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7月, 2022の投稿を表示しています

昨日〜今

  髪が伸びた。去年まで三年間ほど丸坊主でいたのが不思議だ。いまだについ襟足をいじってしまう。鏡を見ると頭が大きくなったように見える。というか実際、毛量の分大きくなっているのだが。来月の頭に頭から生えている髪の毛を切ってもらうので楽しみだ。 昨日は流石に転がって一日終えるのはまずいと思い、ハガキサイズの厚めな画用紙があったので、呉竹の水彩筆ペンで小さい絵を描いた。このシリーズを、「ちいさないのり(仮)」と題して制作していきたい。絵の大きさが良く言われるが、小ささに宿るものもあるように思う。「ちいさなたからもの」という題も良いかもしれないな。 聖歌を聴きながら制作。パイプオルガンという楽器の為に荘厳という言葉があると思った。聴いていたのはウィーン王宮での宗教的作品集というアルバム。あまり言葉や感想がでてこない。ただただ集中した時間だった。集中力というのは何時間持つのだろうか。ググる。人によるらしい。しかし長くても90分とな。確かに、私が丸一日集中してやったと思う時、結構盛っていて、もしくは嘘で、なんだかんだとペンをくるくる回しながら管を巻いている時間が沢山ある。こういう一人での制作の陥りがちなことである。意識しなければ外的な刺激を受けられずに飽きてしまうのだ。私も一応何かを制作したりデザインしたりする学校に昔いたので、この辺の複数人と一人の違いに面食らう時が今になって。内から湧き起こるというものは崇高に思われがちだが、たわいない雑談から湧き起こるものもまた良いものだ。というか、暮らすということの半分は雑談や雑務なのではないかとも思う。そのことをどう捉えるか。

布団の中から

  今日は、こんなに寝れるのかよというくらい寝ている。吸う煙草を今までのから少し、健康そうなやつに変えた(それでも煙草なのだが)のと、一日コーヒーを一杯しか飲まないこと(前は五杯くらい飲んでた)にしたのもあるだろうか。布団の中でくたぁっとしている佇まいは廃れた雰囲気もあるが、良く考えれば穏やかな休息である。無の時間、活動と活動の隙間の時間。大抵、めちゃくちゃ寝た後には面白い新しいことが起き始めるから、ゴロゴロしながら楽しみにするということをする。語弊を恐れずに書くならば、自分の発想はどこかでうっすら神や人智を超えたものを想定していると気づく。何かが起きて、これはきっとこういうことなのだなと思う時、それは別に誰かに言われたとかそういうことでもないのである。それじゃあ何故そう思うのか。 横になっている時は、味わったことは無いが無重力空間のような感じが少しする。 立っている時は重力を強く感じる。これは人体の面積が関係しているだろう。立つということは重力は両足の狭い範囲にかかるが、寝るということは重力が全身にかかるので分散される。そんなことを考えながら横になりうとうとしていると、窓が揺れるほどの雷が。しかし雨は降っていない。不思議な天気だ。そうだ、眠いのには天気のせいもあるかもしれない。一人暮らしの最大量のようなベランダの洗濯物を取り込む。 TシャツTシャツTシャツ... 雷の音を聞いたら、これから片付けくらいしようかなと思っていたこともどうでもよくなってしまった。じっくりゴロゴロしよう。充電🔌

