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2月, 2023の投稿を表示しています

カスタムライフ

 目が痒い。花粉の季節だ。痒いって、嫌なことだ。そりゃそうか。痒さに強い人や弱い人というのもいるのだろうか。蚊が嫌がられる原因は痒さにある。薬局で花粉症の薬、アレグラを買おうと思ったが、やめた。花粉の季節、ずっとこれを飲むって考えたらお金がかかるんだ。なんとか民間療法でいこう。いやいや、絵のパフォーマンスにも影響でるからさぁというプロ精神も欲しいところだが。 絵と音楽は、ずっと自分の中で関心があるものとして心の中にいる。それに比べると衣服は関心が薄いのだが、今日は不意に興味がでた時だった。大抵こういう時は新しい服を買ったりした時だ。昨日、ジーンズを買ったからかな。私は、かなり単純だ。単純過ぎて、複雑な感じがでている時すらある。よれよれになっていたブーツを磨いた。スニーカーも激オチ君で磨く。スニーカーの白い部分は汚れると黒くなり、黒い部分は汚れると白くなっていた。白と黒で構成されているスニーカーは汚れると、綺麗なものと比べて全体のコントラストが弱くなる。磨いている途中に気づいた。靴を掃除することは、靴のデッサンと近いのではないか。縫い目がこうなっている、む、ここだけ素材が違うのかということに気づく時がこういう時だ。 もう履かないでしょと思っていた汚れたDickiesのズボン、お風呂場で、研磨剤入りブラシで死ぬほど磨いた。そして洗い流し、乾かした。どうなるだろうか。捨てる予定の洋服は、ただ捨てるよりもこういう実験をしてから捨てた方が良いと思った。何か良い感じになればそれは経験となり着れるものとなる。ダメなら捨てる。かかるお金は0円だ。0円ファッション。 トマトジュースで色んな野菜を煮込みながらこれを書いている。前回はトマトジュースの味が濃過ぎたので、水を入れて薄めた。薄まった分は野菜が味をだしてくれるはずだ。じゃがいもは小さく切らないと中々火が通らないことにも気づいたので、小さく切っておいた。あと、量をかなり多めに作っている。いわゆる作り置きだ。明日また温めて食べれば良いのだ。生活スキルを上げたい。

積まれた

 積まれた本を見ると、方向性に幅がある。何か、これを買おうと思う時の選択基準が気になる。本の場合は、書かれている題材に今まで関心が無かったが、なんか今気になるということや、これは関心がある、こういうのが読みたかったのだということや、好きな作家の本だからとか、色々な考えが交錯していて、一言でこういうものですという基準を言い表わすことができない。そして、それで良いのだと思う。本を読むことで考えを強化したり、弱めさせられたり、知らないことを知ったり、知っていると思っていたことが知らないことになってしまったりする。 ズボンが頻繁に破れるので、新しいジーンズを買った。新しいといっても古着なのだが。洋服を買う基準は、まず自分が着れるかというのがある。ウエスト、長さ、長さはズボンの場合丈詰めできるので、これが良いと思えば丈を詰めれば良いのだが、丈がぴったりだと、何か自分はこのズボンに選ばれているのではないかと変な妄想が生まれる。今日買ったのはそんな妄想が生まれるジーンズだった。元々、私が履いていたのではないかと思うほどぴったりだ。私のドッペルゲンガーのような人がどこかにいるのではないかとすら思ってしまう。いや、半分冗談なのだが。 買うというのも、自分がどういうことをやっている人なのかでも行為の意味が変わるだろうな。私が本や洋服を買うことと、古本屋さんや古着屋さんが買うことには意識の違いもあるだろう。 自分も売ったり買ったりで暮らしているんだなと感じる。その辺をもっと考えて良くしていきたい。

