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私は猪であった

さっきスーパーで買った にしんの塩焼き、大きなフライパンでギリギリ炒められるサイズで税込246円て、すごくないか。魚。身も肥えていて、炒めるのに時間がかかる。故に炒めながら日記を書いているところである。ところで、縁あって5月末に何かやることになりそうです。早めに準備しなくては。にしんを木ベラでひっくり返すと、尻尾が取れてしまった。ちょっと大きすぎたかな。。。まぁ、お腹空いているしこのくらいの方が良いや。


独特の文体になっていることに気づく。過去と現在、未来が全てごちゃごちゃになっている。キッチンで書いている。絵もキッチンで描いている。キッチン、まるでマルチスペース。飲食店みたいな心持ちでできるから好きな感じもある。狭いけど。 絵や文章といっても、カレーライスや寿司みたいなものもあれば、銀行とか仮想通貨みたいなものもある。私は、今のところカレーライスかな。刺身とか、余計なことはしないのに魅力になっているものも気になる。刺身もいつかちゃんと作りたい。 味にしろ色にしろ、重ねていくことで重なったもの一つの力は薄くなっていく。3色の絵の中の1色は重要だが、120色の中での1色は、それが何か別の色にすり替わっていてもほとんどの人にはわからないだろう。何か、本当にその色に注視している人を除いて。味にしてもそうだ。そう考えると、「にしんの塩焼き」というのは、なんか好きな感じだ。そこにはチーズや胡椒がない。味のデパートを作ろうとするのでなく、味の専門店を作ることだ。私の人生に欠けていた、潔さである。

日記からフライパンに戻り、にしんに箸を刺して箸を抜き、唇の下にあてる。暖かい。中まで火が通っていることを確認した私はにしんを木ベラで掬って皿にのせ、そして食べた。主食は納豆&キムチご飯、日韓丼と、汁物に昨日作っておいた鶏ガラだしの玉ねぎとじゃがいものスープ。質素にいくならこの献立は良いだろうな。ただ、やはりにしんが大きかった。お腹いっぱいだ。足るを知らず。骨が多かったが小さい骨は気にせず食べた。この骨を自分の骨にして、今日も絵を描いて、あと、スケジュールだ。今日の予定は予定を立てるということをすることだ。なんだか昨今流行りのメタ的な予定である。私の場合これをしないと直ぐに目の前のことに集中してしまう。いや、それで良いんだよ。先のことより目の前のことに集中するべきだよ、あの人もそう言ってたし…  ということを私はひとまず禁止しなければならない。そういう言葉に救われ、有効に働くのはこれまでの私のような行き当たりばったりの種族ではなく、老後のこと、死後のこと、生真面目に考えて病んでしまう人の場合である。私の場合は、明日のこと、今年のこと、そんなのわかるかい。みたく超近視眼的な状態、猪であることで病んでしまうのであるから、どちらかというと老後や死後に悩む人々に近づかねばなるまい。


ただ、そうして目の前のことしか見えなかった時があることに感謝もしている。全然だめなあり方を学ばせてもらったような。


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