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4月, 2023の投稿を表示しています

コラージュ美意識

芋煮を作った。里芋、ごぼう、かぶ、しめじ、こんにゃくを入れた。味噌ベース。こないだ良さげな味噌を買ってから味噌を使うのが楽しみになっている。そのくらいの小さなことを楽しみにしてこう。こんにゃくに中々火が通らなかったので結構長い間煮込んだ。こういうの煮込んでいる最中に絵を描いたりするの良いかもしれない。同時進行。 そしてそして、きゅうりとレタス、紫玉ねぎを刻んで、お酢、醤油、砂糖をまぶして良く和える。うまい。砂糖のただ甘い以外の使い方も覚えたい。この、お酢、醤油、砂糖の組み合わせは結構汎用性がありそう。 いつもの塩サバを買って、、こう書くと、「買う」っていうことに相当依存している人だなと思うのだが、まぁとにかく。フライパンで炒める。 その後にんにくとしめじ、かぶを刻んでタッパーに入れ、塩とオリーブオイルで漬け込んでおいたものをフライパンの空いているところに入れて炒める。最後に四等分したミニトマト×3をちょっと炒めて、皿にのせ、食べる。うまい。 「漬け込む」という技術をもっと使っていきたい。 片付けをした。椅子に座って机に向かい、周りが散らかっているとなんとなく集中できず、病んでいく感じがする。これは不思議なことに、自分以外の人がいる時、例えば喫茶店などで、周りの色んなものが目に入ってきて、、というのは全く気にならないのだが、ただ1人でいる時に発動する感性である。 散らかった考えは悩みにしか向かわず。解決策、片付け。 顔を上げた時にパッと目に入るものがなんか綺麗なものとかだったら良いかなと思ってカーネーションを買ってきて、なんかの瓶に活けておいた。 あんまりバランスが良くない気がするが。生花って難しいんだろうな。 最近もたまに、ちょこちょこ、人生!みたく考える時があるが、私の場合、良くて遅咲きか、悪くて何もうだつ上がらないまま死んでしまったみたくなるね。 そう、タバコやめて、お酒1人で飲まないっていうのは結構ナイスな判断だ。そんなこと考えて1人でがぶがぶ飲んでいたら悪くいくのはそれはもうわかってるでしょってことで、、  ただ、どうしても考えてしまうのなら、その他の部分は健康的にいかねばね。 

GW2

朝早く起きて軽く自炊をして、塩鯖と味噌汁、ご飯を食べた。ご飯、お米は白いキャンバスという感じがする。色もそうだし、米だけでも美味しいけれど、そこに何かをのせたり、おかずがあったりすることで成立する感じとか。 色を塗ったり線を描いたりすることでその機能を発揮するような。 機能ってなんか、無機質だろうか。 本領を発揮するような。 歯茎にできてた口内炎(言葉だけで痛そう)が治った。春になり日ざしが強くなって日に焼けただけかもしれないが、顔色が良くなった気がする。食欲があり、前向きで、以前より疲れなくなった。果たして禁煙の効果だろうか。このままもうやめよう。ただ、吸いまくっていたことは悔いたりしていない。その生活はやり切ったかなという気持ちだけである。なんでもだんだん、惰性になりがちだから,,,  絵を描いたりすることもいつか惰性になったりするだろうか。多分、自分が今、絵を描くよりも、子どもの頃に絵を描くことが好きで、大人になって全く描かなくなり。20年ぶりのクレヨン。という人が描く方が俄然、惰性感は無いだろうし、新鮮で、懐かしく、そういう気持ちにさせられるだろう。 新しくはじめる時は新鮮であるが、継続するにつれて、工夫をしないと新鮮さを失ったり、ともすれば興味も失ったりしてしまう。何か、新鮮ということに自分が囚われていることに気づく。 今、絵を描くことは自分にとってはそこまでフレッシュなものではなくなってきている。こういう時にどうするかという時にどうするかという時に。以前の私は一旦やめ、全然別のことをはじめるという対処をしていたが、ここは一つ。継続修行バイブスでいきましょう。新鮮さの為に自分にとって新しいものに飛びつき続けるのではなく、 続け続けるということを始めていきたい。

