利き手の右手の人差し指を軽く火傷したので氷で冷やし、普段右手でやっていることを左手でやってみた。やってみるとそちらの方が頭が働くような気がした。手指が覚えていてただそれをやっているということがあるみたい。例えば文字を書く。指という漢字を紙に書く時に、右手の場合にはそう書きたければ書くだけなのだが、左手の場合には、どんな字だったっけと一瞬頭の中にイメージを浮かべてから書いている気がする。
10歳になるくらいまでは利き手というものに非常に興味があって、左手で文字を書く練習などしていた。なぜ、こちらの方がやりやすい、やりにくいと感じるのか、それはいつ決まったのか、いくら考えても全くわからなかったからであるのと、なんとなく、左手で文字を書くという新鮮さとレア感みたいなものにちょっと憧れていたのもあると思う。遂にやりにくいと思いながらも学校のノートを全部左手で取ろうとしたりして、このまま左利きになってみようかななんて考えたりもしたが、どこかで挫折して右利きを継続している。
なぜこうなっているのかということを疑問に感じてハックするような感覚がその時にもあった。ポケモンのゲームも裏技を使ったりバグらせたりできるということを知るともうまともにはやらずにどんどんバグらせた。今もゲームボーイカラーの画面の中で秩序をほとんど失いつつも、僅かにその欠片を残して広がった意味不明な空間を覚えている。今もその、子どもの好奇心と疑問の延長のような意識を強く残していると思う。
なんだかiPhoneはゲームボーイみたいにも見える。形もちょっと似ている。画面があって、ボタンを押すと何かが起きる。操作したことが画面に反映される。ただ、ゲームボーイは何かその中で完結させようとするがiPhoneは現実と結びつけようとしてくる。結構前に、ゲーム化する世界という本を買ったので暇な時に読んでみよう。ジャケ買いならぬ、タイトル買いであった。まさしく、ゲーム化している感じがするもの。これで支払えばポイントをゲット。そのポイントを使ってこういうことができるみたいなことや、マップを見てここに行く為にどうするか、このくらいの時間が必要で、こういうルートで、とか、現実とゲームとの違いが薄くなっているような。便利な感じも、なんだか軽い感じもする。仕方ない感じもすれば、これでいいのかなという感じも。私は毒を食らわば皿までみたいな所があるので、この際 人生ゲームみたくなっちゃってもいいかなと思っているが、真面目に適当にできない人には結構キツかったりもするのでは。自分のことよりそういう人のことの方が気になっている。(矛盾するが)私はただ自意識過剰でやるだけだが、それがなにかそういう人にとっての希望の芽としてぴょこぴょこ生えていくようにもなったらいいな。
現実は外部からどうせ揺らされるので、自分から揺れにいこう。自分の揺れ方を編み出さないと納得いかない揺れに巻き込まれる。それは、無理やりに、であればそれはおかしいので反発したりするが、その揺れは強引なものではなく、なんとなくの雰囲気としての衣を纏っているので、良く意識しないとわからない。そして、それが悪だとか、そういうことではなく、人によってはその流れに乗った方が調子が良かったりもする。しかし、問題は乗ると調子が悪くなる人も雰囲気で乗せられてしまうことである。乗せられる、というか厳密には自ら乗るのである。
法の範囲でしかし誰にも構わず非合理でもよく、その人にしか良くわからない趣味を一つ持った方が良いと思った。なんでも直ぐ二次的、三次的になっていくことに抗ってひたすら一次的であることを追求したようなもの。ここでいう、二次的というのは、この趣味は他の人からどう見えるだろうということを意識して、設定することに決めた趣味のこと、三次的というのはその先にある。そんな中、誰に会うわけでもないけれどバチバチに化粧をしたり、ただ語学に興味があって言語を学ぶこと、こうなりたいから歌うでなく、ただ歌いたいから歌うということ、そういうものを持っていれば多少現実がぶれたりくだらなく見えても、絶望することなく暮らせるのだろうか。いや、暮らせるのだ。
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