スキップしてメイン コンテンツに移動

日記再

また日記をはじめる。僕は結構、半パブリックなものをやりたいという風に思っていることに気づく。パブリックでもプライベートでもなく、微妙な所を揺れている文章を書いていきたいと思っている。 そういう日記を書く時に大切なのは、極々個人的なことか、世界規模なくらい大きなことか、歴史のことか、、そういうことを書いていくことだ。 知り合いの誰々がこういう風に言っていたみたいな日記はあんまりパブリック向きでは無いと思っている。ブログのネタを探して暮らしている人に話しかけられたりするの苦手でしょう。


昨日また、酒を飲み過ぎて吐いてしまった。吐き癖がついてしまっていると思う。何をやっているのだ。とにかくクリーンに生活しようと思い、ストレートエッジについて調べる。というか定期的にストレートエッジについて調べ、その健康的なライフスタイルを真似しようと思うのだが、というか×2、ストレートエッジというのは何か音楽をやっている人が「喫煙しない」「麻薬を使用しない」「アルコールを摂取しない」「快楽目的のみのセックスをしない」という理念を持つことでそう呼ばれるので、そもそも僕のように音楽をやっていなければ、ストレートエッジというか「めっちゃシラフで真面目な人」なのだが、そこは言葉の響きである。


とにかく、作品を作らねばと思っている。自分の四コマや日記なんかを見返すと、自分には何か特定の絶対にこれしかないというスタイルがあるわけではないのだが、そしてそれは作家としてはかなり致命的な感じもするのだが、やや無理にでも四コマとか、日記とか、こういう絵ですといったようなフォーマットを持つことで定点観測できる感覚がある。あまり自分の場合は、「絵」とか、「文章」とか、ざっくりした言葉で捉えすぎない方が良いのかもしれない。「絵」というのは便宜上の言葉にして、そしてその便宜上というのも大事なのだが、テーマや方法を決めてその自分の中の秩序に従ってシリーズを作る。 それはサイズはこのサイズとかかもしれないし、使う色はとか、そこから逸脱する場合も逸脱し過ぎないということを意識しなければならない。


ということが、制限、条件になり、自分の制作に制約を課さないことが大切だという人とはずれてしまうのだが、それが大切なのは枠からはみ出ぬ用キチっとし過ぎている人の場合であり、私のようなノーボーダーのスーパーごっちゃ人は何らかの制約なくして何かを完成させたりまとめたりするのは非常に難しい。というか、不可能なのではないかと思いはじめている。私は、ミュージシャンになったら、イントロのメロディーを200種類くらい作ったが永遠に曲やアルバムを完成させられないというタイプな気がしている。実際そんなタイプの人がいるのかどうかはわからないが。。 そして、やる気が無いという訳では全く無いのである。むしろやる気満々なのにそうなってしまうことが自信を喪失させ、調子が悪くなってしまう。


そこで制限や条件の登場である。自分はたとえば、こういう絵はラルフローレン、こういう絵はポロスポーツみたくシリーズやブランドとして分けた方が調子が良いのではないかと思っている。思っているというか確信している。純粋絵画や純文学を作ろうとしないということだ。純喫茶よりコンセプトカフェの方が私の場合やりやすいだろう。「私」個人のこだわりを詰め込みましたみたいなことをやろうとした瞬間にどうしたら良いかわからなくなってしまう。我がありそうで全く無いのかもしれない。いや、あり過ぎるという説も私の中では浮上しているのだが、結果どうしたら良いかわからなくなっているのであれば無いのと一緒である。


私から見て、個人のこだわりや趣向というのは特定の要素がごっちゃになっており、例えば人が何かを音楽と呼んでいる時にそれは必ずしもドレミファソラシドの話をしているわけではない。そう。音楽の話は音楽だけの話ではないのだ。カルチャーと呼ばれるものも、アートと呼ばれるものも様々な要素がごっちゃになった総称をその名詞に置き換えて呼んでいるのである。そして、良く聞いてみるとその認識は人によってまちまちで、狭い意味で使っている人と広い意味で使っている人がいる。あと、王道な結びつき方で呼んでいる人、独特、もはや異端な人もいる。


