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ハングリー読書

渡部昇一さんの、知的生活の方法読んだ。私のような野生人が読むにはハードルが高い題だが、面白くて一気に読み終えてしまった。1976年に出版された本なのだが、私の好きな昔のテキストを読む時のタイムラグ感があった。テレビ、ラジオ、コピー機、未だにあるものだが、その存在感は現代よりも70年代の方が遥かに大きい。そして本もそうだろう。この本の中で紹介されている情報の集め方等は今ではほとんどスマートフォンやパソコンに取って代わられているが、その方法に至るまでの思考過程は参考になる。というか、思考過程においては現代よりも昔の人の方がその本気度や工夫の度合いが凄いので、たまにこういう時代を振り返り背筋を伸ばした方が良いのだと感じた。インターネットの基本は無料であることだと思っているが、昔は情報はテレビとラジオでなければ物質を伴っており、その物質を手に取る為に対価が必要であった。今は無料で情報が手に入ることが多い。このインスタントさは良いことと捉えているが、反面、手軽さが生んでいる罠があり、私も含めて良くハマる。そんなことは言い尽くされたことなのだと思うが、その実感が今、個人的に一番大きい状態になっている。そのことを胸に自分の行動も少し、変えていこうと思っている。


無料であることの罠として、良し悪しの区別なく興味本位であっちこっちの情報を見ることになるのだが、この、テキストを打って検索という機能が有料、もしくは何か対価を支払わなければならない世界であったらどうだろうかという時に、私は検索する機会を減らすだろうし、YouTubeやなんかの動画サイトを見るのも、本当に興味がある、好きだ。というものを見るようになるだろう。どうでもいいけどいっちょ見てみっかという考えは中々でてこない。私は自分の中のいっちょ見てみっか精神を徐々に減らしていこうと思っている。無料で手に入る情報や音楽やコンテンツと呼ばれているものにもっと感謝しなくては。 無料の弊害として、トンデモっぽいから見るとか、冷やかしたいから見るといったような性格悪めな受信ができてしまう所がある。私がインターネットで適当に調べたものに比べると、私の家にある本の方が面白いものが多い。それは良いなと思って買ったからだ。私はレコードを所有していないが、レコードで音楽を聴く人たちもそうなのかもしれない。私の場合、対価を払わないのであればめちゃくちゃ適当になるが対価を払うのであれば、もう少し慎重な適当さになる。しかし、検索するという行為が無料であり、対価を払っていないような気がしているが、実は時間を払っている。別に私は1分1秒無駄にしないという意識の高い人ではないが、私が生まれてから今までの自分の検索履歴を確認すれば、お金を払うなら見ないだろ絶対というものが過半数を占めるのではないか。そこの部分がもっと自分の興味があるものだったり、自身を向上させるものであれば生活も全然違ったのではないかと思う。反省。そしてこれからに活かしていかねばならない。

本に話が戻ると、渡部昇一さんいう方は1930年生まれのクリスチャンであり、戦後の1955年に大学を卒業しドイツとイギリスに留学した英語学者の方なのだが、私が感銘を受けたのは二つあって、一つは渡部昇一さんが本を書いていた時代の人たちの蔵書の量と、もう一つはコウスティングという概念を知ったことである。

洋服を作る人が洋服を沢山持っているように、本を書く人が本を沢山持っているのは自然なことだと思うが、インターネット無きこの時代はもう、マンションを二部屋借りて、一部屋は家族で住み、もう一部屋を仕事場にしてそれを逃げるわけにはゆかない経費と呼んだり、向坂逸郎さんという方はマルクス主義関係の本を五万冊集めて、文献が焼けてしまっては困るからと防火建築の書庫を作ったり、書くことや知ることに対するハングリー精神が凄まじいのである。本を売って闇米を買うようなことはしないで、闇屋になって闇米を売ってでも本を買うようでありたいと思っている。とある。戦争は絶対に良くないことだが、日本の戦前生まれの、本を書いて未だにテキストが残っている人たちというのは稀有な存在で、私はこういう人たちの本をちまちま買っていきたい。日本万歳みたいなのではなく、かといって貶めるようなことでもなく、葛藤しながら知に向かう姿勢というのを学びたい。そしてその知というのは絵という言葉でも良いのだがそういうものに触れる時、私の絵はこういうので良いのだろうかという個人的な葛藤は先人の歴史の前にはチンケなものである。ダサい。そんな私なりに色々、明るく足掻いていこう。

感銘二つ目の、コウスティングという概念なのだが、本の186ページ目から引用すると、”しかし知の働きはこの自然界において周囲の自然とは全く異質なものである。この異質なものを抱え込んでいる人間は、動物の知らない自己実現の喜びを知るとともに、またそれからくる苦悩も多く持つ。われわれは高い知的生活を求めつつも、それをいつも維持できるとは限らないのである。知の向上への努力は、しばしば休息、あるいは心理学で言う「退行現象」につながることを見のがしてはいけない。”とある。
そして、マズローによると、”この正常な、また健康な退行現象を、コウスティング(coasting)と名づけた。”とある。正常な、また健康なという言葉に救われる思いがして赤線を引いた。世間ではその感覚が変なものとされていることが多い気がするのだが、私は二重人格的であることが変だとは全く思えなく、むしろそうあることを活かした生活を人間ができれば良いのではないかと考えている。不思議の国のアリスの物語を作ったドジソンは実は数学者だったのである。これは常識なのかもしれないが、私は知らなかった。本の中では、このことを一種の創造的退行と呼んでいるのだが、こういう、理論的である人が空想にふけることや、同じ人間が同時に相反すると思われている別の世界を持っていることが普通になることを夢見る。私も自分の愛するキャラクター達の素敵な物語を作って絵を描き、生真面目に日記を書き、踊り狂い、酔っ払い、何がしかの形でこの良くわからない世界に良い形で還元していきたい。

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