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七夕のねがい

 昨日は世界堂という画材屋に行った。S10サイズとS8サイズの木のパネル、TURNERの白絵の具の大きいチューブを二本、水彩絵の具にも使えるフィキサチーフ、水溶性ツヤ出しニス、水溶性ツヤ消しニス、0.5ミリと1ミリのボールペンを一本づつ買った。そんなに物量買ったわけでは無いが思ったよりも値が張った。木のパネルは前より高くなっている。去年の春から木材の価格が高騰しているらしい。最近買ってなかったからわからなかった。キャンバスの裏にも木が組んであることを考えるとキャンバスの値段も上がっているはずなのだが、気づかなかった。昨日はそのままパネルにチラシのコラージュをやったりしていたが、全然寝ていなかったこともあって、十九時くらいに力尽きて寝てしまい日記も書けなかった。おかげで今日は大健康。起きると朝の三時。釣り人か。散歩して今後のことをイメージしていた。暗くて人がいないのを良いことにぶつぶつ言いながら歩いていた気がするが、みんなそんなものなのだろうか。違うのかもしれないが、気にするのを止めておく。日が昇り、ジョギングをする人たちとすれ違い、そして追い越されていく。また私も走ってみようか。2020年から走るのが流行っている気がする。リモートワークという言葉が日常にされると共に身体に意識が向かってきた時代だと思う。この、人が自分の行動に対する反動性を持つということに興味がある。寝るということの反動として起きて活動し、それが振り子のようになっていることと同じく、お酒が好きな人であればシラフの時間と酔っ払う時間、デスクワークをする人が走って気分転換をする。ずっと同じ状況が続くことを苦痛に感じるように人間はできているのかもしれない。日記を書くのは面白いが何時間も日記を書くのは辛い。生活をバラエティに富んだものにしたい。


今日は明明後日のライブペイント用の下地作りと、それとは関係無い絵を描き、色々と実験的なことをしてみた。二枚。どちらも良い出来がどうかはわからないが、今までに無い感じがでたので良かった。物質感がある。少し重厚感のある軽妙さだ。この相反する要素を含むものを作りたい。この雰囲気からできるものをやっていこうと今描いた絵を見ながら思う。あと三十枚くらい描いて並べれば面白いものができると思う。自分の部屋の壁に貼って、自分しか見れない展示をやってみよう。そこでシュミレーションして、今年の展示をやりたい。そう、今年も展示をやるのだ。もう約束したからやるしかないのだが、今年のいつ頃かは未定。というか、展示自体もっとやっていかなければと思っている。今まででも最大年二回か。十二回とかやってしまったらどうなるのかとも思っている。それは言い過ぎにしても、何か展示やその他の社会的なアクションが必要だと確信している。そういう意味ではライブペイントも良いかもしれない。あと、小さい絵を持ち歩いて行商みたいなことをやってみても面白いと思っている。常に私が売り物の絵を持ち、たまたま出会った人だけ買えるというシステムだ。昔やっていた64のゲームの、風来のシレン2にでてくる行商人というキャラクターを思い出す。色んな剣とか草を売ってくれる緑色の格好をした変なおじさんだ。物を投げてぶつけたりしてしまうとそのおじさんは怒り、追いかけてくる。そしてめちゃくちゃ強い。

なんだか日記を書くといつの間にか昔やっていたゲームのことを思い出すことが多いな。ピクミンもそうだ。この、iPhoneとキーボードというデバイスがゲームのことを思い出させるのだろうか。ノートに手書きで書いていた日記には、ゲームのことなんて書いたこと無かったと思う。今は全くやらないのだが、結構ゲームが好きだったのかもしれない。