例えば、踊るバレエをやっていたが辞めてしまい、今はスケートボードをやっている人がいるとして、それを、「コンクリートバレエ」と呼んでいる人がいたとしよう。

この4行の文章の世界では成る程という感があるが、実際の世界では謎多き人物になる筈だ。それは要素Aと要素Bの結びつき方が独特であるからである。しかし、私は最近こう考えている。今や多くの人があらゆる情報にアクセスでき、コンクリートバレエ、塞ぎ込んでいる明るい人、ヒップホップだけどパンクだけど凛として時雨が好きみたいな人、辛党だけど甘党なんですみたいな人、スーパーごっちゃ人が続出する世の中になっていく、いや、既になっているのではないか。そして私はスーパーごっちゃ人なのではないか。いや、スーパーごっちゃ人である。これに気づいた時、頭の中のモヤモヤが晴れていくような感じがした。そして、こうして文章になると更にクリアになる。我々は正直であり、辛党に見せかける為に辛くないものを排除するような操作をしない、美味しいものは美味しいと言ってしまう種族であり、その博愛、民主的な精神故に何が何だかわからなくなってしまうリスクを持った種族である。

しかしその習性を認識すれば自ずとどうしたら良いかがわかってくる。何か一つに全てを詰めこもうとしてわけがわからなくなるのが欠点なのである。おそらく、多方面に能力を発揮した方が調子が良いはずだ。そして、これはこれ、それはそれの精神で向き合っていく。この日記もその一貫である。ごっちゃにしない。


そう!デカルトさんも言ってます。「困難は分割せよ」ですね。生きるという困難を分割して考え、そしてそのミッションを正確かつ冷徹に遂行するのだ!  

なんとなく、制作を沢山したりしたいハムスターとか、そういう感じになれたらいいなと思う。

コメント

このブログの人気の投稿

2024年3月7日

3月最初の日記。期間が空いてしまった。今日は目覚めるとひどい2日酔いだった。近所のスーパーで経口補水液と野菜ジュース、バナナを買って、イートインコーナーで飲み食いした。1日初めの飲み物1口目。ぷはぁと声がでる。あまり気にしていないが、座る時にどっこらせと言うお爺さんになる要素が私にはある。そのまま色んな食材買って自炊。2日酔いというのは、普段思わないことを思うようにできているのか、あぁ、なんでも、丁寧に袋やパッケージに入れられて売られている。もやしの袋然り、納豆は3個入りセットで丁寧に梱包されていて、キチっと積み上げられている。どの梱包も寸分違わず、目に見える違う部分としたら賞味期限の印刷くらい。奥の方に手を伸ばし1番賞味期限が遠い納豆を買った。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の作品を思い出す。あの、本気だけど皮肉でもあるような良くわからないあり方は結構好きだ。なんとなく、ロックの時代の作品という感じがする。華々しさと自分自身や自分が生きている文明に対する自虐が同居している。だからか、ロック音楽のアルバムというものは1曲目で車の自慢をしたかと思えば、2曲目ではダメ人間のバラードになったりしていて、そういう表現の為ピエロ役を買ってでるような所も結構好きだった。まぁ、そうでない人が沢山いるのもわかるけれど、根本的に自分を下げて矛盾を楽しむユーモアがあって、そういう所に今また惹かれはじめている。甲本ヒロトの良さとラップスターの良さは結構違う気がする。と、詳しくないが今のアメリカのラッパーであまり伝統的な感じがしない人、例えばLil uzi vertの曲を聴いたりすると、も、もしかしてふざけているのでしょうかとも感じるので、文化が受け入れられ成熟してくるとちょっとおちゃらける感じの人が求められてくるのかもしれない。 暫く書いてないと指筆がはかどらない。やはりなるべく毎日書くべきだな。無料でできるのだし、何か発見をするのも文章を書いている時が多い。 唐突なコラージュみたいな文章だ。「自分にとって」絵を描くのは、やっぱり何かの為って所がもっとあった方が良いんじゃないかと思っている。今まで、絵を描くことには理由がいる→絵を描くことには理由はいらない という思考の経緯を辿っていたのだが、ここにきて違う形で当初の意識にまた戻った。違う形とは何かを考えるのなら、元々どういう形で...

