。ただ絵ができたり、音が鳴ったりする。適当適当。適当ブーム。頑張りつつ適当みたいな感じが良いかな。何かこう、制作しているものがある時に、それをどう自分以外の人に説明するか。唐突だがここにはかなり、日本の現代文明の問題点が隠れているような気がする。 基本的に、良いところ、他のものとどう違うのか、それを介したこれからのビジョン、そういうことを説明するはずである。ビミョーです、自信がありません、あの人が作ったものの方が良いです、先のことは特に考えてませんみたいなことを言ってしまう人は社会人不適合人の烙印を押されかねない。 すると、社会に合わせる為に良い所を無理くりひねりだしたり、ものすごいデカいことを言う必要がでてくる。私もあり得ないくらいデカいことを言うことがあるが、それはボケというか、ピエロなので、、 すると、ハードルが上がる。徐々にそのハードルを超えるのが難しくなり、破綻したりしてしまう。この、ハードルというものに急に興味がでてきた。 外国(ざっくり過ぎだけどあえて)に行った時にいつも思ったのは、適当さである。バスが遅れたり来なかったり、エレベーターの止まる場所がずれたり、そういう部分、日本はかなり律儀というか、ある意味では発達している。きちんとやる。 こう書くと優れていることのようだし、実際そうなのかもしれないが、バスの運転手さんをやることのハードルは他国より高くなるはずである。エレベーターを作ることも。このハードルが高すぎてついていけないという人がどんどん増えているのではないか。 絵描く人としては、ハードル下げ担当のような感じでいたい。これぐらいなら自分にもできるというようなものをどんどん描きたい。もったいぶらない。盛らない。でも魅力的なものにしたい。し、していく。

復活

布団に転がり続ける時間が続いていたが、結果超回復。知らないうちに思っているよりも疲れている時があるので気をつけよう。 しんどい時にだけなぜか合唱曲を聴きたくなる。陳腐だけれどハモるってすごい。どういうタイミングで発見されたのだろう。生理的にくる感じがある。 色々やろうとしているけどあんまり書こうと思うことがない。そろそろまた絵のシーズンかね。

二文字

堕落という二文字がぴったりの日であった。明日からしっかり。こういう日は動物になりたい。野生の動物と、動物園の動物と、どっちがいいかな。動物園の動物は、人間の都合みたいな感じもあるけれど、自分がなるならそっちかなとも。ご飯もでるし、寝てたら巨大な動物に食べられるみたいなこともないし。ギラギラしている時は、野生の動物がいいと思う。大草原を自由に走り回る。まあ、住宅街の野良猫とかになるかもしれないけどね。なるなら何が良いかな。多分、小動物だろうな。ミーアキャットとか。大きな動物より、小動物の方が群れで生活しているイメージがある。で、素早くちょこまか動く。人間でいうと挙動不審。私である。 パスタを食べた。ダメな時はご飯を食べるのが面倒くさいという、生理に抵抗する考えが生まれる。しかし、食べると涙がでるほど美味しい。それじゃあさっさと食べなよって話なのだが。少し、体温が上がるのを感じる。汗をかいたりする。 本当に空腹な時、喉が渇いている時、食べ物や飲み物を見て、それが、満たしてくれると信じて、というか実際そうなのだが、その時にはすごく魅力的なものに見える。いざ食べて食べて食べまくると、その時感じた魅力は薄れてしまう。何か受験とかして、合格して、念願のここの学生というのは通っているうちに念願だったことも忘れて、今日ちょっと行くの面倒くさいものになったり。でも卒業したり辞めたりすると懐かしくて魅力に感じていたりする。そうでない場合もあるけれど。そういう区切りがなくとも、今のこの時間というのもそうなのだろう。 クーラーの音と一緒に耳鳴りがしている。自分にとって大事なことが決まってきている。自分が選んだ部分もあれば、ただの消去法の部分もある。今のところ世紀末感しか感じれていない令和って年号だが、これからどうなっていくのかね、どんどん絵描いてどんどん展示したいな。ただ、焦らず、慌てず、あと、自分にとって重要なのが、怒らず。そういう気持ちは絵なり、表現の世界に昇華した方がいい。大切な気持ちではあるけれど、世の中で全然発揮できない気持ちでもある。うまく発揮できる人もいるんだけどさ。自分の場合はただの気難しい人になってしまう。だから外にださない。 だからそういう感情を感じないようにするというのも一つの手なのかもしれないが、それじゃ、楽しいとか、嬉しいとか、そういうのもわからなくなってしまう。...