思った2

  最近毎日更新が途絶えて来ているので、日記ルールを見直そう。書ける時は毎日書くというのでいこう。絵を描かなきゃなのに日記を書いていても仕方ないしな。ある意味、これは付属品であるので、しかし、ビックリマンチョコのシールのようにしたいという気持ちもある。 こういうのが描きたいという気持ちが薄くなってきていた。というか、ずっと前から薄くなっていた。しかし、所謂抽象画を描く人の、それが何ていう人なのか失念してしまったのだが、描いてみてそれが何に見えるのかということを考えるというスタンスに触発されそのようにしていた所があるのだが、そこからもう一度脱皮して制作していこうとしている。絵を描きはじめてからブランクもあり、ずっと死ぬ気でこれに集中してきたような人を見ると中々さっぱり。頓珍漢な人ではあるが、何かをしようという誰しもに可能性を見出すのであればその目は同時に自分にも向かわなければならない。これは寛容の具体的な効力である。沢山の知ったことや出来事を自分の首を絞めるものにするのか、自分を活かすものにするのかは自分が決めるしかない。そして、私は活かすという方向にフルスイングしていきたいと思っている。 偶に、こんなにすごい絵を描く人がいるなら私はもう描けないという人がいたりするが、そういう発想とは私はほぼ無縁である。短距離走の選手であればその考えは最もである。世の中にはスポーツ的な考えの人や政治的な人や、色々な人がいるのだが、そういう人にとっては、私の絵の方が全然ダメです、あなたはすごいとあっさり敗北する人が意味のわからない人に思われている。何かプライドみたいなものは無いのだろうかと。しかし、私にとっては自分よりすごいと思える人たちやどんどん何かを生み出す人がうぉぉとさせている世の中の方がなんか世の中ダメだよねぇこうなっているよねぇみたいな雰囲気より良いのであり、というか、その、ダメだよねぇの方向に突き進んだ結果は無気力と失望の中、生きるということはただ目の前にある時間を浪費することであり、それではまずいのである。まずいのであれば、それはまずい、あれはまずい、とか思うよりも希望に賭けた方が良いというのが私の決めたことであるのだから、そのことには忠実でいたい。 ある意味では私が持っているのは、社会に対するプライドなのではないか。いつもこういう風に主語が大きくなってしまうのだ...

思った

  笑えるニュースや楽しいニュースが増えたら良いな。私はもっと具体的に行動していく必要がある。絵を描いていて気づいたのが、私の場合、物事を良くしていくコツは、悪くしないと思わず、良くするという意識でいることだ。赤色じゃダメだという、何か判断をすることは必要だが、この判断はダメだというものを幾つ重ねても、何が良いのかを考えることが無ければ具体的な形にはなっていかない。別に法律を作るわけではないのだから、ダメだという判断は放っておいて、こうだということに賭けていく。言葉による考えは制限を生みやすい。というか、制限の為に生まれた言葉が沢山ある。そしてその言葉は良く耳にし、目にする。街を歩いてみよう。標識は制限を示している。その近くに、ここに犬の糞を捨てるな!バカ!という張り紙が貼ってはいまいか。余程腹が立っているのだろうが、そして、その理由も動機も無茶なものではないのだが、そういった視覚環境で感じ、考えることと、素敵な色の貼り紙が貼られた世界で感じ、考えることというのは違うものになるはずだ。そして、2022年の日本というのは言わずもがな、その前者の方に見えるのであり、それはもう徹底しているようにも見える。何かの活動が起きればそれに反対する人たちがでてくる。それは昔からそうなのだろうが、今ほどそれが露骨にスピーディーな時代があるのだろうか。去年一昨年はそのことに私の気持ちや意見はとにかく、気が気で無くなるほどに翻弄されたが、ここに来て身の振り方がわかってきた。これは例えだが、やはり素敵な貼り紙を作って貼る人になっていきたい。今日という日に明るいことと暗いことが共存しているとして、というか、一日というのはそういうものなのだが、そこでどう考えるか。おそらく公共では一ヶ月後には今やっているニュースとは違う暗いニュースをやっているだろう。これは考えてみたら当たり前のことなのだ。世界中の嫌なことや怖いことに目を光らせて、そのことだけを報道すれば地獄のようになるということだ。では、それを見ないというのはどうか。それは逃げなのだろうか。そういう風に言う人もあるだろう。しかし、人間誰しも不完全なもので、私はそれでも良いと思っている。怒ったり悲しんだりして何かになった試しがあっただろうか。さ、素敵な貼り紙を、作る。それは絵を描くということでなくても良いとも思っている。

初心

昨日からBASEでネットショップをはじめた。私の場合は細かいことは後で考えれば良いやくらいの適当さでゆるくはじめることが重要である。計画し始めると、優柔不断ゆえに計画の為の計画が始まってしまい、何も始まらない。これは私の活動における全てを基本的にそうする。正直、あまり格好良くはないのだが、それが良いのだ。格好良くやろうとすると私の頭の中の格好良さに私がついていけず、そのうちついていく気も無くなってしまい辞めてしまったりする。この日記くらいのラフさを活動と呼んでしまう適当さと強引さを持たねば。 今は新人類のかっこいいとかかわいいとか、すてきとか、そういう経済を作るということに意識が向かっている。そして私は自分のことをその一員として考えていこうと思っている。世の中には様々な問題があり、2020年以降、噴出しているどころか大爆発しているのだが、そういうこと、起きる事象やニュースにどう向き合うのかということが問われていると感じる。 https://youtu.be/DTA95HVPtDQ 今日は尾崎豊のハイスクールロックンロールをyoutubeで聴きながらラーメンを食べて泣いてしまう。何か、弱っているのだろうか。その後も同じ動画をずっと見た。曲に入る前のMCが好きだ。真理をついていると思う。特に、「間違ったルールというのは、人を傷つけることのみに、方向が向かっている 正しいルールというのは、人を愛することだ」という箇所。この言葉を胸に自分は活動をしていこうと思う。座右の銘である。散歩をしている時に、経験は諸刃の剣という言葉が浮かんだのだが、そのことともつながる。人間は常に諸刃の剣をその身体や頭の中、心の中に携えているのだ。これを人を愛することに使っていく。