GW1

今日は一日の途中でゴールデンウィークだと気づいた。なんとなく街並みの雰囲気も違ったからだ。路上でレッドホットチリペッパーズのコピーをやっている人たちがいてすごく良かった。ちょっとだけ踊った。can't stop addicted to the sinding. 世の中の連休といえば私にとっては昔から、忙しい日であるのだ。 世間はなんとかですねえと言ったり思ったりする時、狭く思うならそこは世間の外側、広くいくなら内側である。で、最近は内側にいるなと思っている。 iPhoneにデフォルトで内蔵されているgaragebandという音楽の打ち込みができるアプリがあるのだが、昨日今日とそれで少し遊んだりした。無料なのにあんなこともこんなこともワンタッチでできて、なんだか自分がすごい音楽をやっている人みたいな気持ちになった。気づいたら時間がたってて、気持ちはスクリレックスだったね。て、garagebandがすごいだけなのだが。少しDTMをやることに興味が向かっている。ゲームボーイを改造して色んな線をつなぎ、音楽をやったりするやつをやりたい。 楽器のビジュアルに対して多くの人が何か特定のイメージを持っている訳だけど、例えばこれがそもそもは楽器でないものを楽器にした時にどんな音楽が生まれるか、あるいは生もうとするか。そこにはそもそものイメージがない。イメージがないものをやる時に新しくイメージを生もうとしたり、ビジョンを改めて考えたりする必要に迫られるのではないか。抽象的な日記になった。

炊飯器の鳴る音

ピー 蓋を開けるとじゅわわと音が鳴る。暑い湯気を顔に浴びる。炊きたての米の匂いとしか表せない匂いがする。これは香りではなくて、匂いである。 しゃもじを手に持ちかき混ぜる。今日は3合炊いた。明日の朝も食べられるように。米の重みがしゃもじを通して手に伝わってくる。一通り混ぜたら一旦蓋を閉める。 シュウゥゥ この工程を幸福に感じられるのであれば、比較的毎日幸福を感じることができるだろう。 洋服を着たり、歩いたり、シャワーを浴びること。何かものすごいことを達成しなければならないわけではないのだ。

満腹のかなた

 食べすぎた。 禁煙に成功してからというもの、食欲が止まらなくなっている。食事が美味しいというのと、ぽんと空いた時間に何をしたら良いのかがわからないというのもあると思う。もう少し禁煙に慣れたら食事量も減らしていきたい。 液晶タブレット、略して液タブで沢山絵を描いた。ダイソーで買ったやつで、消しゴム機能がなく、ゴミ箱ボタンで一気に消すことしかできないので緊張感がある。嘘です。緊張はしたことがない。タブレットに描く絵はどこまででも失敗が許される感じがして線が伸びやかになる。あと、そもそも鉛筆やボールペンや筆では描けない、デジタル線とでも呼んだ方がいいものがある。付属のペンで線を引くとそれがでてきて非常に面白い。 案外、iPadで絵を描くとかはじめたら紙に描かなくなったりしてしまうのかな。いや、紙に私は可能性を見出したい。見出しているとかではなく、見出したいのである。王道なプロセスではない気もするが、これが好きだではなく、これを好きになってみたいとか、そう決めたのだとか、そういう動機も良いんじゃないかと思っている。 「ゲーム化する世界  コンピュータゲームの記号論」という本を買った。 日本記号学会というところが編集している。あまり私はゲームには関心が無いのだが、なんとなく手に取り、ページをペラペラめくっているうちに思うところがあって買った。ゲーム以前は、テレビというものがあったとして、その内部に入ることはできない、つまり、番組は決められていて、どういう映像が流れてくるのかは自分で決めることはできない。ゲームというのは液晶画面の中で何かが動く、もしくは動かない、、そういうことを一定のプログラムの中ではあるが、プレイヤーが決められるのである。画面の中を操作するということができる。これはゲーム以前にはあり得ないことで、非常に画期的なことだったと。 その文脈で考えると、このデジタルの日記や、SNSや、というか、スマートフォンやパソコンで何かを操作するという行為は広義でいうゲームなのではないかとも思う。そう考えると、私はゲームというものからほぼ逃れられない日常を送っているという風に考えることもできる。 さ、絵を描かなきゃ。

