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3月, 2023の投稿を表示しています

ハウスダスト

 片付けすると埃が舞うのか鼻炎の症状がでてくる。花粉症かと思っていたが、そしてそうなのだが、基本的に鼻が弱いのかもしれん。そんなことは置いといて、今朝絵を描くの集中力使った。結構ダラダラめでできるやつと集中しないとできないやつがあるな。それで、集中するのってちょっと億劫だ。なんか、うし!みたく力まなきゃできない感じがしてしまうのだが、スマートにスッとやりたい。いちいち何かの前に難儀に感じてしまう時間がでてくるの、とても謎である。未だに夏休みの宿題のような気持ちが残ってしまっているのだろうか。 今朝はキムチと豆腐、玉ねぎを入れた麹味噌汁と、ピーマンとキノコ入りもやし炒め、納豆ご飯を食べた。納豆に少しお酢を入れるのをお勧めされ、やってみた。納豆がめちゃめちゃ混ざる。納豆=醤油で生きてきた私だが、まだまだ開拓が必要だ。ごま塩も美味しいらしいし、ごま油も良かった。醤油はパンチがある感じで、他の調味料は納豆のサポートになる感じだ。  今は電車に乗っている。端の席が空いていたので端の席。移動中サヴィニャックの自伝読む。正直、サヴィニャックの絵に詳しくないのだが。

Awake

 久々にブルーハーツ聴いたり、ガンズアンドローゼズ、ニルヴァーナ、セックス・ピストルズ、ザ・クラッシュ、、個人的にザ王道のラインナップ。(思い込みだけれど)中高生の時に自分のことも代わって叫んでくれたひとたちでもある。おそらく、同じ思い込みのそういう人たちが世界中に散らばっているのだろう。こういうことはなんだか格好悪い気がして書かない、というか思わないようにしていたのだが、自分は格好悪いことを思い出し、書いている。重荷が重いなら早めに格好悪くなった方がいい。何重にも塗っていたメッキも今から思うと、かわいらしいものだったり、大切なものだったりもした。今はもう結構どうでもいい。が、その時好きだった音楽はスッと入ってくる。スーパースターになるか、革命家になるか、普通に働くかで迷っていた少年は今、絵を描いたり自炊をしたり日記を書いたり働いたりしています。なんというか、私の人生序盤の発想って、極端ですね。中間みたいなものが全くありません!そして結果苦労している。まぁ、まだ序盤なのかもしれないのだが。それは私にはわからない。 サバを炒めると異常に美味しかったし、背骨も全部食べられた。これからサバを見かけたらサバを買う。サラダ、サバ炒め、納豆ご飯、汁物という食事を1日1回はしたい。身体がハッピーという感覚は重要である。心は身体に、身体は心に、頼りあって暮らしている。トライアスロンをやる友人も、絶対に食べないとダメだと言っていた。食べなかった分を心でカバーするのには限界が。逆も然り。 春の眠気に誘われて、少し寝たら絵と片付け、スケジュールはiPhoneに入れた。