散歩の日

  散歩をした。歩いている猫と目が合う。猫は群れずにいつも一匹でいて、のどかで幸せそうだ。実情は結構ハードらしいのだが。雀がつつきあっていた。仲良しだ。近くには鳩もいた。蜂が怖い。特にイレギュラーな飛び方をしてこちらに近づいてきた時だ。飛ぶ昆虫は何を考えているかわからない。カラスがいた。カラスには頭を蹴られたことがあるのでちょっと怖い。動物界に法律無し。見知らぬ青年の頭を後ろから蹴り飛ばし、何のお咎めも無しである。たまに人間であることに疲れてくると、動物になりたいなんて思うのだが、自然界で生きていく難しさを考えるとやっぱり人が良いなとなる。お屋敷の猫とかだったら良いのだが。 なんとなくビックカメラに入り、テレビを売っているコーナーに行った。最近のテレビの画質は異様に高い。変な言い方だが、現実よりも高画質なのではと思った。同じ映像が九つのテレビで同時に流れていたりして、アンディ・ウォーホルのシルクスクリーン作品の連続性を思った。 画面から音が出るテレビというのがあり、ここを触ってくださいという透明なシートごしに画面に触ると、その振動が手のひらから伝わってくる。どういう仕組みなのだ。そのテレビでは今のニュースをやっていた。近ごろ全くニュースを見ていない。そもそも、テレビを見ないのだが。それでもネットニュースやなんかはちょこちょこ見ていたのもやらなくなってしまった。それは止めるという意識というよりも、なんとなくそうなったのである。なのでこういう所にいると異世界からタイムスリップしてきたような気持ちになる。が、個人的には日々の生活の中で駅にいったり電車に乗ったりしていれば今とても話題になっていることくらいはわかったつもりになれるのであり、そのくらいの感じが自分に合っているのかもしれないと思う。

Mr.スヌーズ

  昨日の日中、今日の朝食はボロネーゼの炊き込みご飯とハンバーグ、コーンポタージュにして、野菜の少なさを補うためにハンバーグの下にサニーレタスを敷き、プチトマトを脇にちょこんと置いたご飯にしようと思ったのだが、今日は朝が早く、そしてお得意の連続スヌーズによる計画倒れ。調子良い時間に起きられず。炊き込みご飯を作る時間を考えると朝食は出発までに間に合わなかったのでコンビニで済ます。春巻きとおにぎり二つ。おにぎりの味は鶏そぼろと昆布。コンビニのおにぎりの味は一つのジャンルとして確立しているように思う。パリッとした海苔が巻いてあるタイプのやつは温かいより冷たい方が美味しいのだろう。というか、なんであんなに海苔がパリッとなるのだ。パリッとしか言いようがない。これはこれで美味しい。 おにぎりを咥えながら駅に向かい、電車に乗るとメジャブとでもいうのか、初めて電車に乗るような不思議な気持ちになった。車輪のついた箱形の建物に偶然居合わせた人たちと共に移動している。三連休の中日の日曜なのもあってか通勤時間帯でも車内は空いていた。一番端の席に座りだらしなく座席の仕切りによりかかり、落ち着きなく髪の毛をいじくりながらイヤホンをつけてボーっと音楽を聴く。私の所作は中高生の頃から十年以上ほとんど変わっていないように思える。大人びた子どもの方が大人びているかもしれない。ピーターパンがどういう物語なのかもわからないまま概念としてのピーターパンになっている。そんなことを考えていると電車のモニターで流れているニュースで、今年はマレーシアで盆踊りが行われ、それがなんと5万人もの人が集まるのだということを知る。なんなのだそれは。コロナ以前はマレーシアでは盆踊りが徳島や高円寺のように夏の風物詩になっていたのだという。ニュース映像は10秒くらいなのだが、ヒジャブを被って踊っている。アジテーションみたいなニュースはどうでもいいし私の場合気にしだすと怒りに転換するので触れないようにするが、こういう、トリビアの泉のようなニュースは気になる。ほのぼのしたり脱力したりすることがしたい。深呼吸をする。ここ三年ほどで人間の呼吸が浅くなった。代わりに地球の二酸化炭素は減っているかもしれないな。

