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一日なにかしようと思えばできる日であったが疲れ気味でたいしてなにもできずビミョーな日であった。こういう時は、休憩。特に罪悪感とかなく休憩するのがいい。 夜は少し絵を描いた。昨日の日付の絵と、今日。あと結構前に描いたF0サイズの抽象画、いいけど惜しいなと思っていたので良くないと感じる部分を白色で塗りつぶして、濃いピンクを薄めて塗って、良い感じになった。これはこれで完成。作品と思う境目が難しくなってきている。向上心みたいなものはあるが、完成と思う基準を高く設定する人に比べると、かなり適当である。前から思っているが、どちらかというとジャズミュージシャンのように考えて、即興としてポンとでたものを活かすあり方であった方がやりやすいし、それならできる。根詰めて考える能力が弱い、と、こだわるということが下手である。軽やかに!


脳化社会という言葉が気になっている。大して調べもせずに言葉から勝手にニュアンスを推測しているのだが、単純に語義通りなのだろう。こういう時、本当に意味を知る気があるのか、、ということは置いておいて、そのような言葉が生まれるということはそれ以前より社会が傾向としてそうなっている、ということであると思うので、そして私も思っていたことでもあるので、うまく言語化できないが、ただ引っかかっている。じゃあ書くなということかもしれないが。


日記に関していうならば、何かを伝達したいというより、脳が認識していることを可視化したいという極々個人的な欲求が強いのだと思っている。こういうことをやるから来て欲しいですというのはSNSの方が向いているので、、
あと、媒体によって向いている文章と向いていない文章があって、日記は、日記というか厳密にはbloggerというwebサービスなのだが、その辺の可変性が高い感じがするのは良いところである。今、私は良いものは良いという考えからやや離れはじめていて、これはこう、あれはああ、それはそうと、分けて考える訓練をしている所である。
型を知り、自由になっていくという一見相反する発想がわかるようになってきた。私の場合、その型にまだ名前はついていないのだが。

明日からの日記はもう少し自分自分ではなくしていきたい、そうするとどうなるか。描いた絵の写真を載せてこれはこうでこうでというのも違うし、、風が気持ちよかったとか、そういうことだろうか。

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GW1

今日は一日の途中でゴールデンウィークだと気づいた。なんとなく街並みの雰囲気も違ったからだ。路上でレッドホットチリペッパーズのコピーをやっている人たちがいてすごく良かった。ちょっとだけ踊った。can't stop addicted to the sinding. 世の中の連休といえば私にとっては昔から、忙しい日であるのだ。 世間はなんとかですねえと言ったり思ったりする時、狭く思うならそこは世間の外側、広くいくなら内側である。で、最近は内側にいるなと思っている。 iPhoneにデフォルトで内蔵されているgaragebandという音楽の打ち込みができるアプリがあるのだが、昨日今日とそれで少し遊んだりした。無料なのにあんなこともこんなこともワンタッチでできて、なんだか自分がすごい音楽をやっている人みたいな気持ちになった。気づいたら時間がたってて、気持ちはスクリレックスだったね。て、garagebandがすごいだけなのだが。少しDTMをやることに興味が向かっている。ゲームボーイを改造して色んな線をつなぎ、音楽をやったりするやつをやりたい。 楽器のビジュアルに対して多くの人が何か特定のイメージを持っている訳だけど、例えばこれがそもそもは楽器でないものを楽器にした時にどんな音楽が生まれるか、あるいは生もうとするか。そこにはそもそものイメージがない。イメージがないものをやる時に新しくイメージを生もうとしたり、ビジョンを改めて考えたりする必要に迫られるのではないか。抽象的な日記になった。

片付け

部屋の片付けをしようしようと試みるが遅々として進まず、なぜこんなに単純なことができないのかと悩む。何から手をつけて良いかわからない。イメージが湧かないのだ。 こういう部屋にしたい、するという目標があればできるのだろうか。その目標が持てない。特に無いのだろう。私にあるのは快適なのが良い、散らかっているより片付いていた方が良いはずという抽象的過ぎる意思だ。 夏バテ気味であまり調子が良くない。これも色々進まないことの原因だろう。ちょっと休むのも良いかもしれないと、横になり大きく伸びをした。日記が下手になっていることに気づいた。リハビリとして適当に書いてみる。お腹の調子が悪い。しじみの味噌汁を飲もう。ああいう、プハア系の飲み物が好きだ。そういう意味では、炭酸飲料も味噌汁も似ている。似ても似つかない二つの飲み物は、プハア系というジャンルによって結びついた。こういう、名付けによって関係なさそうなものが一緒のグループになることが気になる。 コンビニに行ってしじみではなくあさりの味噌汁を買った。なぜだか大きな貝の方が魅力的に見えた。お湯を注ぐ。店の外では電灯の光に向かって虫たちが突撃していた。夏の風物詩であり、昔は何故そんな行動をするのか意味がわからず怖かった記憶があるが、今はどちらかというと共感している。懸命に生きていく。 暑い疲れたお腹痛いというかなり駄目な独り言を言った。味噌汁を飲むと少し落ち着いた。お腹に染みる。トランプも買おうと思ったけど、行ったコンビニにはなかった。

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