起魔

また10時間くらい撃睡。消耗することを控えて少し休もう。iPhoneも、こういう時だけ見るとか決めようかな。昔より惰性で触っている。しかし、そもそも生活にまつわる全てのごとが歳を経るにつれて惰性になりがちなのかもしれないのである。大人になって隣の駅に電車で向かうことが新鮮でワクワクできる人がどれだけいるだろうか。ワクワクしたいのだが。子ども、お年寄りにはそういう人もいる感じがするが、青年であるということは難しい。 肉不足かもしれないと思い豚バラ肉を買ってきた。それらと玉ねぎ、もやし、じゃがいもを味噌ベースのお湯の中に入れて茹でているところである。味噌汁感が出過ぎないように味噌を少なめに入れてみた。何かの味が支配的になることなく、味噌と豚肉、野菜達がハモるような味になったら良いなと思っている。 何でか自炊の日記が多くなっている。おそらく、20代途中までほぼ自炊をしたことがない、自炊素人であるからだろう。結構、これを入れるとこうなったみたいなことが新鮮に感じられるのだ。新鮮に感じられることというのは、それがいやなもので無かったりする限りは基本的に面白い。しかし、慣れたことをやることも重要なのである。この、慣れたものとどう向き合うのかというのがこれからの自分の課題になるだろうな。というか、大人の課題である。慣れたものがつまらなくなって過激になっていくことは新鮮さを取り戻す一つの手段ではあるが、あまり行き過ぎると死んでしまう。地味に生きたい。斜に構えればたかだかご飯を食べたくらいなことをありがたいことや楽しいこと、そして何より新鮮なことにしていきたい。毎日何かを感じ直すことができれば良いなと思っている。 私も歳をとっていくが、同時に時代も歳とっていく。というか、時代、、というか世界史というか、そういったものは確実に人1人より高齢なのである。良い思い出も悪い思い出も私ひとりよりも、西暦から数えるなら地球の2023年間の方が圧倒的に多く持っているはずだ。それでもって、私も含めて今生きている人たちはその一番前のところにいて、何を学び、何を学ばないべきか、どうするべきで、どうすべきでないか等、歴史に巻き込まれているのである。メディアが発達し、物理的には世界がつながれるような雰囲気が生まれると、良い部分もあるが、悪い部分として、世間知らずで居づらくなるというのがあると思う。どれもこれ...

睡魔

予定ないからと16時間寝てしまった。2ヶ月に1回くらいこういう日がある。2回分の睡眠として2回分起きれないだろうかと考えるが、やめた方が良いだろう。寝溜めはできないと聞いたことがある。こういう時は起きた時、プチ栄養失調のような状態になっている。昨日炊いたお米があった。すぐにスーパーに行き、レトルトカレーと1日分の野菜ジュース、チューブ型のこんにゃくゼリー、値引きされていたお惣菜のソーセージとペンネのサラダ、コーンスープの素、半額になっていた枝豆パンを購入。 1年ぶりくらいにこんにゃくゼリーを食べたが美味しかった。どうこんにゃくなのかは昔からわからないが、子どもの頃からの好物である。アロエジュースや、たまに自動販売機で売っている、つぶみというジュースも好きだ。つぶつぶした食感が好きなのだろう。童心に帰れる。液体と固形の間のような飲み物には子どものロマンが詰まっている。食べるもの、飲むもので性格も変わってくる気がする。豆、魚族になっていきたい。今日はどちらの要素も無かったのだが。睡眠族である。 夜の21時に起きたので1日は3時間しか無かった。youtubeでショート動画というのを見ていたら1日が終わってしまった。ひとことで廃人。ちょっと暗い気持ちになるがまぁそういう日もあるものだ。

私は猪であった

さっきスーパーで買った にしんの塩焼き、大きなフライパンでギリギリ炒められるサイズで税込246円て、すごくないか。魚。身も肥えていて、炒めるのに時間がかかる。故に炒めながら日記を書いているところである。ところで、縁あって5月末に何かやることになりそうです。早めに準備しなくては。にしんを木ベラでひっくり返すと、尻尾が取れてしまった。ちょっと大きすぎたかな。。。まぁ、お腹空いているしこのくらいの方が良いや。 独特の文体になっていることに気づく。過去と現在、未来が全てごちゃごちゃになっている。キッチンで書いている。絵もキッチンで描いている。キッチン、まるでマルチスペース。飲食店みたいな心持ちでできるから好きな感じもある。狭いけど。 絵や文章といっても、カレーライスや寿司みたいなものもあれば、銀行とか仮想通貨みたいなものもある。私は、今のところカレーライスかな。刺身とか、余計なことはしないのに魅力になっているものも気になる。刺身もいつかちゃんと作りたい。 味にしろ色にしろ、重ねていくことで重なったもの一つの力は薄くなっていく。3色の絵の中の1色は重要だが、120色の中での1色は、それが何か別の色にすり替わっていてもほとんどの人にはわからないだろう。何か、本当にその色に注視している人を除いて。味にしてもそうだ。そう考えると、「にしんの塩焼き」というのは、なんか好きな感じだ。そこにはチーズや胡椒がない。味のデパートを作ろうとするのでなく、味の専門店を作ることだ。私の人生に欠けていた、潔さである。 日記からフライパンに戻り、にしんに箸を刺して箸を抜き、唇の下にあてる。暖かい。中まで火が通っていることを確認した私はにしんを木ベラで掬って皿にのせ、そして食べた。主食は納豆&キムチご飯、日韓丼と、汁物に昨日作っておいた鶏ガラだしの玉ねぎとじゃがいものスープ。質素にいくならこの献立は良いだろうな。ただ、やはりにしんが大きかった。お腹いっぱいだ。足るを知らず。骨が多かったが小さい骨は気にせず食べた。この骨を自分の骨にして、今日も絵を描いて、あと、スケジュールだ。今日の予定は予定を立てるということをすることだ。なんだか昨今流行りのメタ的な予定である。私の場合これをしないと直ぐに目の前のことに集中してしまう。いや、それで良いんだよ。先のことより目の前のことに集中するべきだよ、あの人もそ...