今日と明日の朝食は自炊をする

  湯煎でできるボロネーゼソースと、出来合いのサラダを一昨日始めたPayPay で購入し、家でボロネーゼパスタとトマトサラダ、じっくりコトコト濃厚コーンスープを食べた。久々に小さい自炊をしたのだが、やろうと思えばできるしやった方が良い気分になるのでやろう。ボロネーゼソースが半分余ったので明日はこれで炊き込みご飯を作ろうと思っている。それにチーズとパセリをかけて。赤茶っぽいご飯に薄い黄色と緑色。色合いからして美味しいに決まっているさ。おかずを何にしようか。今日のうちに考えておこう。こうして意識しておくことは重要だ。こういう絵を描きたいと思っていると生活の中にヒントが落ちてたり目に見えるようになったりするように、明日のおかずを意識して生活することで明日の朝食の時にはこうしようというアイディアを持っている人になっているはずだ。求めよ、さらば与えられん。 渡部昇一さんの本に、キリスト教者でなくても信じた方がよい。と書いてあったので信じることにしている。している。というか事実ではないか。こういう絵を描きたいというものがあり、身の回りや生活にそのヒントがある。ということ一つとっても、そもそも絵を描きたいと求めることがなければヒントも何も無いのである。この、ヒントなりきっかけになる出来事やひらめいたアイディアといったものが、与えられたということだろう。 絵を描くなり明日の朝食なり、些細なことを舐め回すかの如く真剣に考えているこの男はやや滑稽ではあるが変人としての責任感や使命感に弱火で燃えているのである。 弱火。ハハ、強火の間違いじゃないのかい。 いえ、私は弱火が合っているのだ。強火ではたった一人で暴走してしまう。柔らかい異物として存在し、私のプライドや思いとかそういうことは一割くらいで、何か人を喜ばすことや世界を覆う暗さに光る一筋の光の一部として私の生命を全うしたく、そんな大袈裟人は強く強くあろうとしてそれができるのはスーパースターくらいのものでしかないのだから、やや滑っている私はリトルスターやミニスターとして小さな光を精一杯放とうと思っているのだ。いや、既に小さく光っている部分に気づかねばならない。 理想に弱火で燃えるロマンチストなのは良いのだが足元が疎かなのも問題である。もう少し固めていくことをしていきたい。何者でもなく全てから宙吊りの足を何処に向かわせるか。向かわせ...

Rainy days never stay

  雨。最近はまた雨の日が多い。それも一日の中で降ったり止んだりする。一応いつも傘を持っていた方が良いかもしれない。良く言われることだが、これだけ技術が発達しても傘の形が変わらないのは面白い。現在の傘の形は18世紀頃できあがったのだという。そして今も同じ形だ。 折り畳み傘はもう少し歴史が新しいが、それでも1928年。こういうプロダクトが発明された時代に居合わせたかったなと思う。あの傘がこんなに小さくなるなんてと、興奮するだろうな。テレビというものが流通しだした時なんて、魔法の箱でしかない。今では魔法も解けたのだが。 昨日の日記に書いた、コウスティングという概念を生活の中に取り入れていきたい。私は退行する。そのことを前提にしておくこと。睡眠というのも起きている時間に対する退行と呼んでも良いかもしれないし、何も考えずに絵を描くことは、こうしてごちゃごちゃ考えていることに対する退行と呼べるだろう。生活の中に二極があることを受け入れ、その準備をしておくこと。屈んだ後に背中を反らすのが気持ちいいことがヒントである。 さ、制作。

