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流浪の民

今日は移動中にハイドンさんというクラシック音楽の巨匠の曲を電車の中でイヤホンで聴いていたのだが、いまいち入ってこず。無音に切り替えた。大きい音から小さい音までの幅が非常にあり、聴き取れなかったりびっくりしてしまったりした。音楽を聴く環境というのを考えることが必要だろうな。雑踏の音や電車のアナウンスも取り込んでしまうような曲と、それ自体に集中しないと良さが伝わってこない曲とある。これは視覚的なものにも言えるかもしれない。酒場や盛り場にも対応できる絵と、静謐な環境でこそ見るべき絵など。作って何かができたということだけでなく、それの周りにある空間的なことも考えてみたい。というか、多分普通は考えるのだが。。。 なんとなく私は、何かができた。オッケーということでそれをどうしたいだとか、どういう所でどういう照明で見れば良いかとか、そういうことに対して適当なところがあった。


マイルスデイビス聴いた。人の話し声や喧噪にも馴染む音楽な気がした。元々酒場の音楽なのだっけ。作る人が置かれる環境によってその場に馴染ませたり、乗り越えようとしたりする工夫が生まれていくことが気になる。外的な要因も表現には関わってくる。それは経済や、文化的な習慣、演奏したり披露したりする場所など。科学技術もそうか。電気なくして生まれえなかった音や、描写があるのだ。それを発見して逆にアコースティックな魅力も見つかったりする。今や鉛筆という筆記具はかなりアコースティックな雰囲気がある。しかし、Google検索するとアコースティックというのは聴覚的な意味でしか使わないらしい。アコースティックな絵や写真というのは存在しないということだろうか。


ネットカフェにいる。お金はかかってしまうのだが、私はネットカフェが結構好きだ。シェルターのような感じもするし、集合住宅のような感じもする。6~7年前は月の半分くらいネットカフェに泊まっていた。そういうこと、何か創作のテーマにできないだろうかと考えたこともあったが、未だにその答えは見つかっていない。その時泊まっていた場所が、ザ・シティといったような所にあったので、寝て、起きて、外にでれば何でも揃うような場所だった。が、私は特に揃えたいようなものもなく仕事までぷらぷらしたり公園で絵を描いたりしていただけなのだが、そのことは無駄なようで結構良かったと思う。ぽつんとして、予定をこなそうと素早く歩く人たちとも無縁に、寄り道をしたり、脇道を探検したり、美術館のあまり関心のない展覧会に入ったりして、そこで初めて生まれた関心もあった。関心がないというのは何なのだろう。いつ、何に対して関心があり、何に対して関心がないということが決まるのだろう。私はその時、自分自身の関心というものから自由になれた気がしたのだった。


しかし、時間は有限である。このままあっちらこっちら、ふらふらしていてもどうなるのかはなんとなくわかってきている。ある程度関心の幅を絞らねばなるまい。そして、徐々に、仮にでしかないのだが定まってきた。そういうことをこれからは追及していきたい。ただ、ふらふらしていたことはプライドとまではいかないが、有意義な無駄であった。その無駄を経て、これからはある程度効率のようなものも考えつつ、たまにぷらぷらしつつ、何とかやっていかなくては。


電車の中では、音楽を聴きながら、オリーブの森で語りあうという本を読んでいる。ミヒャエル・エンデ、エアハルト・エプラーという政治家、ハンネ・テヒルという演劇の人が本の名の通り語り合い、それを録音したものを文字に起こしたものだ。ミヒャエル・エンデは私にとって、何かがひっかかり惹かれる人物である。演劇についての討論が面白い。政治や社会問題と演劇を結び付け、教育として演劇をしているテヒルと、それは演劇ではないと言うエンデ。演劇がリアリティに影響を与えるべきか、演劇として独立すべきか。まだ読了していないので何ともいえないが、しっかり吸収して反芻したい。

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