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Room

 10日にライブペイントがあり、電車を逃して横浜を放浪したりしていたら日記が書けなかった。今日からまた書く。ライブペイントは良かった部分もあれば課題が見えてきた所もあるので、どんどん良くしていこう。やっぱりやってみないとわからないな。何事も。


リサイクルショップで本を買った。心の詩集、知的生活の方法、グリム童話のふるさと。グリム童話のふるさとは写真付きでドイツの色んな地方が紹介されている。本を買っておいてあまり活字の気分でもなかったのでグリム童話のふるさとを写真集的に眺めた。グリム童話自体あまり知らない私がふるさとを知ろうとしているのは結構謎なことであるが、リサイクルショップでポンと目に入り、これは買えと何かに言われているのではないかと思い購入。この、アナログな現実空間で起きる偶然の購買意欲というのは面白い。対面の販売で売れるものとAmazonで売れるものというのは実は違うのではないか。 麻婆豆腐とかは当たり前だが、 洋服や本なども良いとなるものが微妙に変わるという気がする。Amazonの方が特定の商品を狙って買うというイメージだ。商品量は豊富であり、家から出ずに購入することができるので便利ではあるが、偶然出会ったものを良いか悪いか判断することが難しい。その良い悪いの判断というのもおそらくGoogleで調べてレビューを見る等、他人の観点に身を委ねることになる。一人で見たことない名前のアーティストの音楽を聴く時のような一時的感覚がそこにはなく、二時的、三時的な感覚で判断しているのである。

外は雨。野良猫はどういう所で雨宿りをしているのだろうか。そういえば雨の日はあまり野良猫を見ないような気がする。代わりにどこからかカタツムリや蛙が登場したりするのだが、この昼と夜の違いのように、晴れと雨の違いで人間の目の前にでてくる生き物の違いが気になる。カタツムリなんて、カンカン照りの時は何をしているのだ。これもGoogleで調べればわかるのかもしれないが、自分の中の神秘的な問いにしておく。

窓の外から聞こえる雨音を聞きながら書いていて、部屋が荒れていることに気づく。イベント事の前後はいつも部屋が荒れる。あれを持っていこう、これを持っていこうなんて引っ張り出したりしている内に無法状態になるのが常である。片付けをしないとな。いつも完璧に片付けようと思って先延ばしにするので、ざっくり片付けしよう。もう、超ざっくりで良いのさ。これが床に落ちてるのは流石に違うでしょみたいなものを拾ってまとめて、掃き掃除。それだけ。

絵が部屋のスペースを埋めるのは絵を描く以上仕方がないとして、本が多すぎるのかもしれない。収納ができず机の上に積んであったりする。しかしどうしても本を買ってしまう。本の仕舞い方を考えたいが、大きい本棚も置くスペースが無いな。初めて本を売ったりしてみようか考えているが汚れているものもあるし1冊50円とかで買い取られることを考えると好きそうな人にあげたりした方が良いのかも。

ミニマリストという良く聞く言葉の対義語として、マキシマリストという言葉があるらしい。これはコレクターの人とかなのだが、私はこの気質が全然無く、かといって必要最小限のもので生活するという感じでもなく、要するに普通である。この、どちらでもなく普通という人が多いのかと思うが、この普通の中にも一人一人違うバリエーションがあり、ということは普通の人はいないのだが、自分なりのバランスを探って生活したい。それが即ち生きることなのではないかと思う。

コメント

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ていぎ

夏バテが続いている。今は布団の上で横になっているところ。さっき、茄子と豚肉の炒め物定食を食べた。最近食が細っているが、食べないとどんどん食べれなくなるのでね。食べよう。 ここまで書いて二時間ほど眠ってしまった。一番気持ちの良い眠り方だ。クーラーをガンガンに効かせて、布団にくるまれた無気力なサナギと化した自分に嫌気がさすが、焦れば焦るほどに無気力であるということを自覚させられるだけなのでやめておく。ゴロゴロする幸せに意識を向ければいい。自炊もめんどくさいので外食。もしくはパンとか弁当とか買って食べるか。私は結構、食べ歩きみたいなのが好きだ。横浜の中華街とかで。落ち着きが無いのだろう。落ち着きが無いというのは悪いこととされるが、果たしてどうなのか。思うに日本は他国と比べて落ち着き度がかなり高い国のように見える。だからなんだ、というのははいのだが、ずっと思っていることだ。思考のゴミ箱だ。 駅に向かった。今まで何回、駅という場所に来て、これから何回、駅という場所に向かうのだろう。小学生の算数の問題がここに。一生において駅に来た回数が多い人と少ない人がいるだろうな。車生活の人々なんかは学生以来電車なんて使ったことない人もいるそうだし。なんか、それはすごく楽しそうだ。マイペースにいけるというか。ただ、怖いのは渋滞だな。 書く文はこんな感じだが、読む文としては、名だたる哲学者の本だったり、ちょいと難解な文が好きだ。全くわからないのでなく、半分くらい内容がわかるような文。私は、考えを固める為に文を読むのでなく、考えを揺らす為に文を読んでいると思う。考えが揺れてまとまらなくなるが、分け隔てなく他者の文を読もうとしているということでもある。しかし固まる為に読みたいという気持ちもわかる。固まる為に読む、知る、聞くなどする場合には、何に触れるかを絞る必要がある。美容を学びたいのであれば、美容を学ぶ人、関心がある人や教える人、本、などなどだが、そもそも美容などいらないという人や文に触れるとなると固まりが解かれたり、意識が足踏みしたりするようになる。ここでいう美容という単語は他の言葉と入れ替えてもいい。芸術でも絵でも音楽でも仕事でも。定義が狭い言葉と広い言葉とあって、狭い言葉について悩む人は少ないが広い言葉について悩む人は非常に多い。私もその一人である。これは爪楊枝である、という考えが人による...

