移動中にモーツァルトのピアノソナタ聴いた。一つの曲をピアノだけで完結させられるのってすごい。使えるのは一人の人の両手指しかないんだもの。ピアノという楽器と自分の身体があれば何か音の中に空間を生み出したり、可能性を作っていけるというのはすごいことだ。同じドの音でも弾き方や前後の音との兼ね合いやタメを作ることで色んな役割になるのだろう。優しくなったり、悲しくなったり、音を七変化の役者として扱う監督がピアニストなのだろうか。同じ赤が血になったり洋服になったり、かと思えばただの色になったりすることはこれに似ているのかな。まだまだ力不足だけれど、段々わかっていきたいな。
明日も移動中はクラシック音楽、何も知らないので曖昧過ぎるのだが、聴こうと思った。本は何を読もうか。私は思い返すと、秩序めいたものに結構アンチであった。別にそう決まったわけじゃない、誰が決めたんだそれは、確かに、太陽は言うほど赤くも黄色くもないし、海は言うほど青くない。何かの秩序がある時にそこからあぶれる人やことがあり、誰かが得をしたり損をしたりして、、秩序自体、作った人に得な仕組みになっているはずだ。そういう角度で見ていくと、混乱を愛して何でもありにしてしまいたくなる気持ちがあったのであり、それはそれで間違っているわけではないのだが。
今日聴いた音楽には秩序があった。旋律がはじまり、発展があり、また旋律に戻ってきた。この旋律が原型を留めた形で音程が変わったりするのが好きだ。これは、元の旋律があるからこそできることだ。一定のパターン、ちょっとずれて、また戻ってきて、、パターンなんてくそくらえでわけのわからない可能性に賭けたい気持ちが、また、何かを構成したいという風に戻ってきた感じがする。それでもって、私が何か色を塗ったり、線を描いたりすることで、そこからあぶれる人とか、損得とか、そんな大層なことをやっているわけじゃないわけで、そう思うとふっと気が楽になる感じがする。生きていくことに大して大袈裟すぎたのかもしれない。自分と近くのことだけが大きく見えてしまう。それを止めて遠くだけを見つめても現実感が無くなってしまって、これじゃだめだと今の自分に戻ってくるが、色々なことに対してなす術が無かったりもする。それでもやるべきことを決めて、それをやってこう。何によらず手をつけたことは熱心に。
コメント
コメントを投稿