芋と玉ねぎ

芋と玉ねぎにはこれからずっとお世話になるだろう。おそらく世界の庶民派自炊フード。今日はそれらを入れた鶏ガラ醤油スープときのこパスタ。転がってiPhoneいじっていた時間を取り戻さねば。今気づいたこと。実は、疲れている、実は、お腹が空いている、実は、食べ過ぎの「3実は」に陥りがちだ。朝昼夜、食事を軽くして、合間にピーナッツをかじっている人になろうかな。あとは果物も良いらしい。果物はあまり食事という言葉が合わないような気もするが。それじゃあなんと言う。「果物を食べる」。昨日はトライアスロンをやっている友人に会ったのだが、やはり食事には非常に気を使っていた。自分のその場しのぎ食事が恥ずかしくなるが、アスリートの食事のこつは他人の真似をしてストイックになることでなく、食べたいものを食べることだという。これは私が食事だけでなく色んなことに応用した方が良い考えかもしれない。こういうことをしたくない、頑張らねばみたいな考えに自分は陥りがちだ。それはそれで良いのかもしれないが、肝心の目標が見えていない時がある。いや、結構そればっかりなのではないか。悪くしない、というのは一つの指針かもしれないが、良くする、という意思がなければ何もかも消去法で考えるしかないのである。運動をしなければという考えでするのと、運動が楽しいという考えでするのは、すること自体は一緒でも、気持ちの疲れ方は違う気がしている。例えば本を読むのは誰に言われるとでもなく勝手にやっている。そして、それが好きなのだとも思う。勝手に、楽しむという心持ちの時間を増やしたい。 お、パスタが茹であがった。一旦日記を休憩。 食べた。すぐに食器を洗う。この、二分くらいで終わるしやった方が良いがそのビジュアルとボーッとするお腹が満たされたことが相まって、なぜかその作業の何倍も面倒なことに感じてしまう時があるのが、この洗い物である。しかし、私は今日、クリアした。 スープの味が薄かった気がするが、私は今年、味覚分野の薄口を開拓したい。素敵なお年寄りの味覚の準備である。早い気もするのだが。濃口は今まで相当いったからな….   何年か前から考えて、別人になっていると感じる。確固たる考えと思っていたことが案外脆かったり、もやもやしていたことがはっきりしてきたり、楽しめるものが変わってきたり、諦めたことも、新しく希望を持ったこともたくさんある...