流浪の民

今日は移動中にハイドンさんというクラシック音楽の巨匠の曲を電車の中でイヤホンで聴いていたのだが、いまいち入ってこず。無音に切り替えた。大きい音から小さい音までの幅が非常にあり、聴き取れなかったりびっくりしてしまったりした。音楽を聴く環境というのを考えることが必要だろうな。雑踏の音や電車のアナウンスも取り込んでしまうような曲と、それ自体に集中しないと良さが伝わってこない曲とある。これは視覚的なものにも言えるかもしれない。酒場や盛り場にも対応できる絵と、静謐な環境でこそ見るべき絵など。作って何かができたということだけでなく、それの周りにある空間的なことも考えてみたい。というか、多分普通は考えるのだが。。。 なんとなく私は、何かができた。オッケーということでそれをどうしたいだとか、どういう所でどういう照明で見れば良いかとか、そういうことに対して適当なところがあった。 マイルスデイビス聴いた。人の話し声や喧噪にも馴染む音楽な気がした。元々酒場の音楽なのだっけ。作る人が置かれる環境によってその場に馴染ませたり、乗り越えようとしたりする工夫が生まれていくことが気になる。外的な要因も表現には関わってくる。それは経済や、文化的な習慣、演奏したり披露したりする場所など。科学技術もそうか。電気なくして生まれえなかった音や、描写があるのだ。それを発見して逆にアコースティックな魅力も見つかったりする。今や鉛筆という筆記具はかなりアコースティックな雰囲気がある。しかし、Google検索するとアコースティックというのは聴覚的な意味でしか使わないらしい。アコースティックな絵や写真というのは存在しないということだろうか。 ネットカフェにいる。お金はかかってしまうのだが、私はネットカフェが結構好きだ。シェルターのような感じもするし、集合住宅のような感じもする。6~7年前は月の半分くらいネットカフェに泊まっていた。そういうこと、何か創作のテーマにできないだろうかと考えたこともあったが、未だにその答えは見つかっていない。その時泊まっていた場所が、ザ・シティといったような所にあったので、寝て、起きて、外にでれば何でも揃うような場所だった。が、私は特に揃えたいようなものもなく仕事までぷらぷらしたり公園で絵を描いたりしていただけなのだが、そのことは無駄なようで結構良かったと思う。ぽつんとして、予定をこなそうと...

アマデウス

移動中にモーツァルトのピアノソナタ聴いた。一つの曲をピアノだけで完結させられるのってすごい。使えるのは一人の人の両手指しかないんだもの。ピアノという楽器と自分の身体があれば何か音の中に空間を生み出したり、可能性を作っていけるというのはすごいことだ。同じドの音でも弾き方や前後の音との兼ね合いやタメを作ることで色んな役割になるのだろう。優しくなったり、悲しくなったり、音を七変化の役者として扱う監督がピアニストなのだろうか。同じ赤が血になったり洋服になったり、かと思えばただの色になったりすることはこれに似ているのかな。まだまだ力不足だけれど、段々わかっていきたいな。 明日も移動中はクラシック音楽、何も知らないので曖昧過ぎるのだが、聴こうと思った。本は何を読もうか。私は思い返すと、秩序めいたものに結構アンチであった。別にそう決まったわけじゃない、誰が決めたんだそれは、確かに、太陽は言うほど赤くも黄色くもないし、海は言うほど青くない。何かの秩序がある時にそこからあぶれる人やことがあり、誰かが得をしたり損をしたりして、、秩序自体、作った人に得な仕組みになっているはずだ。そういう角度で見ていくと、混乱を愛して何でもありにしてしまいたくなる気持ちがあったのであり、それはそれで間違っているわけではないのだが。 今日聴いた音楽には秩序があった。旋律がはじまり、発展があり、また旋律に戻ってきた。この旋律が原型を留めた形で音程が変わったりするのが好きだ。これは、元の旋律があるからこそできることだ。一定のパターン、ちょっとずれて、また戻ってきて、、パターンなんてくそくらえでわけのわからない可能性に賭けたい気持ちが、また、何かを構成したいという風に戻ってきた感じがする。それでもって、私が何か色を塗ったり、線を描いたりすることで、そこからあぶれる人とか、損得とか、そんな大層なことをやっているわけじゃないわけで、そう思うとふっと気が楽になる感じがする。生きていくことに大して大袈裟すぎたのかもしれない。自分と近くのことだけが大きく見えてしまう。それを止めて遠くだけを見つめても現実感が無くなってしまって、これじゃだめだと今の自分に戻ってくるが、色々なことに対してなす術が無かったりもする。それでもやるべきことを決めて、それをやってこう。何によらず手をつけたことは熱心に。