絵を描くこととゲームの共通点としてコントロール性があると思う。絵は筆や絵の具を選び、紙の上で筆を走らせるなどと道具をコントロールして画を作っていくことになるが、ゲームの場合はコントローラーのボタンを押して画面上のキャラクターを動かしたりしてクリアしていく。絵の場合はこのクリアが無い。あるとしたら自分が決めるしかないという違いはあるが、自分で道具をコントロールして物事を進めるという意味では共通する。
ゲームに比べ、テレビやラジオは放送局の用意した番組があり、それを視聴する。こちらがコントロールできるのはチャンネルを変えるということだけになる。良くも悪くも受動的な行為なのである。ゲームは制作会社もしくは制作者がプログラムしたゲームという意味では受動的だが、その世界の中でコントローラーを握る人の自由がある。絵を描く場合はどうか。。 この考え方でいくと絵は相当に自由だとも思う。紙やキャンバス、絵の具や筆は基本的には描く人ではない人が作ったものだが、それを使ってどうするか、どこをゴールにするのかなどは描く人の自由なのである。これは大人になってから子どもの頃より絵を描きたくなった理由の一つにもなるな。ルールやゴールは私が決めるのだという自由さや身勝手さが誰にでも開かれているということの幸せ。今まで考えたことのないことだったので面白いな。やはり書くことで思考が進んでいく。もう私の場合は、書くことによってのみ進んでいくとも言える。シット!水を飲もうとしたら灰皿をひっくり返した。やはり制作をすると部屋のスペースが狭くなるな。自由と身勝手さの代償だろうか。制作部屋と寝室を分けて暮らしたい。お、目標ができた。今日七夕だったのか。短冊があったらそれを書きたい。もっと色々作ることがやりやすくなるよう計画する。別に贅沢言わないぜ

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2024年3月7日

3月最初の日記。期間が空いてしまった。今日は目覚めるとひどい2日酔いだった。近所のスーパーで経口補水液と野菜ジュース、バナナを買って、イートインコーナーで飲み食いした。1日初めの飲み物1口目。ぷはぁと声がでる。あまり気にしていないが、座る時にどっこらせと言うお爺さんになる要素が私にはある。そのまま色んな食材買って自炊。2日酔いというのは、普段思わないことを思うようにできているのか、あぁ、なんでも、丁寧に袋やパッケージに入れられて売られている。もやしの袋然り、納豆は3個入りセットで丁寧に梱包されていて、キチっと積み上げられている。どの梱包も寸分違わず、目に見える違う部分としたら賞味期限の印刷くらい。奥の方に手を伸ばし1番賞味期限が遠い納豆を買った。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の作品を思い出す。あの、本気だけど皮肉でもあるような良くわからないあり方は結構好きだ。なんとなく、ロックの時代の作品という感じがする。華々しさと自分自身や自分が生きている文明に対する自虐が同居している。だからか、ロック音楽のアルバムというものは1曲目で車の自慢をしたかと思えば、2曲目ではダメ人間のバラードになったりしていて、そういう表現の為ピエロ役を買ってでるような所も結構好きだった。まぁ、そうでない人が沢山いるのもわかるけれど、根本的に自分を下げて矛盾を楽しむユーモアがあって、そういう所に今また惹かれはじめている。甲本ヒロトの良さとラップスターの良さは結構違う気がする。と、詳しくないが今のアメリカのラッパーであまり伝統的な感じがしない人、例えばLil uzi vertの曲を聴いたりすると、も、もしかしてふざけているのでしょうかとも感じるので、文化が受け入れられ成熟してくるとちょっとおちゃらける感じの人が求められてくるのかもしれない。 暫く書いてないと指筆がはかどらない。やはりなるべく毎日書くべきだな。無料でできるのだし、何か発見をするのも文章を書いている時が多い。 唐突なコラージュみたいな文章だ。「自分にとって」絵を描くのは、やっぱり何かの為って所がもっとあった方が良いんじゃないかと思っている。今まで、絵を描くことには理由がいる→絵を描くことには理由はいらない という思考の経緯を辿っていたのだが、ここにきて違う形で当初の意識にまた戻った。違う形とは何かを考えるのなら、元々どういう形で...

つづき

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