名前も知らない街で未知の言語に囲まれることは、見えるものに意味がまだなかった頃に似ているのだろう。生まれたての赤ん坊は無意味の世界にぽつんと転がり、抱きしめられ、泣いたり、寝たりする。視界が開けて初めて目にするなにかに名前はまだない。自分にも名前はない。自他の区別もなく、ベットで横になっているのはなぜかと問うこともなく、抱きしめられ持ち上げられるときには空を飛ぶようなものだ。空中遊泳は束の間、またベットで横になる。月日を繰り返すうち、自分は転がれることに気づく。気づいた。と、思うだろうか。しかし、気づくということが赤ん坊から成長する上で大切なこと、いや、ほとんど全てなのである。自分はこういう発音で呼ばれているらしいということに気づき、初めて自分が生まれる。それまでは意識の上では自分というものはないはずである。そこで、名前というものを知る。他の人にも名前があり、ものに名前があり、感じることに名前があり、行動に名前があり、その名前を組み合わせると新しい意味がうまれた。赤ん坊の記憶も忘れて、こうして書いていく言葉は、あの時に名前があると気づいたことの、それを組み合わせられると気づいたことの続きである。それはこれからも続いていく。
今日は一日の途中でゴールデンウィークだと気づいた。なんとなく街並みの雰囲気も違ったからだ。路上でレッドホットチリペッパーズのコピーをやっている人たちがいてすごく良かった。ちょっとだけ踊った。can't stop addicted to the sinding. 世の中の連休といえば私にとっては昔から、忙しい日であるのだ。 世間はなんとかですねえと言ったり思ったりする時、狭く思うならそこは世間の外側、広くいくなら内側である。で、最近は内側にいるなと思っている。 iPhoneにデフォルトで内蔵されているgaragebandという音楽の打ち込みができるアプリがあるのだが、昨日今日とそれで少し遊んだりした。無料なのにあんなこともこんなこともワンタッチでできて、なんだか自分がすごい音楽をやっている人みたいな気持ちになった。気づいたら時間がたってて、気持ちはスクリレックスだったね。て、garagebandがすごいだけなのだが。少しDTMをやることに興味が向かっている。ゲームボーイを改造して色んな線をつなぎ、音楽をやったりするやつをやりたい。 楽器のビジュアルに対して多くの人が何か特定のイメージを持っている訳だけど、例えばこれがそもそもは楽器でないものを楽器にした時にどんな音楽が生まれるか、あるいは生もうとするか。そこにはそもそものイメージがない。イメージがないものをやる時に新しくイメージを生もうとしたり、ビジョンを改めて考えたりする必要に迫られるのではないか。抽象的な日記になった。
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