自分の内側には何もないかも

日記を書かぬ間に、誕生日を迎えたりなどした。年齢からか、だんだん誕生日度数のようなものは少なくなっている。絵はあまり描けず。昨日髪を切って、えほんやるすばんばんするかいしゃさんに行った。大桃洋祐さんの展示を見た。絵を見ることについて、奥まった木の部屋で電球で絵を見ることと、天井の高い、白塗りの壁に絵の鑑賞用のスポットライトで見ることと、色々あるなと思った。私はもっとやることに対して、まつわる他のこと、特に空間のことを考えた方が良いことに気づいた。今までは言うならばリズムやメロディー、歌詞を一生懸命考えるが、スピーカーはなんでも良いんですといった感じだった。反省!! るすばんさんで荒木さん、ゆずさんと話した。るすばんさんは絵本屋さんであり、ギャラリーでもあり、たまに気の向くまま関心のあることを話させていただき、こういうことが知りたかったのだということを教えてもらえる有り難い場所でもある。実は私は何が知りたいのかということを自分でもあまりわかっていないのではないか。それが、今日の天気の人もいれば、朝食を何にするかの人もいて、この世界の行く末の人もいたり、自分はなぜ生まれてきたのかなど軽めなことから深刻めなことなどなど、、 勿論、シンプルに一つのことだけを知ろうとか、考え続けている人はいないだろうし、そうしようとしても無理だろう。そうすると、あらゆることを知っておいたり学んでおくに越したことはないとなって、全方位に意識を向けなければいけないような強迫観念に囚われ、強く、美しく、そして優しく、謙虚に、自信を持ち、自らを過信せず、、考えは混乱し何か向上心や目標を持ったりすると逆に何をどうしたら良いのかわからなくなってしまう、これは現代病なのではないか。 なんとなく筆(フリック操作?)が止まった。とにかく、昨日話させてもらったことが今後の自分の方向性につながりそうだ。感謝!

電車電車

 電車の中で読む本を忘れてしまったので日記を書く。 お惣菜の、サバの西京漬けをパスタと一緒に茹で、ツナ味のパスタソースをかけて食べた。それとは別に、レトルトのコーンスープ。魚をパスタと一緒に茹でて合いそうなソースを絡めて食べるというのは手間も少なく色んな味わいを楽しむことができる。色んな魚やソースで試してみたい。もちろん、肉や野菜でも良いのだが。 魚の、これはアジやサバなど、ある程度の大きさがある場合の話だが、外側の味と内側の味、頭の方と尾の方の味が違う、一尾で色んな味や食感が楽しめるという所が好きなのだと気づいた。これは何も魚に限ったことではなく、豚肉や鶏肉でもそうなのだろうが、いかんせん豚肉や鶏肉は全身を食事の一食の中で食べるということはほぼない。サバやアジ、タイといったような、マグロのように大きくもなく、シラスのように小さくもなく、人間が一尾全体を一食の中で食べられる魚は全身を一食で食べることができる。ここには味の沢山のグラデーションがあり、一体、サバという魚はどういう味なのか?というのがわかりづらい。が、しかしサバの味というのがある。頑張って言葉にしたくなる味というのだろうか。まとまらなくなってしまった。 薬を飲んではいるが花粉がしんどくてどこにも全く行き場の無い怒りが募る。花粉のせいだが花粉に怒っても仕方がない。もうすぐ目的地に到着だ。鼻をすすりながらイヤホンで聴いている音楽はプリンス&ザ・ニューパワージェネレーション。今までなんとなく聴いてこなかったプリンスだが、今度王子という土地に行くことを思い出し、プリンスを聴こうと電車に乗る前に思いたったのである。そして、この電車の中でプリンスファンになった。バックバンドの、ザ・ニューパワージェネレーションもいい。ジャンルの区分はそこそこにクリエイティビティに向かっている感じだ。まとまらないアイディアを調和させる方法等、こういう音楽から見つかるかもしれないのである。三鷹。

