朝に起き、背筋50回を3セットした。その間に、にんにく少々、じゃがいも、青梗菜と玉ねぎをトマトジュースで煮込んでおいた。背筋を終えて肉野菜炒めを作った。今日は今までで一番美味しい肉野菜炒めができた。最初に豚肉を炒める段階で塩胡椒、醤油をちょっと垂らして調味料の味を染み込ませてみたのだ。普段は肉の後野菜を炒め、最後に調味料を入れて作っていたのだが、今日は違うやり方を試してみた。普段の肉野菜炒めより、豚肉の味が前にでてきた感じがした。これからは先に肉に味付けをして作ろう。色んな調味料を試してみたい。野菜のトマトジュース煮込みはトマトジュースの味が強すぎたので、パルメザンチーズをかけて調整。トマトの味が強い時は、チーズを入れるという処世術ならぬ処味術を学んだ。
そんなわけで本日、朝の献立は、卵かけご飯、野菜のトマトジュース煮込み、肉野菜炒めだ。なんだか和洋折衷みたいな献立だが、私が食べるだけなのでそれでいい。
日付の絵を描いた。だんだん、筋トレと日付の絵が日課になってきている。こういう定点観測できるものを自分の行動に持っておくことが重要だ。何度もしつこく言い聞かせる。新しいことをやったりぶれたりするのは結構だが、これは絶対にやるみたいなものがないと、あれよあれよという間にあらぬ方向に突き進んでいってしまう。
何らかの儀式を持っている民族や宗教があるが、それにはそういう側面もあるのかもしれない。社会情勢がどうであろうと、この曜日はこう、朝起きたらこうという習慣の重いバージョンを儀式と呼ぶのではないか。それらが存在することによって心の平穏を保ち、自らのアイデンティティを確認する。私は、儀式とまではいかないが習慣は作らねばならない。単なる自由が自分に与えられる時、私はひたすら破滅に向かうだけだ。というか、自由を使いこなすというのは本当はものすごく難しいことなのかもしれない。習慣というのは、要は不自由である。これがなく、ただ生活が与えられる時、多くの人は困ってしまう。例に漏れず私も困ってしまった。自由からの逃走という本があったことを思い出す。読んだことはないのだが。
習慣を持ち、非習慣を楽しむという心持ちで毎日に臨みたい。なんだか生真面目だが、破滅よりはまし。
人はどこまで民主的であれるかということも考えた。私は、困る人が少ない方が良い、嫌な思いをする人がいない方が良い、世界が良くなると良いという、民主的で平和な世界を望む人なのだが、そして、そういう人は多いと思うのだが、私の考えに何年も、決定的かつ徹底的に起きているのは、価値観のダブルブッキングと呼べるものである。何百年も歴史のあるものが良いという話に頷きながらも、それじゃあ私は何もできない。新しいものを見、新しいものを作るべきで、いや、伝統も大切なのだがと、どう足掻いてもぐるぐると回る思考の中に私は飲みこまれ、何かを考えるということが、考えているのだか悩んでいるのだか、とにかく混乱してしまうことなのだ。真面目に、別に適当で良いのだが、、思考は常に二枚舌青年の形をとっている。
しかし、私はそこから卒業する方法を発見し、今はその生活を実践しているつもりである。一旦自分の考えというものを保留し、やることに集中するのである。そしてその、やることというのはいくつもあって良い。というか、いくつか無ければならない。ことに集中し、これはある程度こういうもの、これはある程度こういうものという風に分割するのである。今の時代は、いや、昔もそうだったのかもしれないが、とかく作るものと考えが同一のものであるという風に考えがち、考えられがちである。そして人はそれを目指す、そう多くの人に考えられているからだ。個人が内面化したものをそのまま外の世界に表出するという、作家と作品が完全に結びついた嘘の無いリアリティというイメージで考える時に、私は破綻してしまうのだ。しかし私はもう本格的に破綻することはないだろう。内面化したものを分割し、それらをシリーズとして展開させていくのだ。大抵、私情から始まるが出来上がるものは私情ではなく、かといって思ってもないものでもなく、出来上がってしまったものとしてぷかんと浮かんでいるもの。そういうものを作っていきたいと思っている。いや、既に作っていたのだ。これをやると決め、そのガイドラインに沿った考えを発見し、ここだというポイントを写真に収める。それが今私がやっていることなのではないか。
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