つづき

apple IDがわからなくなったりして前のiPhoneの引き継ぎが何もできていない。ほぼアナログの生活は気づくことが沢山あった。まとまった量の文章を読むのは紙の本の方が読みやすいということや、普段iPhoneをいじっていた時間が暇になるので頭の中でギャグを考えたりした。気分が晴れない時に考えるギャグは結構面白い。淡々と自分に対しての冷めた視点がでてくる。逆に気分が良い時はギャグを欲していない気もする。四六時中笑っている人が求めるのは意外に禅的なものだったりするのだろうか。 音楽の聴けない散歩はつまらなそうに感じたがやってみると捗った。音楽がある時は意識が音に向かうのだが、ないと行き先の無くなった意識が目の前の景色や自身の考えに向かっていった。考えは徐々に形を変えて増幅し空想になり、膨らみきるとそこに溺れ景色にはとんと興味がなくなってしまう。方向音痴なのはこのあたりにも原因がありそうだ。夕焼けで空の色が変わったり、不思議な形の雲がでてきたりしなければ歩いている中で色や形に興味を持つことはなく、自分の考え(考えというのも言葉だ)や街中の看板、地名、言葉が頭に入ってくる。この名前はなんなのか、意味の中を自分の身体が歩いた。絵を描くには満たない脳を持ち絵を描くにはどうしたら良いだろうか。 印象に残った夕焼けの色や建物の形を覚えているだろうか。私は覚えていない。覚えているといえばほとんど、印象に残ったということだけだ。だから写真を撮ったりするのだろうか。目に焼き付けるということができず、一日経って頭の中で現像してみても抽象としてのイメージしかでてこない。そんな風に、私の視覚はひたすらに一時的な映像の連続として続いてきた。誰しもそんなものなのではないかと思うのは間違いで、人によっては一度通った道はもう忘れず、住んでいる建物の窓の数まで覚えていたりする。建築的視覚とでも言うべきだろうか。それに比べると私の視覚というのは貧弱である。人間の目というものがその人にとって二つまでしか持てない以上、他の目に何が見えているのかというのは永遠にわからない。 思うに、日本の都市型の視覚というのは混乱であるが、雪景色や砂漠にある視覚というのは調和された視覚である。生活の必要から環境に応じて視覚も変化していき、雪景色の中にいる人には私には見えない白が見え、砂漠にいる人には私には見えない砂の色が見え...

ゆうーつ

 フライヤーができた。できる前の生活を反省する。ぐだぐだぐだぐだぐ… 一体何をやっているのだ。散歩したり頭を掻きむしったりする前にもう少し思ったことに集中したらどうだ。もう少しストイックでいて良いのじゃないかと思った。しかし、ここで気合いと根性といったような出来もしない体育会系を自分に対して向けるのはまずくいくだろう。工夫だ。工夫。 例えば、何かのアレルギーがある人は工夫の大切さを知るはずなのである。これを食べるとこうなるからとか、金属アレルギーだけどアクセサリーをつけたいから、こういう素材のものを、というのがあるはずなのだ。 そういう人に比べると私はただその場の思いつきに任せ過ぎなのだ。生活、流れていく時間、感情や欲という闘牛士がひらひらさせる赤い布に突撃する私は牛。紙に書いた自分との約束なんかしれっと破り、何時に寝て何時に起きるか、そういうことも自分でわからなかったのだ。 まぁ、あまり自分を責めるのは止めよう。ただ、中々できなくとも、変わろうという意思を持ち続けることは忘れずに。一気に変えようとしてもリバウンドがくるし、潔く自分のことを諦めるのもやっぱり違う。大事なことはいさぎわるく。 果たして、この自己満足という四字熟語がばっちり似合うこの日記はどこへ向かうのか。今日はぐだぐだしていた時間にこのことについて考えた。ひとまず、日記のことは置いといて、自己満足というやや嫌われがちな言葉について考えてみた。中学生くらいの頃、山田かまちの詩で、自己満足、、という言葉ではなかった。自己中心についてしっかり考えないと、他人中心になってしまう、、という言葉だったか失念してしまったのだが、とにかくそういうことを書いている詩があった。他の詩にも、自己中心という言葉がでてきた。そうした、悪い意味とされる言葉を一度自分の中で噛み砕き、それが結果悪かったとしても、、そういう試みが気になる。あるかどうかもわからない未来よりも輝かしい過去の方が良いというのはリリー・フランキーさんの言。 私は、自己満足が他人の満足につながるようなことが良いと思っている。その為にも絵を描いていきたい。自己満足と公共のマリアージュというのが今日頭の中に浮かんだ言葉であった。その時、ドリームシアターのENEMY INSIDEを聴いていた。間奏のプログレな展開、カオスに盛り上がる部分は部活を辞めて暇で暇で...