語呂の良い日

あじの開きを炒めた。フライパンの上のあじの開きを見つめた。これから命を食べるのだ。ありがとう魚。ありがとう大きな海。 何か食材を温める方法がフライパンか鍋しかないのはいささか問題に感じるが、住まいのスペース的に仕方が無い。スペースとる人間なんだなと大掃除をして積まれたキャンバスと本を見て思った。大掃除は途中なのだが。つまり一番悲惨な状態である。いつかもう少し、家具とかも意識した生活がしてみたい。今、昔のロシア(ソ連)・東欧のデザインの本を読んでいて、車や家具のポップさに心惹かれているところだ。 朝食はご飯、冷奴、鶏ガラ野菜スープ、あじの開き。あじ、ちょっと小さかったかな。でも、良い味だ。おっと、今日は醤油を冷奴にしか使っていないぞ。醤油に恨みは無いのだが、もう少し使う調味料のバリエーションを増やしていきたい。 IHだと炒飯が作れないのが問題だ。作れるIHもあるのだろうが、この住まいのIHは火力が非常に弱い。火力というか、電気力なのだが。何度挑戦しても卵混ぜご飯になってしまった。やはり、火でないと作れないものがあるはずなのだ。オール電化の未来がここに。

気晴らし

 お風呂に入っている間ににんにく鶏ガラ野菜スープを弱火で茹でておいた。弱火といってもIHなのだが。むむ?昨日と同じ気がする。夢じゃないデジャブが起きている。しかし!昨日と違うのは今回はじゃがいもが入っているということだ。じゃがいもは野菜界では味に影響を及ぼす力が強いことで知られている。ポテトサラダだって、他にも色々な野菜が入っていてもポテトサラダになるし、主演野菜賞を取りそうな勢いを持っている野菜が、じゃがいもである。 風呂から上がり、身体を拭き、動きやすい服装に着替え、ストレッチと腹筋をした。今年中に開脚180°とはいかなくても、160°くらいにするのは密かな目標でもある。あと、良い絵を描くのも目標だ。腹筋キツい。正面のやつ、捻るやつ、横向きに寝て横腹筋みたいなのをやってみた。頭に浮かんだのは、アザラシである。 そして食べよう鶏ガラ野菜じゃがいもスープ。その前に肉野菜炒めを炒める。肉をボウルに入れ、味付けを、、、これも昨日と同じ気がする。夢じゃないデジャブが起きている。しかし!今回は味付けに醤油を使わないでみたのだ。代わりに使ったのは鶏ガラスープの素。自炊をする際に、醤油に頼りすぎなのではという考えが浮かんだのだ。逆に鶏ガラに頼りすぎる結果にはなってしまったが。 そして主食は納豆卵かけご飯である。むむ?これも昨日と同じ気がする。夢じゃないデジャブが起きている。 自炊する際の主食はなるべくお米にしようと思った。主食として思い浮かぶもの、お米、パン、パスタ、うどん、色々あるが、体感的に一番エネルギーになっているのがお米な気がする。体質もあるのだろうか。パンはおいしいパン屋さんで食べると、お腹が膨れる。このくらいの小さなパンなら、私は4つ食べれるさという考えは裏切られ、1つを袋に入れて持ち歩いている時はないだろうか。まぁ後から食べられるから全然良いのだが。あの、小さなパンに秘められた満腹へのポテンシャルはなんなのだろう。イースト菌だろうか。 お風呂も自炊も気分が良くなる。気分転換だ。人は生活の中で、気分転換をしたいという欲求を持っている。ずっと一定のテンションやバランスが続く時にそれは水槽に入れられた水のように澱み、憂鬱がその澱みからやってくる。海の波のように気分が満ちたり引いたりすることで人はバランスをとっているのかもしれない。有名な話、治験で、一定期間ベッド...