久々に何も無かった日

IPhone紛失してから色々忙しかったが、今日は久しぶりにiPhoneがあり、のんびりできた日だった。12時頃まで寝て、リサイクルショップに行き、ASOLOというイタリアのブランドの登山靴(かなり大きめな欧米の子ども向け)と、ナイキのコルテッツ購入。コルテッツの形が好きで昔カラフルなやつを履いていた。今回買ったのはネイビー。物欲が弱い方だが、洋服とか靴、本に対しては結構ある方かもしれない。 このところ自炊もずっと続いているし自炊の本を作りたいと思ったぐらいなので、この食材が買いたいとか調味料が欲しいとも思うように徐々になってきた。 そうすると物欲。結構あるのだろうか。しかし、食材、しめじ、豆腐、調味料、米油、ブラックペッパー、そういうものが欲しいというのは果たして物欲と呼ぶのだろうか。食欲? 衣服や靴のポータブルさにずっと惹かれ続けている。上着を着て何処かに行くことはその上着を運ぶことになる。普通、運ぶというのは何か箱や袋などに入れて、持ち上げたりしなければいけないのだが、服の場合は着ることによって運ぶという離れ業ができるのである。靴も履いて動いて運ぶことができる。二足以上になれば他の荷物と同様になるのだが。 本が欲しいのは、それらを並べる楽しみというのをまだ発明していなくて、それらを読む楽しみ、ページを開く楽しみ知る楽しみという所に集中している。もう少し装丁やブック・デザイン的なところにも興味を持っていきたい。というか、興味はあるのだが、なんとなく雰囲気がいいとか、小さくてかわいいとかで止まっている。それもそれで素敵な感情だが、もう少し解像度も上げたい。この紙、○○紙??とか思わないんだもんね。花や草木に対する感覚もそうで、興味を持ちたいと思いつつ毎年、金木犀ってなんですかと思っている。この形の草がなんという植物ですというよりも何かエピソードとともに頭の中に入れば覚えられる気がする。花言葉や草言葉。まぁ、なんで覚えたいのかも理由は特にないのだけれど。 ホワイトボードとそれ用のマーカー、タブレット型電子メモパットを買った。今日結構買い物をしている。  ホワイトボードに絵を描いては消し、描いては消し、描い。 メモパットに絵を描いては消し、描いては消し、描。 気づくとすごく時間は経っていた。紙に書きたくはないけど絵を描きたいという自分自身のニーズに気づいた瞬間を...

人それぞれ風景

 新潮美術文庫のアンリ・ルソーの小さい画集を電車の中で見た。ルソーは元々税関の仕事をして、休みの日に絵を描いていた、魅力的な素人の人、日曜画家という風に知られていて、絵についているキャプションにもその旨が反映されている。技術不足だろうか、遠近法に興味が無いなどと言われてしまっているのだが、通常、画集には絵があり、その絵の題があり、何か補足説明が書かれる時は絵の解説に加えてその作家を敬うような内容が多いのだが、この画集はリスペクトを示しつつも微妙にダメ出しもしていて、他の画集とは異なるシュールな空気が少し流れている。 描かれるジャングルの植物が好きだ。ルソーの絵以外で見たことのない不思議な立体感を持っている。浮き上がってくるがのっぺりとした感じで、なんとなくグラフィックソフトで作られたような感じもする。 こう、スマートフォンとかパソコンとか無い時代の人たちって映像メディアが無い分すごくリアルに生きているという印象があったけれど、昨日画集見たユトリロ然り、ルソー然り、絵葉書を見て描いたり記念写真を見て描いたりしていて、何か、教会の絵が描かれたりしていると私は、その教会の前に座って絵を描くその人を思い浮かべるのだが、そこにいないことは往々にしてあるようだ。ピカソのゲルニカも新聞記事か何かを見て描いたという。  何かメディアで見て、それに反応して描くというのは良くも悪くも現代的な感じがあるけれどそれはとりわけ今に始まったことでもないのだろう。印刷物が生まれ、つまり複製技術が生まれた時からその手法は生まれていたのだと。 明後日からまたばっちり制作できる。絵は絵で視覚として目に見える物を作り、 日記は視覚以外のもの、聴覚や味覚、嗅覚、触覚にシフトしていきたいのだが、どうするべきか。 その赤は...  というよりも、その味は...  というのがやりたいのだ。何故って、自分自身すごく半人前の中でこの色とか、輪郭とか、そういうことを書いていくのがちょっと恥ずかしい。もっと、力がついたら本格的にやってみても良いかもしれない。

