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語彙

 納豆卵かけご飯、鯖の塩焼き、お味噌汁、冷奴を食べた。The Japan みたいな献立だ。冷奴には、長葱と生姜をのせて醤油をかけて食べた。いつも冷奴はそうして食べる。今日はかける長葱をいつもと違うブランドのものにしてみた。包丁で輪切りにして、その一つを口に入れる。うまい。思っているより野菜の味が濃かった。こういう、見た目と味の良いギャップが好きである。何の変哲もないオムレツを食べると、ふええ、これは何が入っているのというやつだ。ただそういうサプライズ味を体感するには、お店などで自分ではない人に作ってもらって自分が食べる必要がある。自分で料理をして、自分で食べて、何が入っているのかを問うことは難しい。なぜなら自分で作ったからだ。


結果だけを食べる時に、過程を想像することができる。結果を作って食べる時には、過程を想像することができない。結果を作る途中がそもそも過程であり、ただの現実であるからだ。だからなんなのだ。


昨日は日記が書けず寝てしまったが、なるべく毎日書いていく。ふっと、自分は何をしているんだろうという考えを楽しめず暗い気持ちがよぎる時には、絵も日記も含めた何かしらの創作に向かうべき時なのだと思う。何か強いメッセージがなければいけないという呪縛のような、それは人によっては効果的な呪縛なのだが、そういうものが薄くなってきた。自分にとってそれは若き強迫観念であった。信念が執着に変わる瞬間を見落としてしまっていたし、どんどん自分から色んなものがこぼれ落ちていくことをただ傍観しているのもまた自分という感覚でいた時もあった。


こぼれ落ちるっていう言葉が良くないな。日々変わっていくということである。良くも悪くも言語の操作を人はする。そして言葉の意味も時代によって変わっていく。国によっても違い、人によっても違う。実は標準語は無く、各々がその人だけの方言を使っているのではないか。共通点は見出せるが、相違点も必ずある。無ければ不気味である。


こういう時は英語で考え、こういう時は日本語で考えみたいな人や、右手で絵を描き、左手でご飯を食べるみたいな人の脳が気になる。私は日本語で考え、右手で絵を描き、右手でご飯を食べる。もしかすると私も、英語で考えた方が良い時や、もっと左手を使った方が良い時があるのかもしれない。


海外旅行を思い出す。特筆すべきは、私の日本語以外の語彙力の乏しさである。great. I'm happy. love.  語彙の無さは奇妙な明るさを少年の私に与えた。chooseとtwoを聞き間違え、2ボタンを連打する私が顔を上げると、怪訝な顔をしたお姉さんがいた。wait wait wait,これではただのおばかな人なのではないかと、そして実際そうなのだが、もう少し解像度を高く考えられる日本語に考えが戻ってくる。解像度を高くしないと解決できないことがあるが、それ故に悩みも生まれたりする。


ただ、そういうことを今日特に考えていたわけではない。書いていくうちにぱっと思いついたことに反応していって文章ができていった。なんとなく、自動筆記のような感じもある。日記は日記としてのムード、活字としての空間を作っていきたい。

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