お湯の中で

 にんにく鶏ガラスープを茹でている間にお風呂に入った。久々に湯船まで。シャワーを浴室の壁に当ててできる模様をじっと眺めていたことを思い出す。今日、10年ぶりくらいにやってみた。蜘蛛のような、太陽のような、動く模様が壁に現れる。シャワーを止めると、模様もなくなる。 蛇口をひねれば、水やお湯がでてくるホグワーツのような魔法社会の中で暮らしているが、私の杖から水やお湯がでるわけではない。インフラと道具がなければ私はかなり弱い生き物なのだと思う。人の弱さと足りなさができることを作った。そして強く満ち足りたのだが、それでも疑問が残ったのである。その疑問の中で時たま呻き声を上げる私はどこかでそういう疑問を見ないふりをしている。が、個々人には優先順位というものがあるのだ。昨日描くべきだった絵も描いていない。 お湯につかると身体があるということを感じた。人は水陸両用だが、どちらかといえば陸上の生き物だ。水の中では、陸上とは違う時間を感じることができる。水の中にいることで何かを閃くこともあるのは、陸上と水中で意識の状態が変わるからだろうか。そう考えるとシャワーだけでなく、湯船にも浸かった方が良いのではないかと思った。 スクワット50回×2してご飯を食べた。お風呂に入っている間に作っておいた鶏ガラスープ、肉野菜炒め、納豆卵かけご飯。鶏ガラスープに入れたのは豚肉、玉ねぎ、長葱のお尻の方の、緑色が濃い部分としめじ。しめじはいつもと違う生産者の所にしてみた。果たして同じしめじなのかと思うほどに背が高い。このしめじ達がバスケ選手なら全部スラムダンクしてるはずだ。 肉野菜炒めはこないだ試したように豚肉を最初にボウルに入れ、醤油、塩胡椒、味の素で味付けしてから肉を炒めてみた。やはり旨い。重複するが、肉の味が前にでてくるのだ。背の高いしめじも入れたが、これも美味しかった。野生味が強い味がした。地面から生えていたんだなぁという味というか。 もう少し土や動物を意識して生活した方が良いだろうか。アスファルトから生える野菜は無いはずだし。そして、野菜や動物がいるから生活ができている。あまり考えたことは無いが、虫もそうなのだろう。そんなバランスで地球があるというのは不思議なことだ。そして私はなぜだか生きている。いつか、生きていたになって、その時どんな風になっているのだろうか。

語彙

 納豆卵かけご飯、鯖の塩焼き、お味噌汁、冷奴を食べた。The Japan みたいな献立だ。冷奴には、長葱と生姜をのせて醤油をかけて食べた。いつも冷奴はそうして食べる。今日はかける長葱をいつもと違うブランドのものにしてみた。包丁で輪切りにして、その一つを口に入れる。うまい。思っているより野菜の味が濃かった。こういう、見た目と味の良いギャップが好きである。何の変哲もないオムレツを食べると、ふええ、これは何が入っているのというやつだ。ただそういうサプライズ味を体感するには、お店などで自分ではない人に作ってもらって自分が食べる必要がある。自分で料理をして、自分で食べて、何が入っているのかを問うことは難しい。なぜなら自分で作ったからだ。 結果だけを食べる時に、過程を想像することができる。結果を作って食べる時には、過程を想像することができない。結果を作る途中がそもそも過程であり、ただの現実であるからだ。だからなんなのだ。 昨日は日記が書けず寝てしまったが、なるべく毎日書いていく。ふっと、自分は何をしているんだろうという考えを楽しめず暗い気持ちがよぎる時には、絵も日記も含めた何かしらの創作に向かうべき時なのだと思う。何か強いメッセージがなければいけないという呪縛のような、それは人によっては効果的な呪縛なのだが、そういうものが薄くなってきた。自分にとってそれは若き強迫観念であった。信念が執着に変わる瞬間を見落としてしまっていたし、どんどん自分から色んなものがこぼれ落ちていくことをただ傍観しているのもまた自分という感覚でいた時もあった。 こぼれ落ちるっていう言葉が良くないな。日々変わっていくということである。良くも悪くも言語の操作を人はする。そして言葉の意味も時代によって変わっていく。国によっても違い、人によっても違う。実は標準語は無く、各々がその人だけの方言を使っているのではないか。共通点は見出せるが、相違点も必ずある。無ければ不気味である。 こういう時は英語で考え、こういう時は日本語で考えみたいな人や、右手で絵を描き、左手でご飯を食べるみたいな人の脳が気になる。私は日本語で考え、右手で絵を描き、右手でご飯を食べる。もしかすると私も、英語で考えた方が良い時や、もっと左手を使った方が良い時があるのかもしれない。 海外旅行を思い出す。特筆すべきは、私の日本語以外の語彙力の乏しさ...