ハングリー読書

渡部昇一さんの、知的生活の方法読んだ。私のような野生人が読むにはハードルが高い題だが、面白くて一気に読み終えてしまった。1976年に出版された本なのだが、私の好きな昔のテキストを読む時のタイムラグ感があった。テレビ、ラジオ、コピー機、未だにあるものだが、その存在感は現代よりも70年代の方が遥かに大きい。そして本もそうだろう。この本の中で紹介されている情報の集め方等は今ではほとんどスマートフォンやパソコンに取って代わられているが、その方法に至るまでの思考過程は参考になる。というか、思考過程においては現代よりも昔の人の方がその本気度や工夫の度合いが凄いので、たまにこういう時代を振り返り背筋を伸ばした方が良いのだと感じた。インターネットの基本は無料であることだと思っているが、昔は情報はテレビとラジオでなければ物質を伴っており、その物質を手に取る為に対価が必要であった。今は無料で情報が手に入ることが多い。このインスタントさは良いことと捉えているが、反面、手軽さが生んでいる罠があり、私も含めて良くハマる。そんなことは言い尽くされたことなのだと思うが、その実感が今、個人的に一番大きい状態になっている。そのことを胸に自分の行動も少し、変えていこうと思っている。 無料であることの罠として、良し悪しの区別なく興味本位であっちこっちの情報を見ることになるのだが、この、テキストを打って検索という機能が有料、もしくは何か対価を支払わなければならない世界であったらどうだろうかという時に、私は検索する機会を減らすだろうし、YouTubeやなんかの動画サイトを見るのも、本当に興味がある、好きだ。というものを見るようになるだろう。どうでもいいけどいっちょ見てみっかという考えは中々でてこない。私は自分の中のいっちょ見てみっか精神を徐々に減らしていこうと思っている。無料で手に入る情報や音楽やコンテンツと呼ばれているものにもっと感謝しなくては。 無料の弊害として、トンデモっぽいから見るとか、冷やかしたいから見るといったような性格悪めな受信ができてしまう所がある。私がインターネットで適当に調べたものに比べると、私の家にある本の方が面白いものが多い。それは良いなと思って買ったからだ。私はレコードを所有していないが、レコードで音楽を聴く人たちもそうなのかもしれない。私の場合、対価を払わないのであればめちゃくち...

Room

  10日にライブペイントがあり、電車を逃して横浜を放浪したりしていたら日記が書けなかった。今日からまた書く。ライブペイントは良かった部分もあれば課題が見えてきた所もあるので、どんどん良くしていこう。やっぱりやってみないとわからないな。何事も。 リサイクルショップで本を買った。心の詩集、知的生活の方法、グリム童話のふるさと。グリム童話のふるさとは写真付きでドイツの色んな地方が紹介されている。本を買っておいてあまり活字の気分でもなかったのでグリム童話のふるさとを写真集的に眺めた。グリム童話自体あまり知らない私がふるさとを知ろうとしているのは結構謎なことであるが、リサイクルショップでポンと目に入り、これは買えと何かに言われているのではないかと思い購入。この、アナログな現実空間で起きる偶然の購買意欲というのは面白い。対面の販売で売れるものとAmazonで売れるものというのは実は違うのではないか。 麻婆豆腐とかは当たり前だが、 洋服や本なども良いとなるものが微妙に変わるという気がする。Amazonの方が特定の商品を狙って買うというイメージだ。商品量は豊富であり、家から出ずに購入することができるので便利ではあるが、偶然出会ったものを良いか悪いか判断することが難しい。その良い悪いの判断というのもおそらくGoogleで調べてレビューを見る等、他人の観点に身を委ねることになる。一人で見たことない名前のアーティストの音楽を聴く時のような一時的感覚がそこにはなく、二時的、三時的な感覚で判断しているのである。 外は雨。野良猫はどういう所で雨宿りをしているのだろうか。そういえば雨の日はあまり野良猫を見ないような気がする。代わりにどこからかカタツムリや蛙が登場したりするのだが、この昼と夜の違いのように、晴れと雨の違いで人間の目の前にでてくる生き物の違いが気になる。カタツムリなんて、カンカン照りの時は何をしているのだ。これもGoogleで調べればわかるのかもしれないが、自分の中の神秘的な問いにしておく。 窓の外から聞こえる雨音を聞きながら書いていて、部屋が荒れていることに気づく。イベント事の前後はいつも部屋が荒れる。あれを持っていこう、これを持っていこうなんて引っ張り出したりしている内に無法状態になるのが常である。片付けをしないとな。いつも完璧に片付けようと思って先延ばしにするので、ざ...

