ここ三日間は忙しく制作ができないのだが、日記だけはつける。電車の中で書く。ただのフリック操作。ラッパーの人も歌詞をiPhoneメモに書く人もいて、そこから生まれた名曲もあるので、ハイスペックなパソコンに向かいプログラムを書き続けるエンジニアでもなく、上質な紙にお気に入りの万年筆で書く思いのこもった手紙でもないチープなインスタントさは案外侮れない。
このところ制作は水彩絵の具でやっている。前文から派生させると、最新の3Dソフトでもなく、伝統的な芸術としての油絵でもなく、ハイテクというわけでもなく、ややインスタントに使える感じだ。その感じが自分に合っている気がする。こういう、色々な素材がある中で、中間に浮かんでいる素材というのが今気になる。自分にしっくりくる感覚を求め続けなければ。一芸は百芸に通ずというのは一芸を学ぶ過程で自分に馴染むやり方を学ぶ方法を知るからなのかもしれない。
そう考えると十二年間野球をやったりしていたら良かったのかもしれないが私は適当に色んなスポーツをやっては適当に辞めていたのであり、あっちにふらふら、こっちにふらふら、今日もまだふらふら。ただ、絵を描くことは何気に長く続いている。大して環境が無くてもできることというのは私にとって大切なことかもしれない。
スポーツなら、野球のようにボールに加えてバットとグローブ、9人のメンバーが必要というようなものでなく、サッカーやバスケのようにボール一つあれば、メンバーが揃わなければ一対一でやろうかというミニマルさと柔軟さがあることに気持ちが向いている。勿論、それではできないこともあるのだが、与えられた時間は有限であるので、そういうことは得意な人に任せて、自分のやりやすいことをやろうという意識になってきている。
こういう日記を書くことを含めて時間をうまく消費しなくては。
乗り換えの駅に着いたが異常に人がいる。人身事故があったらしく電車の時刻表に時刻が書いていない。不思議だ。電車が来たが人が乗り切れないのを見ている。 他人事みたいだがそういう私も乗り切れなかった乗客の一人なのだ。そして人身事故というのは会ったことのない誰かの命が亡くなったということなのだろう。帰るのが面倒くさくなってきた。みんなどこへ向かっているんだろう。急に主語が大きくなるが、こういう全体的にどんよりした時代においてそれを嘆くべきか、文句を言うべきか、攻撃するのか無視するのか、なんとなく生きるのか、どれも間違いではないが何を選択するのか私は決めなくてはいけないと感じる。個人的には暗い時代に従順に暗いこと言ってる人になりたくないな ただ、何もかも関係無いとにかくこんなんじゃダメだというアナーキーな、暗さを憎んだ明るさは人によってはフィットしたり、漫画や映画にでてくる人としては面白いが、私の場合は結構裏目に出るというか、破綻していくので止める。小さい新しい希望を発明したい。最近暑いのでお店と混んでる電車でしかマスクつけていない。もうすぐ電車が来る。マスクを装着。そして私は鼻と口の見えない匿名の顔となるのである。
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