無題も題

 あんまり誰も何も見出していないけれど感じるものがあることに賭けていくことがやってみたいのだと思った。誰もが何かを見出すことというのは色んな人が集まるけれど、その分それが何だったのかがわからなくなっていく。ただそれはそれらを蔑ろにしたり、ぼやかしたりすることともまた違った。今日は疲れているので明日また書こう

二枚頭の日記

朝に起き、背筋50回を3セットした。その間に、にんにく少々、じゃがいも、青梗菜と玉ねぎをトマトジュースで煮込んでおいた。背筋を終えて肉野菜炒めを作った。今日は今までで一番美味しい肉野菜炒めができた。最初に豚肉を炒める段階で塩胡椒、醤油をちょっと垂らして調味料の味を染み込ませてみたのだ。普段は肉の後野菜を炒め、最後に調味料を入れて作っていたのだが、今日は違うやり方を試してみた。普段の肉野菜炒めより、豚肉の味が前にでてきた感じがした。これからは先に肉に味付けをして作ろう。色んな調味料を試してみたい。野菜のトマトジュース煮込みはトマトジュースの味が強すぎたので、パルメザンチーズをかけて調整。トマトの味が強い時は、チーズを入れるという処世術ならぬ処味術を学んだ。 そんなわけで本日、朝の献立は、卵かけご飯、野菜のトマトジュース煮込み、肉野菜炒めだ。なんだか和洋折衷みたいな献立だが、私が食べるだけなのでそれでいい。 日付の絵を描いた。だんだん、筋トレと日付の絵が日課になってきている。こういう定点観測できるものを自分の行動に持っておくことが重要だ。何度もしつこく言い聞かせる。新しいことをやったりぶれたりするのは結構だが、これは絶対にやるみたいなものがないと、あれよあれよという間にあらぬ方向に突き進んでいってしまう。 何らかの儀式を持っている民族や宗教があるが、それにはそういう側面もあるのかもしれない。社会情勢がどうであろうと、この曜日はこう、朝起きたらこうという習慣の重いバージョンを儀式と呼ぶのではないか。それらが存在することによって心の平穏を保ち、自らのアイデンティティを確認する。私は、儀式とまではいかないが習慣は作らねばならない。単なる自由が自分に与えられる時、私はひたすら破滅に向かうだけだ。というか、自由を使いこなすというのは本当はものすごく難しいことなのかもしれない。習慣というのは、要は不自由である。これがなく、ただ生活が与えられる時、多くの人は困ってしまう。例に漏れず私も困ってしまった。自由からの逃走という本があったことを思い出す。読んだことはないのだが。 習慣を持ち、非習慣を楽しむという心持ちで毎日に臨みたい。なんだか生真面目だが、破滅よりはまし。 人はどこまで民主的であれるかということも考えた。私は、困る人が少ない方が良い、嫌な思いをする人がいない方が良い、世界が良...

アトリエキッチンから

スクワット50回×3セット。すかさずプロテインを飲み、卵かけご飯を食べた。。 タバコ吸いすぎ!もう禁煙する! ストレッチと筋トレか運動も日課にしよう。こういうのは、義務感からやるというより、身体を伸ばすと気持ち良いからみたいな、欲を満たす習慣として考えていこう。 普段台所で絵を描いているので、今日は台所の絵を描いてみた。何も考えずサラッとマジックで描いた後に色鉛筆でちまちま塗っていったのが、結構良い雰囲気がでた。形のとれていなさが味わいの素になっている。 日付の絵を相変わらず描いている。これはもう、今年が終わるまでやろう。今年生き延びる理由にもなるし、それらがずらっと並んでいる景色も見てみたいという気持ちがある。今のところまだ6枚しかないけど、並べてみると良い感じ。同じテイストのものが並ぶことで強度がでてくる。とにかく今までになかった強度をだしていきたい。 あとは、自分が絵を描いている人だということをもっと認識することが必要だ。そうでない人とはどうしても違う人生になる。それに嫌な気持ちになったり誇らしげにいたりするのでなく、ただただそういうものだと考えて暮らしていくことだ。 どんどん時間がたってくぞー。

