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積まれた

 積まれた本を見ると、方向性に幅がある。何か、これを買おうと思う時の選択基準が気になる。本の場合は、書かれている題材に今まで関心が無かったが、なんか今気になるということや、これは関心がある、こういうのが読みたかったのだということや、好きな作家の本だからとか、色々な考えが交錯していて、一言でこういうものですという基準を言い表わすことができない。そして、それで良いのだと思う。本を読むことで考えを強化したり、弱めさせられたり、知らないことを知ったり、知っていると思っていたことが知らないことになってしまったりする。

ズボンが頻繁に破れるので、新しいジーンズを買った。新しいといっても古着なのだが。洋服を買う基準は、まず自分が着れるかというのがある。ウエスト、長さ、長さはズボンの場合丈詰めできるので、これが良いと思えば丈を詰めれば良いのだが、丈がぴったりだと、何か自分はこのズボンに選ばれているのではないかと変な妄想が生まれる。今日買ったのはそんな妄想が生まれるジーンズだった。元々、私が履いていたのではないかと思うほどぴったりだ。私のドッペルゲンガーのような人がどこかにいるのではないかとすら思ってしまう。いや、半分冗談なのだが。


買うというのも、自分がどういうことをやっている人なのかでも行為の意味が変わるだろうな。私が本や洋服を買うことと、古本屋さんや古着屋さんが買うことには意識の違いもあるだろう。


自分も売ったり買ったりで暮らしているんだなと感じる。その辺をもっと考えて良くしていきたい。

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2024年3月7日

3月最初の日記。期間が空いてしまった。今日は目覚めるとひどい2日酔いだった。近所のスーパーで経口補水液と野菜ジュース、バナナを買って、イートインコーナーで飲み食いした。1日初めの飲み物1口目。ぷはぁと声がでる。あまり気にしていないが、座る時にどっこらせと言うお爺さんになる要素が私にはある。そのまま色んな食材買って自炊。2日酔いというのは、普段思わないことを思うようにできているのか、あぁ、なんでも、丁寧に袋やパッケージに入れられて売られている。もやしの袋然り、納豆は3個入りセットで丁寧に梱包されていて、キチっと積み上げられている。どの梱包も寸分違わず、目に見える違う部分としたら賞味期限の印刷くらい。奥の方に手を伸ばし1番賞味期限が遠い納豆を買った。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の作品を思い出す。あの、本気だけど皮肉でもあるような良くわからないあり方は結構好きだ。なんとなく、ロックの時代の作品という感じがする。華々しさと自分自身や自分が生きている文明に対する自虐が同居している。だからか、ロック音楽のアルバムというものは1曲目で車の自慢をしたかと思えば、2曲目ではダメ人間のバラードになったりしていて、そういう表現の為ピエロ役を買ってでるような所も結構好きだった。まぁ、そうでない人が沢山いるのもわかるけれど、根本的に自分を下げて矛盾を楽しむユーモアがあって、そういう所に今また惹かれはじめている。甲本ヒロトの良さとラップスターの良さは結構違う気がする。と、詳しくないが今のアメリカのラッパーであまり伝統的な感じがしない人、例えばLil uzi vertの曲を聴いたりすると、も、もしかしてふざけているのでしょうかとも感じるので、文化が受け入れられ成熟してくるとちょっとおちゃらける感じの人が求められてくるのかもしれない。 暫く書いてないと指筆がはかどらない。やはりなるべく毎日書くべきだな。無料でできるのだし、何か発見をするのも文章を書いている時が多い。 唐突なコラージュみたいな文章だ。「自分にとって」絵を描くのは、やっぱり何かの為って所がもっとあった方が良いんじゃないかと思っている。今まで、絵を描くことには理由がいる→絵を描くことには理由はいらない という思考の経緯を辿っていたのだが、ここにきて違う形で当初の意識にまた戻った。違う形とは何かを考えるのなら、元々どういう形で...

つづき

apple IDがわからなくなったりして前のiPhoneの引き継ぎが何もできていない。ほぼアナログの生活は気づくことが沢山あった。まとまった量の文章を読むのは紙の本の方が読みやすいということや、普段iPhoneをいじっていた時間が暇になるので頭の中でギャグを考えたりした。気分が晴れない時に考えるギャグは結構面白い。淡々と自分に対しての冷めた視点がでてくる。逆に気分が良い時はギャグを欲していない気もする。四六時中笑っている人が求めるのは意外に禅的なものだったりするのだろうか。 音楽の聴けない散歩はつまらなそうに感じたがやってみると捗った。音楽がある時は意識が音に向かうのだが、ないと行き先の無くなった意識が目の前の景色や自身の考えに向かっていった。考えは徐々に形を変えて増幅し空想になり、膨らみきるとそこに溺れ景色にはとんと興味がなくなってしまう。方向音痴なのはこのあたりにも原因がありそうだ。夕焼けで空の色が変わったり、不思議な形の雲がでてきたりしなければ歩いている中で色や形に興味を持つことはなく、自分の考え(考えというのも言葉だ)や街中の看板、地名、言葉が頭に入ってくる。この名前はなんなのか、意味の中を自分の身体が歩いた。絵を描くには満たない脳を持ち絵を描くにはどうしたら良いだろうか。 印象に残った夕焼けの色や建物の形を覚えているだろうか。私は覚えていない。覚えているといえばほとんど、印象に残ったということだけだ。だから写真を撮ったりするのだろうか。目に焼き付けるということができず、一日経って頭の中で現像してみても抽象としてのイメージしかでてこない。そんな風に、私の視覚はひたすらに一時的な映像の連続として続いてきた。誰しもそんなものなのではないかと思うのは間違いで、人によっては一度通った道はもう忘れず、住んでいる建物の窓の数まで覚えていたりする。建築的視覚とでも言うべきだろうか。それに比べると私の視覚というのは貧弱である。人間の目というものがその人にとって二つまでしか持てない以上、他の目に何が見えているのかというのは永遠にわからない。 思うに、日本の都市型の視覚というのは混乱であるが、雪景色や砂漠にある視覚というのは調和された視覚である。生活の必要から環境に応じて視覚も変化していき、雪景色の中にいる人には私には見えない白が見え、砂漠にいる人には私には見えない砂の色が見え...

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