笑えるニュースや楽しいニュースが増えたら良いな。私はもっと具体的に行動していく必要がある。絵を描いていて気づいたのが、私の場合、物事を良くしていくコツは、悪くしないと思わず、良くするという意識でいることだ。赤色じゃダメだという、何か判断をすることは必要だが、この判断はダメだというものを幾つ重ねても、何が良いのかを考えることが無ければ具体的な形にはなっていかない。別に法律を作るわけではないのだから、ダメだという判断は放っておいて、こうだということに賭けていく。言葉による考えは制限を生みやすい。というか、制限の為に生まれた言葉が沢山ある。そしてその言葉は良く耳にし、目にする。街を歩いてみよう。標識は制限を示している。その近くに、ここに犬の糞を捨てるな!バカ!という張り紙が貼ってはいまいか。余程腹が立っているのだろうが、そして、その理由も動機も無茶なものではないのだが、そういった視覚環境で感じ、考えることと、素敵な色の貼り紙が貼られた世界で感じ、考えることというのは違うものになるはずだ。そして、2022年の日本というのは言わずもがな、その前者の方に見えるのであり、それはもう徹底しているようにも見える。何かの活動が起きればそれに反対する人たちがでてくる。それは昔からそうなのだろうが、今ほどそれが露骨にスピーディーな時代があるのだろうか。去年一昨年はそのことに私の気持ちや意見はとにかく、気が気で無くなるほどに翻弄されたが、ここに来て身の振り方がわかってきた。これは例えだが、やはり素敵な貼り紙を作って貼る人になっていきたい。今日という日に明るいことと暗いことが共存しているとして、というか、一日というのはそういうものなのだが、そこでどう考えるか。おそらく公共では一ヶ月後には今やっているニュースとは違う暗いニュースをやっているだろう。これは考えてみたら当たり前のことなのだ。世界中の嫌なことや怖いことに目を光らせて、そのことだけを報道すれば地獄のようになるということだ。では、それを見ないというのはどうか。それは逃げなのだろうか。そういう風に言う人もあるだろう。しかし、人間誰しも不完全なもので、私はそれでも良いと思っている。怒ったり悲しんだりして何かになった試しがあっただろうか。さ、素敵な貼り紙を、作る。それは絵を描くということでなくても良いとも思っている。
夏バテが続いている。今は布団の上で横になっているところ。さっき、茄子と豚肉の炒め物定食を食べた。最近食が細っているが、食べないとどんどん食べれなくなるのでね。食べよう。 ここまで書いて二時間ほど眠ってしまった。一番気持ちの良い眠り方だ。クーラーをガンガンに効かせて、布団にくるまれた無気力なサナギと化した自分に嫌気がさすが、焦れば焦るほどに無気力であるということを自覚させられるだけなのでやめておく。ゴロゴロする幸せに意識を向ければいい。自炊もめんどくさいので外食。もしくはパンとか弁当とか買って食べるか。私は結構、食べ歩きみたいなのが好きだ。横浜の中華街とかで。落ち着きが無いのだろう。落ち着きが無いというのは悪いこととされるが、果たしてどうなのか。思うに日本は他国と比べて落ち着き度がかなり高い国のように見える。だからなんだ、というのははいのだが、ずっと思っていることだ。思考のゴミ箱だ。 駅に向かった。今まで何回、駅という場所に来て、これから何回、駅という場所に向かうのだろう。小学生の算数の問題がここに。一生において駅に来た回数が多い人と少ない人がいるだろうな。車生活の人々なんかは学生以来電車なんて使ったことない人もいるそうだし。なんか、それはすごく楽しそうだ。マイペースにいけるというか。ただ、怖いのは渋滞だな。 書く文はこんな感じだが、読む文としては、名だたる哲学者の本だったり、ちょいと難解な文が好きだ。全くわからないのでなく、半分くらい内容がわかるような文。私は、考えを固める為に文を読むのでなく、考えを揺らす為に文を読んでいると思う。考えが揺れてまとまらなくなるが、分け隔てなく他者の文を読もうとしているということでもある。しかし固まる為に読みたいという気持ちもわかる。固まる為に読む、知る、聞くなどする場合には、何に触れるかを絞る必要がある。美容を学びたいのであれば、美容を学ぶ人、関心がある人や教える人、本、などなどだが、そもそも美容などいらないという人や文に触れるとなると固まりが解かれたり、意識が足踏みしたりするようになる。ここでいう美容という単語は他の言葉と入れ替えてもいい。芸術でも絵でも音楽でも仕事でも。定義が狭い言葉と広い言葉とあって、狭い言葉について悩む人は少ないが広い言葉について悩む人は非常に多い。私もその一人である。これは爪楊枝である、という考えが人による...
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