意味のあつまり

早起きをした日だった。腹筋40回を2セットした。昨日は腕立て伏せ30回を3セット。長生きすると決め、そうすると体力勝負になるのだが、現時点で既にふらふらである。昔の感覚から考えると、相当身体が弱っているのだと思った。何年か前の自分に戻ってきてもらって、アドバイスいただきたい。このくらい持ち上げられるさ。そりゃっ! うりゃっ! 読みかけだったハーバート・リードの、芸術の意味読み終えた。訳は瀧口修造で、見覚えのある名前だと思ったら、20世紀のシュールレアリストの人であった。こういう、自分の作品も作れば、他人の作ったものを翻訳したりしてどんどん引き出しが増えていくような生活をした人に羨ましさを感じる。 これ、書いていて今気づいた。羨ましさを感じていたのか。こういうことがあるから文章を書くのが面白い。私にとって日記とは、出来事や思ったことを書いていくのでは実はなく、それらを観察して思ったことを発見していくような感じだ。そしてそれを編集する。ただ、編集がまだまだ下手だ。 話を戻さなければ。この、芸術の意味は、ビザンティン芸術についての概説とハーバート・リードの批評を絡めた小さい章の後にケルト芸術という小さい章があり、色彩の小さい章の後に形態の小さい章があり、ゴッホの後にゴーギャン、アンリ・ルソーという風にどんどん気が散っていくが章としてはまとまっているという、いまいち集中力が無いが知的好奇心を満たしたいという私のような人間にとっては絶好の読み物であった。こういう、一点をひたすら研究するのではなく、沢山の点を捕まえつつ、書いている本人の評が入っている本が好きだということに気づく。 沢山の点を捕まえるということだけでいうとWikipediaは素晴らしいのだが、その性質上、史実、事実に基づいていることを基本にして、そしてそれが基本であるからこそ、、個人的にはこの文明は、それはもう革命的ななんとかでみたいなことを書いてしまうとWikipedia的には、単純にクオリティが低いということになってしまう。そのことを理由にして、Wikipediaというのはとにかく客観的で匿名であることを正解にしている。 そして、それで良いのだと思う。しかし、こうもWikipedia歴が長い現代文明どっぷり人だと、味気なさも否めないのである。 本。本なのだ。私は本が好きなのだ。良く考えると住まいには沢山の本が...

もんもん

 文章を書いたり本を書いたり歌詞を書いたりするなら不遇な時間も糧になったり成長に通じていくだろうな。描くことには関係の無さそうな書くことを引いていきたい。言葉は言葉で発散させると他のこともやる気になる。思ったことを何かに書くと、それは目で見れるようになる。書いたのは少し前の自分で、それを見るのが今の自分になるので、メタ自分のようなものが生まれる。 何かを作る時に、見た人がどう思うだろうと考えることは必要だが行き過ぎれば最悪だ。そこにも何かあるのかもしれないが私は行きたくない。

移行対象

 十二時間も寝てしまった。疲れていたのだろう。というか、前日に三時間くらいしか寝ていなかったから当然なのだが。当然でないならよほどのショートスリーパーか、 危ない。なんだかんだいっても身体を壊してないのは眠れなかった日があると反動で沢山寝てしまう日があるからだろうな。人が誰でも共通してすること、睡眠、呼吸、食事、あとはなんだろう。お金と、連絡手段というのも現代はほぼ必須のものになっているが。 遅れてしまった家賃を払った。こういう最低水準みたいな所が遅れてしまったりするのは恥ずかしいが、自分の行動とお金を結び付けられていないの仕方がない。いや、仕方がないのかどうかはわからないが、仕方がないということになる。 むむ、こういう状況になると、何かを受け取りたいという気持ちになりがちだが、むしろ与えていくことを意識していきたい。何も無くても与えられるもの。愛? 言葉? 時間。アイディア?イデオロギー? むむむ、なにか具体的な形が無ければ私は不安になってしまう人なのだろうか。悶々と頭の中で進むものは、進んでいるようでそこをぐるぐる回るだけで肝心の身体は動かなくなる。私は物欲や所有欲は薄いが、何か作りたいという欲は強く深い。無欲な私はこの暮らしの別のところでは欲まみれになっている。 特定の何かをしたいと思う時、いまいちそういう時代や環境ではなかったということはよくある。その欲はそのまま萎んでいくのだろうか。そうだとして、それは消えて無くなったのだろうか。それを違った形で取り戻そうとする時に欲求の移行がおこり、詩人がロックミュージシャンになったり、ロックミュージシャンがエンジニアになったり、エンジニアが詩人になったりするのではないか。そういう、以降をしてきた人たちのことが気になる。バレリーナや野球選手を目指した子どもが成長してそうでなかった時に、その考えは消えたのだろうか。私はそうは思わない。無意識的にでもどこかでその考えを以降して、良くも悪くも今に活かそうとしているはずだ。そしてそれは良いことになった方がいい。良いことにしていきたい。

