電車の中でフンデルトヴァッサーの画集を見た。この人は二十世紀の芸術家なのだが、社会的に成功したというタイプでも、困窮のうちに暮らしたというタイプでもなく、なんか新しいもの作っちゃって長生きしたタイプという私の一番気になる種類の人である。おそらく私は新しい基準を作る人に惹かれるのだろう。見た目も、おとぎの国から飛び出してきた妖精のようだ。木こりのようにも見える。
いわゆる本という体裁をとっているものの中にも見るものと読むものがあるのは面白い。画集や写真集は見るものだが、小説は読むものだ。そして写真の下にテキストが書いてあるページというミックスな印刷に対して人は見ると読むのバイリンガルとして向き合っているのだ。人の五感と脳は相当高度なことをやっていると、今そのことを初めて知ったかのように思う時がある。
今思ったことだが、一日の中で起きた重大なことや些細なことに対して考えたことがもう良いことも悪いことも高尚なことも恥ずかしいことも全ての考えが全自動で言語化され、文章になったとしたら、それを全て読むのに一日どころか一年くらいかかるのではないか。この辺の、一つの単位が別の単位に置き換えられた時に同じ時間ではなくなるタイムスリップ感が気になる。
一週間かけてレコーディングした曲が三分になり、偉人の一生を描いた映画が二時間になり、一年かけて描いた絵が1分だけ見られるというのが、そのタイムスリップの定番なのだが、思考実験、悪く言えば屁理屈の言葉遊びとしての逆のパターンというのは何か。三分が一週間になり、二時間が一生になり、一分が一年となる。
基本的には何かを創作したりアウトプットするという行為は、こと時間に関していうと百ある所から一を抜き出したり百を一に凝縮したりする行為なのだと気づく。一生についてのドキュメンタリー映画であれば、現実に忠実にはするがその人が七十年生きた所を七十年の映像にすることは無い。つまり削られている。
逆に引き伸ばすのはどうかと考えている。おそらく世の中にはあるのだろうが私はまだ見たことがない。知らない空港に降り立った後の三分間のことが一時間の映画になるのである。そしてそれは一時間に合わせて三分間をスローモーションにするということではなく、降り立った後の出来事や感じたことやそのことにまつわる回想、三分間の中で色んな時間軸が交差し、現実の世界と頭の中の世界とが組み合わさり、飛行機を降りて空港から出る前までの三分間のことが一時間の映画になるのである。うまく言語化できないが、そういう短さを長くすることやそこから生まれるものはどういうものなのだろうか。そしてこれはもしかすると文章にするのが合っているのかもしれない。これからシャワーを浴び、髪が夏の汗でギシギシなのでトリートメントをするのだが、その時間は三分くらいだろう。その時間について三十分書いたりするということが文章だと難なくできる。そういうことがやりたいのかもしれない。
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