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思った2

 最近毎日更新が途絶えて来ているので、日記ルールを見直そう。書ける時は毎日書くというのでいこう。絵を描かなきゃなのに日記を書いていても仕方ないしな。ある意味、これは付属品であるので、しかし、ビックリマンチョコのシールのようにしたいという気持ちもある。


こういうのが描きたいという気持ちが薄くなってきていた。というか、ずっと前から薄くなっていた。しかし、所謂抽象画を描く人の、それが何ていう人なのか失念してしまったのだが、描いてみてそれが何に見えるのかということを考えるというスタンスに触発されそのようにしていた所があるのだが、そこからもう一度脱皮して制作していこうとしている。絵を描きはじめてからブランクもあり、ずっと死ぬ気でこれに集中してきたような人を見ると中々さっぱり。頓珍漢な人ではあるが、何かをしようという誰しもに可能性を見出すのであればその目は同時に自分にも向かわなければならない。これは寛容の具体的な効力である。沢山の知ったことや出来事を自分の首を絞めるものにするのか、自分を活かすものにするのかは自分が決めるしかない。そして、私は活かすという方向にフルスイングしていきたいと思っている。

偶に、こんなにすごい絵を描く人がいるなら私はもう描けないという人がいたりするが、そういう発想とは私はほぼ無縁である。短距離走の選手であればその考えは最もである。世の中にはスポーツ的な考えの人や政治的な人や、色々な人がいるのだが、そういう人にとっては、私の絵の方が全然ダメです、あなたはすごいとあっさり敗北する人が意味のわからない人に思われている。何かプライドみたいなものは無いのだろうかと。しかし、私にとっては自分よりすごいと思える人たちやどんどん何かを生み出す人がうぉぉとさせている世の中の方がなんか世の中ダメだよねぇこうなっているよねぇみたいな雰囲気より良いのであり、というか、その、ダメだよねぇの方向に突き進んだ結果は無気力と失望の中、生きるということはただ目の前にある時間を浪費することであり、それではまずいのである。まずいのであれば、それはまずい、あれはまずい、とか思うよりも希望に賭けた方が良いというのが私の決めたことであるのだから、そのことには忠実でいたい。
ある意味では私が持っているのは、社会に対するプライドなのではないか。いつもこういう風に主語が大きくなってしまうのだが私のような日本で90年代前半に生まれた人は、オウム真理教にはじまり、歳を経る毎に国の雰囲気が沈んでいくような感覚を持っている人が多いであろう。そして2022年に何を思うのか。何かを思うことは素敵なことである。何ってその気になりさえすればその人が決められるからだ。そしてその力は非常に強いことを忘れてはならない。私は今まで思った重要なことだけを忘れず、他は全部忘れ、新しい日がはじまる毎に生まれたてのような気持ちでいようと思っている。

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