早起きと寝坊の間は

昨日は明日、つまり今日。早起きして絵を描く予定だったが、今朝の私は、まあそんなに焦ることもないとスヌーズを連打していた。結果朝食を作って食べて着替えれば家をでなければいけない時間に。今のところ、絵を描くとか制作するというのはまぁ削っても仕方ない時間みたいになっているのでなんとか、その時間の立ち位置を向上させていきたいな。 何も作らなかった日は、何かを作った感じにだけ触れようと思い、電車の中でユトリロの画集を見た。こちら新潮美術文庫のもので、このシリーズは結構気に入っている。画集ではあるのだが分厚かったりごつごつしたりしていないで手のひらより少し大きいくらいのサイズ、ハンドサイズと言うのだろうか。なので電車の中や待ち時間で読みやすい。たまに非常に大きいサイズの本があるけれど、あれはどういう状況で読むことを想定しているのだろうと考える時に、物の大きさに対する認識に意識が向かう。赤ん坊にとって大きな本は私にとって普通の本であり、体格の大きな人にとって小さいと感じる本は私にとってちょうどいいサイズの本ということはあるだろう。 一口に大きい絵、小さい絵といっても具体的にどのくらいのサイズから大きく、また小さいということになるのかはその人の観点がでる。 かなり前に見たバスキア展は、バスキアにとって小さいと考えていたであろう絵が、私にとって大きなものに見えた。自分にとってのA4サイズがバスキアにとってのA2サイズだったようなイメージである。 その時併設展でやっていた、ウィスト ポンニミットさんの小さな展示で私は不覚にも泣いてしまった。小さな絵の下に素朴な日本語とタイ語が書いてあった。気がする。「ここが好き、ここで君と会ったから」という言葉に心を打たれたのだ。その旨インスタグラムに載せると本人からありがとうと連絡があり興奮。 全然今日の日記の体を成してないな。昔に浸るような文章を書いても良いけれど、なんとなく「これから感」といったような、気持ちが溢れるような感じでいたい。 明日は早起きできるかな

特別快速

 髪の毛を整髪料でセットしてから絵を描いた。着替えるとか、歯を磨くとか、そういう手続きが必要だったりする。全然、水着とヨレヨレのTシャツの時もあるが。この違いは不思議である。コーヒーやレッドブルを飲むとシャキッとする時もあるが、そのままただのかったるい人になっている時もある。雑かつ繊細な気分の世界。 朝食は麻婆茄子にした。マーボー系は豆腐と茄子がメジャーなんだろうな。他の単語がつくのは見たことない気がする。麻婆茄子、、といってもスーパーで売っていた、これと一緒に茄子を炒めてねというインスタント麻婆茄子なのだが、茄子以外の具材を入れることで個性をだすこともできるのだ。私はしめじと長ネギを入れた。長ネギは斜めにカット。長ネギを輪切りにした場合、「ボンっ」て見た目なのだが、斜めに切ると「シュっ」て見た目になる。 麻婆が赤いので、補色である長ネギグリーンが入ることで総合的な見た目もしまるね。 作って食べると美味しかった。なんだかんだ、これと一緒に何かを炒めてね系の、半インスタント的なソースなり素なり、外れたことがない。自炊の味方ではあるが、1からフルスクラッチで作ってみたいという欲も否定できない。 久しぶりにグーグル。 麻婆は 「豆腐とひき肉 ・ネギ などを、唐辛子 ・豆板醤 ・花椒 などを入れて 炒め煮したもの」とある。 麻さんという人が作ったらしい。画家の絵には作家名がでてくるが料理には作家名が全然でてこない。何々地方あたりで生まれたらしいくらいの抽象度だったりするのが面白い。 麻婆作ってみようかな。どうせ作るなら大量に作って、色んなものを麻婆にした方が良いと思う。やりたいことメモに入力しておこう。いや、やりたいことメモなんてやっていなかったことに気づく。今からはじめよう。 その1. マイオリジナル麻婆を作る 今、電車、からの、乗り換えなう