粗食

よし、気を取り直して、早寝、早起き、絵に文章、自炊と筋トレ、イエス。 昨日、21世紀を前提とした新手工業製を提唱、実践し、先進国の過度に発達した文明の中で人類の自信を復活させる という、作家としてのテーマができた。これは結構良いのではないかと思う。19世紀にウィリアム・モリスが主導した、アーツアンドクラフツ運動が気になる。 。。。ここから書き進めていこうと思ったのだが、何も書くことがない。もう少し、頭の中で発酵したらこのテーマについて掘り下げて書いていくことができるだろう。 腹筋をした。その後朝食。キムチ納豆ご飯、麹味噌汁、サバの西京焼きという、ザ・発酵食ズを結成できそうなラインナップだ。麹味噌汁にはもやし、じゃがいも、玉ねぎ、しめじの具が入っている。この4つの具材には死ぬまでお世話になるだろう。安くて美味しい。今日のじゃがいもと玉ねぎは破格であった。39円。この辺りの野菜たちは、一度に採れる量が多いのだろうか。野菜の価格を不思議に感じることがある。大体、もやしはどうやって栽培しているのか、そういうこともわからないのだ。 発酵食品を買いがちなことに気づく。「身体にいい」というのは使い古された言葉だが、身体にいいって普通にいいよな。 新鮮でないということがプラスに転じているところもいい。私が古着が好きなことにも関係があるだろうか。乳酸菌はヨーグルトを作るが、キムチも作る。メモ。菌を肯定している、というか菌なしでは存在できないというのもいい。何故か、「菌」という単語は悪のような感じにされているが、我々は菌に沢山助けられているのである。時間が空いたら、発酵と菌について勉強したい。この、勉強したいものを決めておくというのも重要だ。あ、暇だ、、という時にそれを学べば良いのである。

ぐだり初め

朝食に、にしんの開きの炒めと、麹味噌汁、納豆ご飯を食べた。納豆はいつものおかめ納豆でなく、金のつぶという納豆。にしんの開きを炒める為に、油をしいたフライパンの上にそっと置いた。そっと置いてもジュワワワワと音が鳴る。腹から裂かれたにしんの両目がこちらを見ている。なんだか私は怖い感じがした。魚の目は本来左右についているのだが、目の前で炒められているにしんの両目はピカソのキュビスムの絵の如くこちらを見ている。魚の開きは左右のどちらもを正面にして、内臓を裏面にする。 やはり、毎日魚を食べると調子が良い気がする。私は、食べれそうな骨は食べ、目玉も食べる。目玉の周りのプリプリしたところが好きである。どうせ食べるなら食べれる部分はしっかり食べないとと思った。 リサイクルショップで金属製の工具箱のようなものを買った。これは画材を入れる用である。ある程度の大きさがあるが持ち運ぶことのできる固い箱が欲しかったのだ。これはまさにそういう箱である。画材はある程度絞りたい。道具の多さで混乱している。自分らしい?道具が最近見つかってきているのでそれらを入れる。見つかってきているというか、なんかずっと使ってるしそういうものなのかなというか。ある意味では、保守的だと思う。慣れてるからとか、ずっとやってるからみたいなことで大した理由もなく続いていることっていうのが結構ある。それが続いていくことが良いことなのか悪いことなのかもわからない。

禁煙散文

今日もタバコを吸わない日だった。なんかもう吸わなくて良い気がする。そして、働き、絵を描いた。絵はもっとがっつり描く日を作っても良いかもと思うが、なんだかんだそういう日があると12時間ぶっ続けで制作しましたみたいなことにはならず、グダグダしていたりする。24時間を多様に使いたい。絵を描く時間、自炊してご飯を食べる時間、本を読む時間、人と会う時間、、中高生の、恋も部活も勉強もみたいな考えに近いのだろうか。 しかししかし、打ち込むべきことは絵を描くことである。いつか、絵を描かなきゃとか、そういう焦りや悶々とした気持ちが無くなれば辞めても良いのかもしれないが、今のところ無くなりそうもなく、このまま無くしてはいけないとも思っている。 私の課題は、あれもこれもやろうと地に足も着けずに欲張りすぎてしまうことだ。いや、欲張るというのは感覚を言葉にできていない。あれもこれもできなければいけないというずれた義務感に意識が持っていかれてしまうことが課題だ。そして、実際できなければいけないことというのはある。私は本当は凝りに凝ったことを一つだけ淡々と続けていきたいのだが、どうしてもやらなくてはいけないものに生活の中で直面する時に、こうして一つだけをできなくなっていくのならこの際全部やってやれというような見通しの甘いヤケクソな考えを今まで持っていたと思う。 その反省もありここ一年くらいはその、握りしめていたヤケクソさが溶けていき、私にとって丁度良いものになってきた。この丁度良さは人によって全く異なることを理解しておく必要がある。 例えば、こうしてつらつら意味があるんだかないんだかわからないようなごちゃごちゃ考えましたということだけを証明するような日記を書いたり、割と無心で絵を描いたり、その二つの時間があることで私はバランスを取っていると思う。ここでどちらかに偏り、考えねばならない。考えないというのは良くない。とか、考えてはならない。感じなくてはならない。とか、そういう一つの方向に捉われず、逆に言うなら、あれに捉われたり、これに捉われたり、そうやって物事に対する向き合い方を一つではなく複数にわけ、それが何らかの形になっていく。 

