間違っているということは昔はもっと恐ろしいものだったが、今はなんだか図太くなってきたというか、開き直った精神もでてきている。暗いニュースに目もくれず絵を描いたりしては、できました、展示をしたいという考えは正しいか。そう、それが全てで、自分は正しいと思う鈍さはもう持っていない、が、別に間違ってても良いと思っている。ずっとそれで良いのかはわからないが、、というか、あんまりそういうことを考える余裕がない。この3年間考えた所で無力な自分に嫌気が差してひとりで酒を浴びるように飲んだりしているだけであった。あぁあの、緩やかな自死のような生活。何度かかなり危険な状態もあった。だからやめて、できることに集中していきたい。
自分のジャンルというのが無い人と思う。だからこそ越境したりもできるが、軸みたいなものが無い。もうそのことも考えるのは放棄して、結構前に友人に聞いたアイデンティティのあり方を試していきたい。それは、自分の根っこを自分の前に置くというものだ。これからどうするということをアイデンティティにしていく。少し、赤ちゃんに近いだろうか。振り返る胎児の思い出はそこそこに、ハイハイや掴まり立ちを覚え、食べれるものを増やし、新しい言葉を覚え、、やることが沢山ある。理由は特に無いが、あるとすればそうしたいからである。ハイハイができれば自分で移動ができる。移動してみたい。よし、移動できるようにしよう。彼らは何か本で読んだり動画を見たりして、その動きを模しているわけではなく、自然とハイハイという技を習得している。
そんな具合に、やれることを増やしていき、それが世の中の何かになればなと思う。ただこれは、社会貢献みたいなものともまた違う。もう少し、自己満足の力というか。こう書くと身勝手な人だが、そして実際そうなのだが、それでいいのである。見るからに綺麗な言葉を使うことに躊躇するようになってきている。それは私が綺麗な人間ではないからだろうというのが7割くらいと、なんだかそういう言葉にうさんくささを感じるようになってしまったのが3割くらい。
エゴならエゴでいい。そのエゴを何か別の綺麗な言葉や崇高に見える理念に置き換えること、自分は自分でも知らずいつもやっていた気がするのだが、もうそういうことは合わなくなってしまったのでしないようにする。
綺麗な言葉は、良いかな。綺麗すぎる言葉に置き換えること。綺麗っていうのもまた、抽象的なのだけれど。良く見ると不思議な文字だ。
時代的にか昔話が増える中、私はこれから当時をやっていきたいと感じている。よし、これもアイデンティティにしよう。やる。寝る。
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