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芋と玉ねぎ

芋と玉ねぎにはこれからずっとお世話になるだろう。おそらく世界の庶民派自炊フード。今日はそれらを入れた鶏ガラ醤油スープときのこパスタ。転がってiPhoneいじっていた時間を取り戻さねば。今気づいたこと。実は、疲れている、実は、お腹が空いている、実は、食べ過ぎの「3実は」に陥りがちだ。朝昼夜、食事を軽くして、合間にピーナッツをかじっている人になろうかな。あとは果物も良いらしい。果物はあまり食事という言葉が合わないような気もするが。それじゃあなんと言う。「果物を食べる」。昨日はトライアスロンをやっている友人に会ったのだが、やはり食事には非常に気を使っていた。自分のその場しのぎ食事が恥ずかしくなるが、アスリートの食事のこつは他人の真似をしてストイックになることでなく、食べたいものを食べることだという。これは私が食事だけでなく色んなことに応用した方が良い考えかもしれない。こういうことをしたくない、頑張らねばみたいな考えに自分は陥りがちだ。それはそれで良いのかもしれないが、肝心の目標が見えていない時がある。いや、結構そればっかりなのではないか。悪くしない、というのは一つの指針かもしれないが、良くする、という意思がなければ何もかも消去法で考えるしかないのである。運動をしなければという考えでするのと、運動が楽しいという考えでするのは、すること自体は一緒でも、気持ちの疲れ方は違う気がしている。例えば本を読むのは誰に言われるとでもなく勝手にやっている。そして、それが好きなのだとも思う。勝手に、楽しむという心持ちの時間を増やしたい。

お、パスタが茹であがった。一旦日記を休憩。

食べた。すぐに食器を洗う。この、二分くらいで終わるしやった方が良いがそのビジュアルとボーッとするお腹が満たされたことが相まって、なぜかその作業の何倍も面倒なことに感じてしまう時があるのが、この洗い物である。しかし、私は今日、クリアした。

スープの味が薄かった気がするが、私は今年、味覚分野の薄口を開拓したい。素敵なお年寄りの味覚の準備である。早い気もするのだが。濃口は今まで相当いったからな….   何年か前から考えて、別人になっていると感じる。確固たる考えと思っていたことが案外脆かったり、もやもやしていたことがはっきりしてきたり、楽しめるものが変わってきたり、諦めたことも、新しく希望を持ったこともたくさんある。変わっていくことは、変わってしまったのか、良くなっていくことなのか、ただそういうものなのか。時間について不思議に感じる。ボーッと歳をとってはいけないのかもしれないが、あまりそれが強迫観念にならないことを一番気をつけたい。昨日素敵なダラダラした時間を久々に過ごして、今そういう風に思った。

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今日は一日の途中でゴールデンウィークだと気づいた。なんとなく街並みの雰囲気も違ったからだ。路上でレッドホットチリペッパーズのコピーをやっている人たちがいてすごく良かった。ちょっとだけ踊った。can't stop addicted to the sinding. 世の中の連休といえば私にとっては昔から、忙しい日であるのだ。 世間はなんとかですねえと言ったり思ったりする時、狭く思うならそこは世間の外側、広くいくなら内側である。で、最近は内側にいるなと思っている。 iPhoneにデフォルトで内蔵されているgaragebandという音楽の打ち込みができるアプリがあるのだが、昨日今日とそれで少し遊んだりした。無料なのにあんなこともこんなこともワンタッチでできて、なんだか自分がすごい音楽をやっている人みたいな気持ちになった。気づいたら時間がたってて、気持ちはスクリレックスだったね。て、garagebandがすごいだけなのだが。少しDTMをやることに興味が向かっている。ゲームボーイを改造して色んな線をつなぎ、音楽をやったりするやつをやりたい。 楽器のビジュアルに対して多くの人が何か特定のイメージを持っている訳だけど、例えばこれがそもそもは楽器でないものを楽器にした時にどんな音楽が生まれるか、あるいは生もうとするか。そこにはそもそものイメージがない。イメージがないものをやる時に新しくイメージを生もうとしたり、ビジョンを改めて考えたりする必要に迫られるのではないか。抽象的な日記になった。

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