へべれけ禁止

 むかしむかしのある夜のこと、あるところに、へべれけで歩いている青年がいました。「うぃー、、ひっくっ、この辺りで休もう。」ちょうどいい茂みを見つけると青年はそこに座り込み、そのうちに横になり、しばらく動かなくなりました。「いけない、行かなくちゃあ。」そうして立ち上がり、とぼとぼと歩きはじめ、信号に差し掛かると、青年は携帯電話と財布を無くしたことに気付きました。 さあ、ここからどうなるこの話。いつの時代のどんな場所にも、ダメな青年はいるものですな。ははぁ、そして、私のことなのだが、10日ほど本当に大変で、連絡手段と身分証というのが結構なレベルでライフラインになっていることに気付かされた日々であった。それなりに新鮮で楽しくもあったが、一ヶ月とかになってくるとキツいだろうな。いや、それはそれで何か生き延びる手段を見つけるのだろうし、あえてそうしている人もいるだろう。 こういう風にしたいのだが、連絡をしなければいけない→連絡ができない→人に頼むしかない という状態がしばしばでてくる。良かったことといえば、道を聞いたり、どうすれば良いか人に尋ねるなど、連絡手段がある時よりも知らない人とのコミュニケーションが活発になったことだ。自分だけ昔話のような意識でしばらくいた。 iPhoneとか、ガジェットに対する意識も見つめ直した。自分に対して、持っているこの機材がオーバースペック過ぎるのである。バスケのルールを知らないが着るユニフォームのようだ。あまりに頼り切りになるのも良くないなと思ったし、もう少し距離を取りつつ、寝る前に見たりしないようにしつつ、、そういうマイルールを決めた方が良いだろうなとも。目覚まし時計を買ったので、「寝る時は目覚まし時計で起き、iPhoneは寝床から遠い所で充電しておく」というルールなど。はい。 ここ10日間くらいは本当に健康だった。全然絵も描かなかったけれど。食欲が増え、少し太ったかもしれない。何かを作って売るとか、働いてお金をもらうとか、そういうことと同じように何かを買うということも考えていかねばならない。絵が売れたらなるべくそれで絵の具を買うとか、、画材に使うのと、本を買うのには罪悪感が無いな。1人で缶チューハイに溺れて潰れていたというのは罪だ。可愛い画用紙とか、買った方が全然良かったと思うよ。面白く考える為に、消費も生産みたいなイメージで考え...