今日も台所から

最近、今日食べる料理と一緒に明日の分も作り置きするという技術を覚えた。昨日は味噌芋煮を4人前くらい作ったので今日も食べたし、なんならまだ少しだけ残っている。タッパーに入れて冷蔵庫に保管しておく。なんかチーズとか入れたり、ご飯と混ぜて食べたりしたい。アレンジアレンジ。編曲、リミックス作業、描いた絵をスキャンしてフォトショップで編集するようなことかな。 水を飲む。喉を通って胃に入っていく。前よりもそのことを感じている。 今日は少し疲れていたのか、早起きはしたものの、その後少し昼寝をしたりと横になっている時間が長い日だった。散歩したり絵を描いたりした。絵を描く時間が前より明らかに短くなっている。もう少し、そのことについても考えたい。長くした方がいいのか、これくらいで良いのか。むしろもう短くしきるべきか。前はとにかく意味もなくひたすら描いてた。今は何か世の中の中に、意味が無ければやってはいけないみたいな感じがダサいみたいな考え方があるっぽいのだが、私の場合は如何に。どちらかというと意味を求める人なのかもしれないと思う。 日付の絵に関しては、漢字でいう草書の描き方と楷書の描き方にわけたいと思っている。サラッとした良さとごてごてした良さがあるはず。間のある力の抜けた魅力と、ごてごてした厳しさや、ビシっと(擬音語)した魅力。水彩と油彩のちがいのような。 話が往復したり重複したりするのだが、自炊の際は写真をたくさん撮ることにしてみる。何の変哲も無いキッチンの玉ねぎの写真やテキスト、四コマやなんかを織り交ぜた本が作れたらいいなと。こんなの作ってみたよという。なんだよ対してインスタとかツイッターとか、そういうのと変わらないんじゃ。。というような内容を紙に印刷して編集するという作業を通してどういう風になっていくのか。ま、とにかく、絵と並行してゆっくりやっていくことですな。なんとなく、忙しくしなければならないという考えを止める。別にじっとしていたり寝ているだけの日があったって良いじゃない。 今日は散文の気分の日だ。言葉遊びをしたくなる。はっぴいえんどを聴いた。無性にアコギが弾きたくなり、少し弾いた。無性にアコギが弾きたくなる音楽というのがある。無性に散歩がしたくなる音楽もあれば、横になりたくなる音楽、踊りたくなる音楽、泣いちゃう音楽?  あと、男の人の方がギター好き率が高い気がする...
カフェインとらないようにしてみたら見事動けず、転がってyoutubeを眺める時間が長い一日を過ごしたのは私だけではないだろう。なんでか私は歴史とか、言語に行きがちなのだが。エンタメを吸収する時間が少ないような、もしくはエンタメでないものまでエンタメになっているような。その中でも勿論、シリアスなものから軽いものまであるけれど、この所はずっと軽いものを知ろうとしている。疲れ気味なのかこの時代のこの場所における当事者意識が薄くなってしまっているようだ。この時代しか、過ごせないのにねー。違和感は沢山。バランスとしては、自分が生まれる前の文化を振り返る、みたいな感じがしっくりくる。今できることはなんなのだろうな。この所も元気がでてきたらもっと詰めて考えていきたい。なんとなくモヤモヤと、経済観がテーマになるような気がしている。世界的な一つの経済観を志向するのでなく、オルタナティブな経済がそこかしこにあるようなあり方。これも歴史に学ばねばうまくいかないだろう。自分にとって親しみやすいか親しみ辛いかは別として、こういうあり方があるということ自体は幾つでも知っておきたい。私は触れるということとそうなるということは別物だと思っている。わかりにくいか。運動をするということと身体を動かすのが好きだということは違うということや、美術史の本を読んでいると果たして美術に興味があるのかということ。読まざるを得ないみたいなこともあるかもしれないし、今まで興味が無かったので興味を持ってみようという動機もあるかもしれない。それがそのままその人の関心になったりならなかったりする。