破れて直す

  昨日は夕方から仕事だったがその前の時間が異様な充実度だった。17時に家でるからそれまでにああしてこうして、というのが充実のこつだ。当たり前なのかもしれないが。。 闇雲に時間をかけるのでなくそういう時間の使い方をしよう。ペインターパンツの膝がビリビリになっていたので縫って直した。すぐズボンが破けて直す癖がある。私は手縫いの裁縫が下手なのだが下手ゆえの味がある。破けるともう駄目な感じがするズボンやTシャツと、全然いける感じがするやつがあるのが昔から気になる。スーツは破けると駄目だ。ピカピカ、パリパリな状態のみ能力を発揮するものと、ぼろぼろ、ビリビリでも発揮するもの。違いは良くわからないが確かにある。この辺は明確な基準が無い所も面白い所である。デニムの素材は破けていることに対する社会的な耐性のようなものがある。スーツは破けていることが、ただ破けているのであり、破けてますよと言われてしまう。つまり破けているのは変な状態だという認識がなんとなくある。 これは何故なのだろう。やはり先人の振る舞いやファッションが現代特に意識していなくても強い影響を及ぼしているのだ。これから、ビリビリのスーツで登壇するカリスマ経営者やなんかがでてきたら、その10年後には破れたスーツで出社することなど当たり前のことになっているだろう。例えその人がカリスマ経営者のことを知らなくてもである。 そして、なんだよそんなの、破れてない方が良くねという人もでてくる。ある意味価値観というのは多数決で決まっているのかもしれない。が、多数決とは一応付き合いつつもあまり信用してはならない。多数にならないとまずいという焦りから自分の考えが無くなっていくのである。何もなくただ一人で考える時間というのを私は持っておきたい。私もあなたも多数とか少数とかではなく一人なのである。

半閉じ

世間の人過ぎず自分の世界にこもり過ぎず半分閉じることを意識していきたい。開いている時には半分閉じるが、閉まっている時には半分開ける。どちらも同じ状態なのだが、今の私がどの状態にいるのかということは考える必要がある。絵も、うわぁぁとなっている時には控えめに、ちまちましている時にはダイナミックにやった方が良いということがわかってきて、そのバランスをやりたい。ここまで言語化して、大抵辿り着くことが、物事には両義性があるのでどちらも大切にしようとか、右と左があってその間を選択しようということにしかならないことに今気づいた。もうその思考から卒業する時だ。それを前提としてどう進めるか。ボブマーリーは言った。認めない人にこそ必要なものだと。それはYouTubeで見たインタビューの中ではハーブの話なのだが、私はそれだけではないと思っている。他の色んなことにも例えて話していたはずだ。 今日も早起き。朝の散歩の後のiPhoneと向き合う至福の時間である。この機械は受信するだけでなく発信もできるのが面白い。永遠に発信することをしない人もいることが気になる。一度もSNSに登録したりしたことは無く、自ら何かを書いたりすることはせず、ただ情報を調べたりする為に使っている人も確かにいるはずなのだ。そういう人の方が賢いのだとも思う。私は目立ちたがり屋の間抜けなので、無駄なことを発信し過ぎる。良く考えると描いた絵を何でもかんでもインスタグラムに載せなくたって良いのだ。伝えたいことではなく思っていることを何でもかんでも話したり書いたりしてしまう。ユダヤの格言で愚か者とされている人間だ。こういう、とってつけた知識だけ豊富なのも特徴である。体系づけられたものは何も無い。むむ、朝っぱらから自虐的になっている。ただ、その駄目さを活かしたいと思っている。愚か者は必要に迫られて逆転の発想を生み出すのだ。そして必要は発明の母である。 この日記を書くのに使っているBloggerというwebサービスのことを気に入った。高校生くらいの時に流行った前略プロフィールという今考えればレトロ&エモーショナルな半閉じの感触がある。誰にでも開けているがなんとなく不気味なもの。それを覗き覗かれる。プライベートとパブリックの間の自由さと緊張感がある。SNSは結構難しい。というか私は実は苦手なのかもしれない。こういう一人で勝手にで...

