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Mr.スヌーズ

 昨日の日中、今日の朝食はボロネーゼの炊き込みご飯とハンバーグ、コーンポタージュにして、野菜の少なさを補うためにハンバーグの下にサニーレタスを敷き、プチトマトを脇にちょこんと置いたご飯にしようと思ったのだが、今日は朝が早く、そしてお得意の連続スヌーズによる計画倒れ。調子良い時間に起きられず。炊き込みご飯を作る時間を考えると朝食は出発までに間に合わなかったのでコンビニで済ます。春巻きとおにぎり二つ。おにぎりの味は鶏そぼろと昆布。コンビニのおにぎりの味は一つのジャンルとして確立しているように思う。パリッとした海苔が巻いてあるタイプのやつは温かいより冷たい方が美味しいのだろう。というか、なんであんなに海苔がパリッとなるのだ。パリッとしか言いようがない。これはこれで美味しい。


おにぎりを咥えながら駅に向かい、電車に乗るとメジャブとでもいうのか、初めて電車に乗るような不思議な気持ちになった。車輪のついた箱形の建物に偶然居合わせた人たちと共に移動している。三連休の中日の日曜なのもあってか通勤時間帯でも車内は空いていた。一番端の席に座りだらしなく座席の仕切りによりかかり、落ち着きなく髪の毛をいじくりながらイヤホンをつけてボーっと音楽を聴く。私の所作は中高生の頃から十年以上ほとんど変わっていないように思える。大人びた子どもの方が大人びているかもしれない。ピーターパンがどういう物語なのかもわからないまま概念としてのピーターパンになっている。そんなことを考えていると電車のモニターで流れているニュースで、今年はマレーシアで盆踊りが行われ、それがなんと5万人もの人が集まるのだということを知る。なんなのだそれは。コロナ以前はマレーシアでは盆踊りが徳島や高円寺のように夏の風物詩になっていたのだという。ニュース映像は10秒くらいなのだが、ヒジャブを被って踊っている。アジテーションみたいなニュースはどうでもいいし私の場合気にしだすと怒りに転換するので触れないようにするが、こういう、トリビアの泉のようなニュースは気になる。ほのぼのしたり脱力したりすることがしたい。深呼吸をする。ここ三年ほどで人間の呼吸が浅くなった。代わりに地球の二酸化炭素は減っているかもしれないな。

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GW1

今日は一日の途中でゴールデンウィークだと気づいた。なんとなく街並みの雰囲気も違ったからだ。路上でレッドホットチリペッパーズのコピーをやっている人たちがいてすごく良かった。ちょっとだけ踊った。can't stop addicted to the sinding. 世の中の連休といえば私にとっては昔から、忙しい日であるのだ。 世間はなんとかですねえと言ったり思ったりする時、狭く思うならそこは世間の外側、広くいくなら内側である。で、最近は内側にいるなと思っている。 iPhoneにデフォルトで内蔵されているgaragebandという音楽の打ち込みができるアプリがあるのだが、昨日今日とそれで少し遊んだりした。無料なのにあんなこともこんなこともワンタッチでできて、なんだか自分がすごい音楽をやっている人みたいな気持ちになった。気づいたら時間がたってて、気持ちはスクリレックスだったね。て、garagebandがすごいだけなのだが。少しDTMをやることに興味が向かっている。ゲームボーイを改造して色んな線をつなぎ、音楽をやったりするやつをやりたい。 楽器のビジュアルに対して多くの人が何か特定のイメージを持っている訳だけど、例えばこれがそもそもは楽器でないものを楽器にした時にどんな音楽が生まれるか、あるいは生もうとするか。そこにはそもそものイメージがない。イメージがないものをやる時に新しくイメージを生もうとしたり、ビジョンを改めて考えたりする必要に迫られるのではないか。抽象的な日記になった。

片付け

部屋の片付けをしようしようと試みるが遅々として進まず、なぜこんなに単純なことができないのかと悩む。何から手をつけて良いかわからない。イメージが湧かないのだ。 こういう部屋にしたい、するという目標があればできるのだろうか。その目標が持てない。特に無いのだろう。私にあるのは快適なのが良い、散らかっているより片付いていた方が良いはずという抽象的過ぎる意思だ。 夏バテ気味であまり調子が良くない。これも色々進まないことの原因だろう。ちょっと休むのも良いかもしれないと、横になり大きく伸びをした。日記が下手になっていることに気づいた。リハビリとして適当に書いてみる。お腹の調子が悪い。しじみの味噌汁を飲もう。ああいう、プハア系の飲み物が好きだ。そういう意味では、炭酸飲料も味噌汁も似ている。似ても似つかない二つの飲み物は、プハア系というジャンルによって結びついた。こういう、名付けによって関係なさそうなものが一緒のグループになることが気になる。 コンビニに行ってしじみではなくあさりの味噌汁を買った。なぜだか大きな貝の方が魅力的に見えた。お湯を注ぐ。店の外では電灯の光に向かって虫たちが突撃していた。夏の風物詩であり、昔は何故そんな行動をするのか意味がわからず怖かった記憶があるが、今はどちらかというと共感している。懸命に生きていく。 暑い疲れたお腹痛いというかなり駄目な独り言を言った。味噌汁を飲むと少し落ち着いた。お腹に染みる。トランプも買おうと思ったけど、行ったコンビニにはなかった。

深夜各停

 電車の中で日計りという写真集を見た。私の好きな写真集である。本は読んだと言うのに、写真集は見たと表すのは、文字があるかないかということが読むと見るの違いと認識しているのだろうか。しかし、写真の中にも文字が入っている。それらの多くは看板や貼り紙。飲み屋の名前、貼り紙禁止。 ただ、看板を読んだとはあまり言わないだろう。そうすると、文字が多いと読む、少ないと見たと呼ぶのだろうか。3文字を読むと思うか、見ると思うか。ファッションブランドのロゴを読むのか、見るのか。私は見た。 写真の特性に朧気ながら気づく。この写真集の中にある写真は古くて1990年、新しくて2002年。私が生まれる前のものもあれば、生まれた後のものもある。ただ、2002年の時点で私は思いつく限りでは新宿に一度も行ったことはなかった。その写真の中にいる人、人々、服装、街並み、看板、見た私は時代を感じとった。今のことではないということを。見たことのないことを見た、その場所にいなかったことへのノスタルジー。それは厳密にはノスタルジーではなく、ノスタルジー風である。何がそう思わせるのかはわからない。懐かしさと新鮮さ。行ったことがある土地だと、この場所は通ったことがある、良く行ってた、今もいたりする。しかしそこにまつわる風景は目の前にある写真とは少し違う。その少しの違いというのは例えば、建物が変わっていたり、新しい店ができていたり、その前を横切る人たちが違ったりする。横切る人まで街並みに入れれば一瞬でも同じ瞬間はない。その一瞬というものに何かを感じる、もしくは感じたいと思う人が取り憑かれたように写真を撮ったりするのかもしれない。 日記も2度と同じものは書けないと思う。それは良し悪しとは別の、ただそういう瞬間だったからというのがある。そういう、コントロールのできなさを、たまたま写り込んだもの、それらはノイズであるが一つの魅力なのである。絵にコーヒーをこぼした時、何か予測していなかったことが目の前で起きる時、それらにどう反応するか、頭の中で作り上げたものは外側に出る時、頭の中のものにはならない。それはもどかしさでもあるが現実である。誰もが頭の中のことをそのまま、ただただそのままにいけば、ここで写真を撮る時にこういう人が走り、こういう人は立ち止まり、こういう人は後ろを向いていて、、スタジオではそれが可能かもしれない...