湯煎でできるボロネーゼソースと、出来合いのサラダを一昨日始めたPayPay で購入し、家でボロネーゼパスタとトマトサラダ、じっくりコトコト濃厚コーンスープを食べた。久々に小さい自炊をしたのだが、やろうと思えばできるしやった方が良い気分になるのでやろう。ボロネーゼソースが半分余ったので明日はこれで炊き込みご飯を作ろうと思っている。それにチーズとパセリをかけて。赤茶っぽいご飯に薄い黄色と緑色。色合いからして美味しいに決まっているさ。おかずを何にしようか。今日のうちに考えておこう。こうして意識しておくことは重要だ。こういう絵を描きたいと思っていると生活の中にヒントが落ちてたり目に見えるようになったりするように、明日のおかずを意識して生活することで明日の朝食の時にはこうしようというアイディアを持っている人になっているはずだ。求めよ、さらば与えられん。 渡部昇一さんの本に、キリスト教者でなくても信じた方がよい。と書いてあったので信じることにしている。している。というか事実ではないか。こういう絵を描きたいというものがあり、身の回りや生活にそのヒントがある。ということ一つとっても、そもそも絵を描きたいと求めることがなければヒントも何も無いのである。この、ヒントなりきっかけになる出来事やひらめいたアイディアといったものが、与えられたということだろう。
絵を描くなり明日の朝食なり、些細なことを舐め回すかの如く真剣に考えているこの男はやや滑稽ではあるが変人としての責任感や使命感に弱火で燃えているのである。 弱火。ハハ、強火の間違いじゃないのかい。 いえ、私は弱火が合っているのだ。強火ではたった一人で暴走してしまう。柔らかい異物として存在し、私のプライドや思いとかそういうことは一割くらいで、何か人を喜ばすことや世界を覆う暗さに光る一筋の光の一部として私の生命を全うしたく、そんな大袈裟人は強く強くあろうとしてそれができるのはスーパースターくらいのものでしかないのだから、やや滑っている私はリトルスターやミニスターとして小さな光を精一杯放とうと思っているのだ。いや、既に小さく光っている部分に気づかねばならない。
理想に弱火で燃えるロマンチストなのは良いのだが足元が疎かなのも問題である。もう少し固めていくことをしていきたい。何者でもなく全てから宙吊りの足を何処に向かわせるか。向かわせないということもまた、向かわせないという方向に向かっていることになる。求めないということを求めることもまた求めることなのだ。
ぐぬぬ、充電器の調子が悪い。二ヶ月ほど前にこのハイスピード充電の充電器を購入し使っているのだが、充電がなくなるのもハイスピードになってしまった。強火だ。熱しやすく冷めやすいことを止め、徐々に熱し、徐々に愛していかなくては。充電器の話のはずが自分の話になってしまった。ただ程度のさはあれどんな人もそうなのではないか。何かの物の話や他人の話を書いても話しても何処かで自分のこと、その鏡としてその人の周りの環境や物がある、そう見えるという面がある。今日は日記が抽象的になっている。最初はボロネーゼソースのことだったはずなのだが。パスタから星まで同じ紙面や画面の上にのる言葉に感謝している。頭の中で短い時間の間に解剖台の上のミシンとこうもり傘が出会うことが何度も起こること。そういう瞬間を理性を持って編集し、何かに定着させること。
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