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禁煙散文

今日もタバコを吸わない日だった。なんかもう吸わなくて良い気がする。そして、働き、絵を描いた。絵はもっとがっつり描く日を作っても良いかもと思うが、なんだかんだそういう日があると12時間ぶっ続けで制作しましたみたいなことにはならず、グダグダしていたりする。24時間を多様に使いたい。絵を描く時間、自炊してご飯を食べる時間、本を読む時間、人と会う時間、、中高生の、恋も部活も勉強もみたいな考えに近いのだろうか。

しかししかし、打ち込むべきことは絵を描くことである。いつか、絵を描かなきゃとか、そういう焦りや悶々とした気持ちが無くなれば辞めても良いのかもしれないが、今のところ無くなりそうもなく、このまま無くしてはいけないとも思っている。

私の課題は、あれもこれもやろうと地に足も着けずに欲張りすぎてしまうことだ。いや、欲張るというのは感覚を言葉にできていない。あれもこれもできなければいけないというずれた義務感に意識が持っていかれてしまうことが課題だ。そして、実際できなければいけないことというのはある。私は本当は凝りに凝ったことを一つだけ淡々と続けていきたいのだが、どうしてもやらなくてはいけないものに生活の中で直面する時に、こうして一つだけをできなくなっていくのならこの際全部やってやれというような見通しの甘いヤケクソな考えを今まで持っていたと思う。 その反省もありここ一年くらいはその、握りしめていたヤケクソさが溶けていき、私にとって丁度良いものになってきた。この丁度良さは人によって全く異なることを理解しておく必要がある。

例えば、こうしてつらつら意味があるんだかないんだかわからないようなごちゃごちゃ考えましたということだけを証明するような日記を書いたり、割と無心で絵を描いたり、その二つの時間があることで私はバランスを取っていると思う。ここでどちらかに偏り、考えねばならない。考えないというのは良くない。とか、考えてはならない。感じなくてはならない。とか、そういう一つの方向に捉われず、逆に言うなら、あれに捉われたり、これに捉われたり、そうやって物事に対する向き合い方を一つではなく複数にわけ、それが何らかの形になっていく。 

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