七夕のねがい

  昨日は世界堂という画材屋に行った。S10サイズとS8サイズの木のパネル、TURNERの白絵の具の大きいチューブを二本、水彩絵の具にも使えるフィキサチーフ、水溶性ツヤ出しニス、水溶性ツヤ消しニス、0.5ミリと1ミリのボールペンを一本づつ買った。そんなに物量買ったわけでは無いが思ったよりも値が張った。木のパネルは前より高くなっている。去年の春から木材の価格が高騰しているらしい。最近買ってなかったからわからなかった。キャンバスの裏にも木が組んであることを考えるとキャンバスの値段も上がっているはずなのだが、気づかなかった。昨日はそのままパネルにチラシのコラージュをやったりしていたが、全然寝ていなかったこともあって、十九時くらいに力尽きて寝てしまい日記も書けなかった。おかげで今日は大健康。起きると朝の三時。釣り人か。散歩して今後のことをイメージしていた。暗くて人がいないのを良いことにぶつぶつ言いながら歩いていた気がするが、みんなそんなものなのだろうか。違うのかもしれないが、気にするのを止めておく。日が昇り、ジョギングをする人たちとすれ違い、そして追い越されていく。また私も走ってみようか。2020年から走るのが流行っている気がする。リモートワークという言葉が日常にされると共に身体に意識が向かってきた時代だと思う。この、人が自分の行動に対する反動性を持つということに興味がある。寝るということの反動として起きて活動し、それが振り子のようになっていることと同じく、お酒が好きな人であればシラフの時間と酔っ払う時間、デスクワークをする人が走って気分転換をする。ずっと同じ状況が続くことを苦痛に感じるように人間はできているのかもしれない。日記を書くのは面白いが何時間も日記を書くのは辛い。生活をバラエティに富んだものにしたい。 今日は明明後日のライブペイント用の下地作りと、それとは関係無い絵を描き、色々と実験的なことをしてみた。二枚。どちらも良い出来がどうかはわからないが、今までに無い感じがでたので良かった。物質感がある。少し重厚感のある軽妙さだ。この相反する要素を含むものを作りたい。この雰囲気からできるものをやっていこうと今描いた絵を見ながら思う。あと三十枚くらい描いて並べれば面白いものができると思う。自分の部屋の壁に貼って、自分しか見れない展示をやってみよう。そこでシュミレーシ...

短めに

  昨日は日記を更新できず。皆勤賞が途絶えてしまった。昨日までの三日間は相当働き、酒飲んで寝て起きたら夕方。睡眠不足の日たちと爆睡する一日でバランスをとっているのかもしれない。 これからの行動に自分の生活がかかっている。が、気負わないようにしていく。だんだん自分に対して客観的になることができるようになってきたと感じる。そういう意味では作ることは素晴らしい。主観的な情熱と、客観的な目線を同時に持つことが必要になるからだ。このことは結構色んなことに活かせるのではないかとも思っている。 解釈というのは細かく見れば誤解しか無いと思っているのでどう良く誤解するのかというのを考える。自分を信じて、しかし常に間違っていると忘れないことを大切にする。どちらかだけだと自分が崩れていく。崩れるというのは具体的には生活が成り立たなくなるということなのだが、何回もそういう危機が来た後の今の私の判断を信じてみたい。

タイムスリップ

  電車の中でフンデルトヴァッサーの画集を見た。この人は二十世紀の芸術家なのだが、社会的に成功したというタイプでも、困窮のうちに暮らしたというタイプでもなく、なんか新しいもの作っちゃって長生きしたタイプという私の一番気になる種類の人である。おそらく私は新しい基準を作る人に惹かれるのだろう。見た目も、おとぎの国から飛び出してきた妖精のようだ。木こりのようにも見える。 いわゆる本という体裁をとっているものの中にも見るものと読むものがあるのは面白い。画集や写真集は見るものだが、小説は読むものだ。そして写真の下にテキストが書いてあるページというミックスな印刷に対して人は見ると読むのバイリンガルとして向き合っているのだ。人の五感と脳は相当高度なことをやっていると、今そのことを初めて知ったかのように思う時がある。 今思ったことだが、一日の中で起きた重大なことや些細なことに対して考えたことがもう良いことも悪いことも高尚なことも恥ずかしいことも全ての考えが全自動で言語化され、文章になったとしたら、それを全て読むのに一日どころか一年くらいかかるのではないか。この辺の、一つの単位が別の単位に置き換えられた時に同じ時間ではなくなるタイムスリップ感が気になる。 一週間かけてレコーディングした曲が三分になり、偉人の一生を描いた映画が二時間になり、一年かけて描いた絵が1分だけ見られるというのが、そのタイムスリップの定番なのだが、思考実験、悪く言えば屁理屈の言葉遊びとしての逆のパターンというのは何か。三分が一週間になり、二時間が一生になり、一分が一年となる。 基本的には何かを創作したりアウトプットするという行為は、こと時間に関していうと百ある所から一を抜き出したり百を一に凝縮したりする行為なのだと気づく。一生についてのドキュメンタリー映画であれば、現実に忠実にはするがその人が七十年生きた所を七十年の映像にすることは無い。つまり削られている。 逆に引き伸ばすのはどうかと考えている。おそらく世の中にはあるのだろうが私はまだ見たことがない。知らない空港に降り立った後の三分間のことが一時間の映画になるのである。そしてそれは一時間に合わせて三分間をスローモーションにするということではなく、降り立った後の出来事や感じたことやそのことにまつわる回想、三分間の中で色んな時間軸が交差し、現実の世界と頭の中...