no smoking

 タバコを吸わない日だった。私にとっては奇跡のような日だ。このまま止めてみる。生活の当事者として、吸わない生活というのが良くわからないので挑戦してみる。いろいろ変えていく

大きな生き物

 ルーティーンが崩れてしまった。反省!! あじの開きを買ってきて炒め、昨日作っておいた、男爵いも、ほうれん草、玉ねぎ、しめじの入った麹味噌汁と、冷奴、卵かけ納豆ご飯を朝食に食べた。今日買ったあじの開きは前買ったものよりも大きかったので、骨は食べれなかった。魚は大きさによって骨が食べれるか食べれないかが変わる。メモ。 良く考えてみると、小魚のしらすにも骨があるのに、骨だとも思わず食べている。いや、もしかすると骨が無いのか??グーグルで調べる。顕微鏡で見てください。ちゃんと見えますよ。はい。 大きい鯨がぐわわわわと海水を吸い込み、魚を食べる、というか飲み込んでいくのを動画で見たことがあるが、骨が喉に引っかかったり、咽せたりすることはないのだろうか。巨大生物が今気になる。大きな熊、キリン、サイ、鯨、カバなどだ。野生のこれらの生物を間近で見たらまじかとなり、人生観が変わりそうだ。動物園では見たことがある。しかし、全く人生観が変わったりはしなかった。野生で見るのか、動物園で見るのかは違うのだろう。動物園は好きなのだが、その好きさというのは映画を見る感じで、劇場やフィクションを見ているようだ。ノンフィクションに野生の熊と遭遇した時に、私ならどうする。 生活自体をクリエイションしていきたいと思っている。自分という存在をプログラミングし直し、そしてそのプログラムを実行するのだ。私は、動物園でなくて野生の生物として生きねばならない。そこは自由ではあるが、しっかり考えないとやっていけないだろう。

無題も題2

 疲労で日記書けず。昨日は20時間くらい寝てしまった。優先順位は、1,日付の絵 2,日記 にしよう。日付の絵描かなかったけど日記は書いたという日を作らない。まず絵。時間なくても絵。シャワーを浴びるのと一緒に、パレットの絵の具を洗い流した。パレットはプラスチックのやつじゃなくて木のやつにいつかしたいな。道具は結構テンション変わるものでもある。まあ、良い鍋を買って自炊は全くしなくなったみたいなこともありそうだけど、、、 なんとなく、木という素材は時間が経って汚れたりすることに対しても、経年変化といったようなプラスの言葉を思うのに対して、プラスチックの素材というのは、劣化みたく思ってしまうのはなんなんだろうか。 新品でこそ良いものであるスーツのような感じか、建物にも、そういうものがある。お腹が空いた。

花粉

 花粉症の薬、アレグラが効いている。鼻で呼吸できるということが、嬉しいことになった。きつい状態があると、普通だと思っていたことが恵まれたことになっていくな。ただ、慣れると忘れてしまう。夏がくれば花粉症のことなんて全く忘れていると思う。秋が一番快適に感じる。暑くもなく、寒くもなく、花粉症も私の場合は症状がでてこない季節が秋である。 昨日、花粉症の薬が効くまで鼻が詰まって眠れず、なんとなくモヤモヤ考えていた。弱いものを作りたい。カッコよくはないが、魅力のあるもの、単語の、すごい、やばい、に、当てはまらないもの、それでも、何かしら良さを放っているもの。それに対する感想が、様々なバリエーションがありそうなものというか、誰が見てもかっこいいとか、かわいいとかでない、む、これはというような、その先はそれぞれの人の中にあるようなもの。 余地を作りたい。一応、公園としてはあるが、その遊具の使い方などは集まる人が発明していったりするようなもの。

