名前も知らない街で未知の言語に囲まれることは、見えるものに意味がまだなかった頃に似ているのだろう。生まれたての赤ん坊は無意味の世界にぽつんと転がり、抱きしめられ、泣いたり、寝たりする。視界が開けて初めて目にするなにかに名前はまだない。自分にも名前はない。自他の区別もなく、ベットで横になっているのはなぜかと問うこともなく、抱きしめられ持ち上げられるときには空を飛ぶようなものだ。空中遊泳は束の間、またベットで横になる。月日を繰り返すうち、自分は転がれることに気づく。気づいた。と、思うだろうか。しかし、気づくということが赤ん坊から成長する上で大切なこと、いや、ほとんど全てなのである。自分はこういう発音で呼ばれているらしいということに気づき、初めて自分が生まれる。それまでは意識の上では自分というものはないはずである。そこで、名前というものを知る。他の人にも名前があり、ものに名前があり、感じることに名前があり、行動に名前があり、その名前を組み合わせると新しい意味がうまれた。赤ん坊の記憶も忘れて、こうして書いていく言葉は、あの時に名前があると気づいたことの、それを組み合わせられると気づいたことの続きである。それはこれからも続いていく。
3月最初の日記。期間が空いてしまった。今日は目覚めるとひどい2日酔いだった。近所のスーパーで経口補水液と野菜ジュース、バナナを買って、イートインコーナーで飲み食いした。1日初めの飲み物1口目。ぷはぁと声がでる。あまり気にしていないが、座る時にどっこらせと言うお爺さんになる要素が私にはある。そのまま色んな食材買って自炊。2日酔いというのは、普段思わないことを思うようにできているのか、あぁ、なんでも、丁寧に袋やパッケージに入れられて売られている。もやしの袋然り、納豆は3個入りセットで丁寧に梱包されていて、キチっと積み上げられている。どの梱包も寸分違わず、目に見える違う部分としたら賞味期限の印刷くらい。奥の方に手を伸ばし1番賞味期限が遠い納豆を買った。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の作品を思い出す。あの、本気だけど皮肉でもあるような良くわからないあり方は結構好きだ。なんとなく、ロックの時代の作品という感じがする。華々しさと自分自身や自分が生きている文明に対する自虐が同居している。だからか、ロック音楽のアルバムというものは1曲目で車の自慢をしたかと思えば、2曲目ではダメ人間のバラードになったりしていて、そういう表現の為ピエロ役を買ってでるような所も結構好きだった。まぁ、そうでない人が沢山いるのもわかるけれど、根本的に自分を下げて矛盾を楽しむユーモアがあって、そういう所に今また惹かれはじめている。甲本ヒロトの良さとラップスターの良さは結構違う気がする。と、詳しくないが今のアメリカのラッパーであまり伝統的な感じがしない人、例えばLil uzi vertの曲を聴いたりすると、も、もしかしてふざけているのでしょうかとも感じるので、文化が受け入れられ成熟してくるとちょっとおちゃらける感じの人が求められてくるのかもしれない。 暫く書いてないと指筆がはかどらない。やはりなるべく毎日書くべきだな。無料でできるのだし、何か発見をするのも文章を書いている時が多い。 唐突なコラージュみたいな文章だ。「自分にとって」絵を描くのは、やっぱり何かの為って所がもっとあった方が良いんじゃないかと思っている。今まで、絵を描くことには理由がいる→絵を描くことには理由はいらない という思考の経緯を辿っていたのだが、ここにきて違う形で当初の意識にまた戻った。違う形とは何かを考えるのなら、元々どういう形で...
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