笑えるニュースや楽しいニュースが増えたら良いな。私はもっと具体的に行動していく必要がある。絵を描いていて気づいたのが、私の場合、物事を良くしていくコツは、悪くしないと思わず、良くするという意識でいることだ。赤色じゃダメだという、何か判断をすることは必要だが、この判断はダメだというものを幾つ重ねても、何が良いのかを考えることが無ければ具体的な形にはなっていかない。別に法律を作るわけではないのだから、ダメだという判断は放っておいて、こうだということに賭けていく。言葉による考えは制限を生みやすい。というか、制限の為に生まれた言葉が沢山ある。そしてその言葉は良く耳にし、目にする。街を歩いてみよう。標識は制限を示している。その近くに、ここに犬の糞を捨てるな!バカ!という張り紙が貼ってはいまいか。余程腹が立っているのだろうが、そして、その理由も動機も無茶なものではないのだが、そういった視覚環境で感じ、考えることと、素敵な色の貼り紙が貼られた世界で感じ、考えることというのは違うものになるはずだ。そして、2022年の日本というのは言わずもがな、その前者の方に見えるのであり、それはもう徹底しているようにも見える。何かの活動が起きればそれに反対する人たちがでてくる。それは昔からそうなのだろうが、今ほどそれが露骨にスピーディーな時代があるのだろうか。去年一昨年はそのことに私の気持ちや意見はとにかく、気が気で無くなるほどに翻弄されたが、ここに来て身の振り方がわかってきた。これは例えだが、やはり素敵な貼り紙を作って貼る人になっていきたい。今日という日に明るいことと暗いことが共存しているとして、というか、一日というのはそういうものなのだが、そこでどう考えるか。おそらく公共では一ヶ月後には今やっているニュースとは違う暗いニュースをやっているだろう。これは考えてみたら当たり前のことなのだ。世界中の嫌なことや怖いことに目を光らせて、そのことだけを報道すれば地獄のようになるということだ。では、それを見ないというのはどうか。それは逃げなのだろうか。そういう風に言う人もあるだろう。しかし、人間誰しも不完全なもので、私はそれでも良いと思っている。怒ったり悲しんだりして何かになった試しがあっただろうか。さ、素敵な貼り紙を、作る。それは絵を描くということでなくても良いとも思っている。
3月最初の日記。期間が空いてしまった。今日は目覚めるとひどい2日酔いだった。近所のスーパーで経口補水液と野菜ジュース、バナナを買って、イートインコーナーで飲み食いした。1日初めの飲み物1口目。ぷはぁと声がでる。あまり気にしていないが、座る時にどっこらせと言うお爺さんになる要素が私にはある。そのまま色んな食材買って自炊。2日酔いというのは、普段思わないことを思うようにできているのか、あぁ、なんでも、丁寧に袋やパッケージに入れられて売られている。もやしの袋然り、納豆は3個入りセットで丁寧に梱包されていて、キチっと積み上げられている。どの梱包も寸分違わず、目に見える違う部分としたら賞味期限の印刷くらい。奥の方に手を伸ばし1番賞味期限が遠い納豆を買った。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の作品を思い出す。あの、本気だけど皮肉でもあるような良くわからないあり方は結構好きだ。なんとなく、ロックの時代の作品という感じがする。華々しさと自分自身や自分が生きている文明に対する自虐が同居している。だからか、ロック音楽のアルバムというものは1曲目で車の自慢をしたかと思えば、2曲目ではダメ人間のバラードになったりしていて、そういう表現の為ピエロ役を買ってでるような所も結構好きだった。まぁ、そうでない人が沢山いるのもわかるけれど、根本的に自分を下げて矛盾を楽しむユーモアがあって、そういう所に今また惹かれはじめている。甲本ヒロトの良さとラップスターの良さは結構違う気がする。と、詳しくないが今のアメリカのラッパーであまり伝統的な感じがしない人、例えばLil uzi vertの曲を聴いたりすると、も、もしかしてふざけているのでしょうかとも感じるので、文化が受け入れられ成熟してくるとちょっとおちゃらける感じの人が求められてくるのかもしれない。 暫く書いてないと指筆がはかどらない。やはりなるべく毎日書くべきだな。無料でできるのだし、何か発見をするのも文章を書いている時が多い。 唐突なコラージュみたいな文章だ。「自分にとって」絵を描くのは、やっぱり何かの為って所がもっとあった方が良いんじゃないかと思っている。今まで、絵を描くことには理由がいる→絵を描くことには理由はいらない という思考の経緯を辿っていたのだが、ここにきて違う形で当初の意識にまた戻った。違う形とは何かを考えるのなら、元々どういう形で...
コメント
コメントを投稿