I want アレグラ

 花粉で鼻詰まりが酷く、ほとんど眠れなかったので、やっぱり花粉症の薬を買いにいこう。一体私が花粉に何をしたというのだ。花は好きだけど、花粉は嫌いだよ! でも、花粉があるから花があるのだ。何事も自分にとって都合よくはできていない。 昨日描いた日付の絵、最初のがあまりよくなく見えたので2枚目も描いてみた。ふむ。時間をかければ良いというわけでもないのだな。描きこみたい気持ちもあるが、もう少し線を少なくしたいという気持ちもある。線が少ないということでいうと、書道が気になる。西洋にも書道があるのだろうか。聞いたことがない。アルファベットなど、文字自体が少なく、文字自体の画数が少ないこともあると思う。それに比べると、漢字は数も多く、画数も沢山あり、複雑な形をしていて書きがいがある。覚えるのは大変なのだが。こんなに漢字が多いのを見ると、漢字が発明される段階で、これは難しすぎる、止めようとか、そういう話にはならなかったのだろうか。いや、この漢字でしか表現できないものがあるのだという何かがあったのだろう。不意に私が漢字というものをそれなりに使いこなしている人間だということに気づく。詳しくないが、漢字は中国由来である。中国の昔の絵、山水画、水墨画など、なんとなく書道を感じさせる、そして、西洋のデッサン的な絵に比べると線が少ない。色も少ない。日本の江戸時代に発展した浮世絵も、線が少ない。色は多いが、細かい陰影的なものは少なく、結構ざっくりしている。形もざっくり目で、輪郭線がはっきりしているものが多い。しかし、稚拙さのようなものを感じることはない。これはこれの世界としてはっきり存在して魅力を放っている。ガラパゴス的に成長したものの魅力というのが気になる。今の時代はすぐに周りの影響を受ける。それは良いことも多いのだが、独特のやり方を育みづらいということにもなる。 花粉で満身創痍なので、なんだか何書いているかわからなくなってしまった。早く薬局開いてくれー。

ゼロ筆目

洗濯したディッキーズのズボンが乾き、履いてみた。やや薄汚れてはいるが、良い感じだ。何か汚れるかもしれない作業はこれでやろう。確かこのズボンは11年くらい前にアウトレットで買ったやつだ。私が物持ちが良いというより、このズボンが頑丈だったのだろう。破れどころか、ほつれの一つも見つからない。 背筋70回×2をして、昨日作り置きをしておいた野菜トマトスープと、きのこクリームパスタを食べた。 美味しい。 昨日の自炊は失敗だったので反省。野菜トマトスープと、ミートソースのパスタなんてね、、、  ピンクの上着にピンクのズボン、ピンクのスニーカーって感じだったよ。 それぞれは良くても食べ合わせは重要だ。ここで気づいたのは、ベースが同じ味のものが二品並んでいる状態はなるべく避けた方が良いということだろう。オムライスと卵焼きの組み合わせとかも微妙だ。 逆に、味が離れていればよいのだろうか。ミートソースのパスタと、味噌汁なんてどうだろう。最悪だ。なんとなく、イタリアン、和食、中華、とか、そういう風に料理のジャンルが分かれているのも納得できる。このジャンルはなんとなく、ここまではありでこれは無しというものが、言語化されているかいないのかはわからないが、あるのである。もっともっと食に対する解像度を上げていきたい。 本音を書けば、今は絵を描かなければいけないのだが、なかなかやる気がでないのでこの日記を書いている。こういう、文章は書きたいが絵を描くのは億劫だというような状態があり、そういう時はかまわず日記を書いた方が良い。そうしないと本当にただゴロゴロ転がっているだけである。 文章を書く気も起きない時は転がってYouTubeを見よう。何もする気が起きない時にこれを見るというチャンネルを決めておこう。 絵描かなきゃだけれどどうしよっかな。とりあえず、なんでも一筆目が大変である。適当でいいから一筆目を描き出そう。