中間・ふらふら・気持ち

  ここ三日間は忙しく制作ができないのだが、日記だけはつける。電車の中で書く。ただのフリック操作。ラッパーの人も歌詞をiPhoneメモに書く人もいて、そこから生まれた名曲もあるので、ハイスペックなパソコンに向かいプログラムを書き続けるエンジニアでもなく、上質な紙にお気に入りの万年筆で書く思いのこもった手紙でもないチープなインスタントさは案外侮れない。 このところ制作は水彩絵の具でやっている。前文から派生させると、最新の3Dソフトでもなく、伝統的な芸術としての油絵でもなく、ハイテクというわけでもなく、ややインスタントに使える感じだ。その感じが自分に合っている気がする。こういう、色々な素材がある中で、中間に浮かんでいる素材というのが今気になる。自分にしっくりくる感覚を求め続けなければ。一芸は百芸に通ずというのは一芸を学ぶ過程で自分に馴染むやり方を学ぶ方法を知るからなのかもしれない。 そう考えると十二年間野球をやったりしていたら良かったのかもしれないが私は適当に色んなスポーツをやっては適当に辞めていたのであり、あっちにふらふら、こっちにふらふら、今日もまだふらふら。ただ、絵を描くことは何気に長く続いている。大して環境が無くてもできることというのは私にとって大切なことかもしれない。 スポーツなら、野球のようにボールに加えてバットとグローブ、9人のメンバーが必要というようなものでなく、サッカーやバスケのようにボール一つあれば、メンバーが揃わなければ一対一でやろうかというミニマルさと柔軟さがあることに気持ちが向いている。勿論、それではできないこともあるのだが、与えられた時間は有限であるので、そういうことは得意な人に任せて、自分のやりやすいことをやろうという意識になってきている。 こういう日記を書くことを含めて時間をうまく消費しなくては。 乗り換えの駅に着いたが異常に人がいる。人身事故があったらしく電車の時刻表に時刻が書いていない。不思議だ。電車が来たが人が乗り切れないのを見ている。 他人事みたいだがそういう私も乗り切れなかった乗客の一人なのだ。そして人身事故というのは会ったことのない誰かの命が亡くなったということなのだろう。帰るのが面倒くさくなってきた。みんなどこへ向かっているんだろう。急に主語が大きくなるが、こういう全体的にどんよりした時代においてそれを嘆くべきか、文...

足への謝罪

  外に出ると気温は三十度を超えるというのに分厚い靴下を履いてしまい、足に迷惑をかけてしまった。両手は布一つ纏っていないというのに、両足は真冬の様な格好をさせられていた。すまない。 私の外での生活の中で負担の大きい身体のパーツは足、脚であろう。両足の前後運動によって移動することが歩行であるので、その当事者である両足にはどうしても負担がいく。その間両手はただぷらぷらしている。腕より脚が太いのもうなずける。 ここには重力の問題もあるだろう。私の足が私の全体重を支えている時間が長いのに対して、手というのは基本的に空中にいる。手が全体重を受け止めるタイミングというのは逆立ちをしている時しかない。 私の足は手に比べ筋肉があるが細かい作業が苦手である。絵を描いたり、食事をするのは難しいだろう。私の手は足に比べひ弱だが、細かい作業は得意である。絵を描く時、文章を書く時には才能を発揮するが、一日逆立ちをして生活をすることはできない。身体のパーツにも、人と同じく得手不得手がある。 今、筋肉や、骨、呼吸など、誰にでも関係があるが私にとって身近過ぎて意識が向かないものに興味がある。 昨日は自分でリンパマッサージをした。 衣服やメイク、マスク等を外装とすると、血や骨やリンパが内装だろうか。