day by day

 誰「あぁ、たかれつ、たかれつ。つかれたの反対の反対。つかれた。」 彼「それを言うなら、たれかつだろ!」 というコントをぼーっと空想するくらいには疲れた。つまり本格的には疲れていない。ピンピンはしていないけど。 そんなことを考えながら外でこれまたぼーっと休憩していると、入ったことのないジャズバーからピアノの音が聴こえてきた。音は演奏になり、演奏はジブリになり、ジブリはトトロだと気づいた時、上げかけたジャケットのジッパーが壊れた。どうしようと思ったがそのことはすぐに忘れ、ピアノの音に耳を傾けた。その場にいる人たちが見ている光景がどういうものかわからないままチャージ代も払わず聴いている音はそこでは大きくともここでは小さく、歩くと更に小さく、ついには消えていく。 人の記録への欲求はこういうところから来ているのかもしれない。こうして流れていく時間を絵画のように保存できないかという考えから蓄音機や写真の技術が発展した側面もあるのではないか。そして人は死んだが、記録は残った。その歴史はロマンにも亡霊にもなる。 明日は良い日になるね。なんてったって、DREAM YOUR SWEET DAYだからさ!

雪の日だったと書かなければ忘れるだろう

昨日は雪の日であった。雪を喜ぶ年頃は過ぎた感じもするが、久しぶりに空から水以外のものが降ってくるのを見るのは楽しい。しかし寒い。 雪の影響で、普段何も考えずに通っている道が水浸しになっていたり、足をとられそうな危うい雰囲気になっていたりで、交通ルールのマイナーチェンジが自ずと行われていた。人の感覚も晴れや雨の日と少し変わるようで、ぼうっと空を見上げている人や、微動だにせず立ち尽くしている人を良くみかけた。私は、雪の日でなくてもそういうことをやってしまうのだが。そして、職務質問をされる。 雪だ。「しんしん」という言葉が胸をよぎる。このオノマトペは言い得て妙である。それは音の名前ではなく空気や雰囲気の名前であり、こういう雪の日にしか、「しんしん」という言葉を体感として感じることがない。そこに少し感動するのは私があまり雪の降らない土地にばかりいたからだろうか。裏を返せば雪が多い土地の人には「しんしん」になんて飽きているのかもしれない。その人個人にとっての新鮮さがその人の感動をその人自身が作り出しているのだろうか。 雪だ。積もったばかりの白い雪の上を歩くと灰色の足跡がつく。車道にはタイヤの痕。それを追って次の車のタイヤの痕がつき、雪の積もる箇所と積もらない箇所に一定の規則性が生まれ、そこかしこの地面に雪とアスファルトの抽象画があった。地面のアスファルトはキャンバスとなり、空から雪が降り掛かり、その上を車が走って雪を削る。地のアスファルトをタイヤ痕を残した状態で露わにする。人間の営みは無意識的に路上の絵画の筆跡に組み込まれ、未完成のまま作り替えられている。地面の写真を撮った。 駅の構内に入ると、急に現実に引き戻された。いつもより濡れている駅といった感じだろうか。暖かい。そんな今日は、カフェラテの日。