一日なにかしようと思えばできる日であったが疲れ気味でたいしてなにもできずビミョーな日であった。こういう時は、休憩。特に罪悪感とかなく休憩するのがいい。 夜は少し絵を描いた。昨日の日付の絵と、今日。あと結構前に描いたF0サイズの抽象画、いいけど惜しいなと思っていたので良くないと感じる部分を白色で塗りつぶして、濃いピンクを薄めて塗って、良い感じになった。これはこれで完成。作品と思う境目が難しくなってきている。向上心みたいなものはあるが、完成と思う基準を高く設定する人に比べると、かなり適当である。前から思っているが、どちらかというとジャズミュージシャンのように考えて、即興としてポンとでたものを活かすあり方であった方がやりやすいし、それならできる。根詰めて考える能力が弱い、と、こだわるということが下手である。軽やかに! 脳化社会という言葉が気になっている。大して調べもせずに言葉から勝手にニュアンスを推測しているのだが、単純に語義通りなのだろう。こういう時、本当に意味を知る気があるのか、、ということは置いておいて、そのような言葉が生まれるということはそれ以前より社会が傾向としてそうなっている、ということであると思うので、そして私も思っていたことでもあるので、うまく言語化できないが、ただ引っかかっている。じゃあ書くなということかもしれないが。 日記に関していうならば、何かを伝達したいというより、脳が認識していることを可視化したいという極々個人的な欲求が強いのだと思っている。こういうことをやるから来て欲しいですというのはSNSの方が向いているので、、 あと、媒体によって向いている文章と向いていない文章があって、日記は、日記というか厳密にはbloggerというwebサービスなのだが、その辺の可変性が高い感じがするのは良いところである。今、私は良いものは良いという考えからやや離れはじめていて、これはこう、あれはああ、それはそうと、分けて考える訓練をしている所である。 型を知り、自由になっていくという一見相反する発想がわかるようになってきた。私の場合、その型にまだ名前はついていないのだが。 明日からの日記はもう少し自分自分ではなくしていきたい、そうするとどうなるか。描いた絵の写真を載せてこれはこうでこうでというのも違うし、、風が気持ちよかったとか、そういうことだろうか。

見知らぬ駅で降りて景色だけが目の前に広がると何にも意味も無くなって色と形と自分の気持ちだけになる そこに輪郭はなく、光と影と、照らされた色がただある

sports complex

Life ball聴いている。初期衝動!めちゃくちゃかっこいい。こういう衝動を詰め込めることがやりたい。 この色とこの色しか使わないと決めていたのにでてくる別の色、が、ただの混乱に終わってしまうこともあるだろうが、何か自分の中からだけでてきたというより、ハプニング的なことも突発的なものも含めて、それと計画が合わさって作ったというより生まれたようなもの、 それにしても計画や計算が足りないのでこれからやっていかなければいけないのだが、しかしとにかく、冷静にクールにまとめましたということにはならないことが今ではわかるし、きっとそれは良いところにもなり得るのだ。不完全を完璧と呼ばずに、そのまま叩きつけることだ。 電車に降りると、総合体育館という言葉の下にSPORTS COMPLEXとある。コンプレックスには総合的なという意味があるのか。対義語は単純な、単一なという意味を持つsimplexという言葉なのだという。つまり私の、こう思うのだが、しかし、、という得意技は総じてコンプレックスということになり、スーパーコンプレックス人ということになる。 そういうものがいつでも、どこでも、色んな些細なタイミングで現れる。今日は、このままアラームで起きれば朝食を支度して食べれるが、寝たいというものだった。結果、限界までスヌーズを押し続けることに。ということは朝食を食べれないことになる。ダメな人なのでこういうことが良くある。常に今できることは複雑であり、その複雑さにアクセスして四苦八苦することで色んなことを学んでいきたい

IF

足の指で何かを掴んだりするのが上手い人がいたとして、、別にこんなことできても仕方ないかと大人になるにつれてやらなくなりそうだけど、50歳までその練習をしていれば足指の達人になりそうだ。 意味があるか、ないかということに悩み、あることだけをやろうとすると日常は味気なくなっていく。それを推奨されるんだけどね。 ぽんこつ気味な生活をしていたので、久々に自炊した。自炊、2週間やっていなかった。勿論、冷蔵庫の中にあったしめじはダメになっていたので捨てた。すまん。食材を買って冷蔵庫に入れると、やらざるを得ない意識がでてくるのでダメにならない程度に食材をストックしておこう。こういう生活になって初めて、マルシェとか、八百屋とか、そういうことに興味がでてきた。これはあの人がやってる畑で採れた人参、とか、素敵な気持ちになるもの。 自炊のブランクがあるからか、米が無洗米であることを忘れていてがんがん三合研いでしまった。炊き上がってから気づき、どうかなと思ったが、普通に美味しい(研がない方が美味しいが) はいはい、片付け!早起き! 片付けで一日潰すのと、思ったより片付かなくてイライラしたりするのも禁止!できない完璧禁止!完璧主義は、あなたに合いません。あなた、というか、私のことなのだが。得手不得手をわかって得手をやった方がいい。一周まわってそう思うようになっている。