自炊と自転車

 今日は制作しようとしたが全くできず。布団に転がりYouTubeを見た。こういう日もあるものだ。ラズウェル細木さんの酒のほそ道を見た。コンビニに並ぶ雑誌からiPhoneに映る画面まで正義やゴシップ一色になっている気がする昨今、こういうサラリーマンが居酒屋に行ったみたいな良い意味で変哲の無い話やそれを見てぽけーっとできる時間があったりすることはありがたい。やる気がでない時Youtubeを見ることが多いのだが、前よりも、何かをアジテーションしたりすることなくやや無目的に見れるものが増えている気がする。お笑いも最近まで興味が無かったが見ることが多くなった。恐らく!沢山の人が疲れている。いや、疲れるでしょう。疲れている場合では無いのだというのは危険なことである。私はその罠に何回も嵌ってしまった。疲れつつ、元気でつつ、なんとかかんとかやっていければ良いのだ。人間は不完全だからこそ美しいのだ。 絵を描く道具の多さに混乱している感じもある。私はそんなにガンガン画材を買ったりする人ではないが、流石に七年くらいやっていると色んな種類の画材に囲まれることになる。興味本位で買って一回も使っていないものや、良く使うもの、何故買ったのか覚えていないもの、案外手に馴染むセブンイレブンの慶事用筆ペン。四コマを描く時は慶事用筆ペンと油性色鉛筆で基本的に描いていた。 道具の多さに混乱しているというのは、何も絵に限った話でもないと思っている。何かを選択する時に情報が多過ぎるとか、選択肢が多過ぎるというのはそうでない環境の人に比べて幸福なようで、実際どうなのかわからない。私が、生涯何かを描く時に使わなければならない道具が黒色のボールペンだという制約が(なぜか)あったとして、その時にアクリル絵具を持つ人や、油絵具を持つ人に対して僻んだりするだろうか。少し、したりする時期はあるかもしれないが、まぁ、これは宿命であり仕方が無いのだ。私はブラックボールペンマスターとなり、ボールペンの可能性を切り拓く使命を持っている。最早何も選択せず集中できるのである。私にとって黒色のボールペンはスティーブジョブズが着るイッセイミヤケのタートルネックのようなものだと割り切り、ひたすらボールペンで描くの絵の道を邁進するだろう。 インドのサドゥーという人たちの話を思い出す。彼らは何かこれと本人が決めた修行を一生涯続け、それが...

日記再

また日記をはじめる。僕は結構、半パブリックなものをやりたいという風に思っていることに気づく。パブリックでもプライベートでもなく、微妙な所を揺れている文章を書いていきたいと思っている。 そういう日記を書く時に大切なのは、極々個人的なことか、世界規模なくらい大きなことか、歴史のことか、、そういうことを書いていくことだ。 知り合いの誰々がこういう風に言っていたみたいな日記はあんまりパブリック向きでは無いと思っている。ブログのネタを探して暮らしている人に話しかけられたりするの苦手でしょう。 昨日また、酒を飲み過ぎて吐いてしまった。吐き癖がついてしまっていると思う。何をやっているのだ。とにかくクリーンに生活しようと思い、ストレートエッジについて調べる。というか定期的にストレートエッジについて調べ、その健康的なライフスタイルを真似しようと思うのだが、というか×2、ストレートエッジというのは何か音楽をやっている人が 「喫煙 しない」「麻薬 を使用しない」「アルコール を摂取しない」「快楽目的のみのセックス をしない」という理念を持つことでそう呼ばれるので、そもそも僕のように音楽をやっていなければ、ストレートエッジというか「めっちゃシラフで真面目な人」なのだが、そこは言葉の響きである。 とにかく、作品を作らねばと思っている。自分の四コマや日記なんかを見返すと、自分には何か特定の絶対にこれしかないというスタイルがあるわけではないのだが、そしてそれは作家としてはかなり致命的な感じもするのだが、やや無理にでも四コマとか、日記とか、こういう絵ですといったようなフォーマットを持つことで定点観測できる感覚がある 。あまり自分の場合は、「絵」とか、「文章」とか、ざっくりした言葉で捉えすぎない方が良いのかもしれない。「絵」というのは便宜上の言葉にして、そしてその便宜上というのも大事なのだが、テーマや方法を決めてその自分の中の秩序に従ってシリーズを作る。 それはサイズはこのサイズとかかもしれないし、使う色はとか、そこから逸脱する場合も逸脱し過ぎないということを意識しなければならない。 ということが、制限、条件になり、自分の制作に制約を課さないことが大切だという人とはずれてしまうのだが、それが大切なのは枠からはみ出ぬ用キチっとし過ぎている人の場合であり、私のようなノーボーダーのスーパーごっちゃ人は何ら...