ゆうーつ

 フライヤーができた。できる前の生活を反省する。ぐだぐだぐだぐだぐ… 一体何をやっているのだ。散歩したり頭を掻きむしったりする前にもう少し思ったことに集中したらどうだ。もう少しストイックでいて良いのじゃないかと思った。しかし、ここで気合いと根性といったような出来もしない体育会系を自分に対して向けるのはまずくいくだろう。工夫だ。工夫。 例えば、何かのアレルギーがある人は工夫の大切さを知るはずなのである。これを食べるとこうなるからとか、金属アレルギーだけどアクセサリーをつけたいから、こういう素材のものを、というのがあるはずなのだ。 そういう人に比べると私はただその場の思いつきに任せ過ぎなのだ。生活、流れていく時間、感情や欲という闘牛士がひらひらさせる赤い布に突撃する私は牛。紙に書いた自分との約束なんかしれっと破り、何時に寝て何時に起きるか、そういうことも自分でわからなかったのだ。 まぁ、あまり自分を責めるのは止めよう。ただ、中々できなくとも、変わろうという意思を持ち続けることは忘れずに。一気に変えようとしてもリバウンドがくるし、潔く自分のことを諦めるのもやっぱり違う。大事なことはいさぎわるく。 果たして、この自己満足という四字熟語がばっちり似合うこの日記はどこへ向かうのか。今日はぐだぐだしていた時間にこのことについて考えた。ひとまず、日記のことは置いといて、自己満足というやや嫌われがちな言葉について考えてみた。中学生くらいの頃、山田かまちの詩で、自己満足、、という言葉ではなかった。自己中心についてしっかり考えないと、他人中心になってしまう、、という言葉だったか失念してしまったのだが、とにかくそういうことを書いている詩があった。他の詩にも、自己中心という言葉がでてきた。そうした、悪い意味とされる言葉を一度自分の中で噛み砕き、それが結果悪かったとしても、、そういう試みが気になる。あるかどうかもわからない未来よりも輝かしい過去の方が良いというのはリリー・フランキーさんの言。 私は、自己満足が他人の満足につながるようなことが良いと思っている。その為にも絵を描いていきたい。自己満足と公共のマリアージュというのが今日頭の中に浮かんだ言葉であった。その時、ドリームシアターのENEMY INSIDEを聴いていた。間奏のプログレな展開、カオスに盛り上がる部分は部活を辞めて暇で暇で...

定休日

 昨日かなり不摂生だったので気をつけねば。誰かにとっての健康的な1日。昔のフランスのポスター画家、ロートレックとかサヴィニャックとか。旧共産圏の車やグッズの色使い、色んな国のメイク動画が今気になる。中々ニッチな気になり方だが、それでいいのである。多くの人が気になっていることが自分も気になる時はあったし今もあるが、私の場合結構適当に乗っかって気になっていることが多い。そして、その時は適当に乗っかって気になっているとは思わないことがポイントだ。心に数々の思い当たる節が。大人になりましょう。なぜ部活に入ったか。誰でも部活に入るっぽかったからだ。それ以外の理由は無い。 さて、絵を描くのは誰でも絵を描いてるっぽいからだろうか?理由に詰まって何も動けなくなるのは良くないけれど、余裕があれば考えてみるのも面白いかもしれない。

深夜各停

 電車の中で日計りという写真集を見た。私の好きな写真集である。本は読んだと言うのに、写真集は見たと表すのは、文字があるかないかということが読むと見るの違いと認識しているのだろうか。しかし、写真の中にも文字が入っている。それらの多くは看板や貼り紙。飲み屋の名前、貼り紙禁止。 ただ、看板を読んだとはあまり言わないだろう。そうすると、文字が多いと読む、少ないと見たと呼ぶのだろうか。3文字を読むと思うか、見ると思うか。ファッションブランドのロゴを読むのか、見るのか。私は見た。 写真の特性に朧気ながら気づく。この写真集の中にある写真は古くて1990年、新しくて2002年。私が生まれる前のものもあれば、生まれた後のものもある。ただ、2002年の時点で私は思いつく限りでは新宿に一度も行ったことはなかった。その写真の中にいる人、人々、服装、街並み、看板、見た私は時代を感じとった。今のことではないということを。見たことのないことを見た、その場所にいなかったことへのノスタルジー。それは厳密にはノスタルジーではなく、ノスタルジー風である。何がそう思わせるのかはわからない。懐かしさと新鮮さ。行ったことがある土地だと、この場所は通ったことがある、良く行ってた、今もいたりする。しかしそこにまつわる風景は目の前にある写真とは少し違う。その少しの違いというのは例えば、建物が変わっていたり、新しい店ができていたり、その前を横切る人たちが違ったりする。横切る人まで街並みに入れれば一瞬でも同じ瞬間はない。その一瞬というものに何かを感じる、もしくは感じたいと思う人が取り憑かれたように写真を撮ったりするのかもしれない。 日記も2度と同じものは書けないと思う。それは良し悪しとは別の、ただそういう瞬間だったからというのがある。そういう、コントロールのできなさを、たまたま写り込んだもの、それらはノイズであるが一つの魅力なのである。絵にコーヒーをこぼした時、何か予測していなかったことが目の前で起きる時、それらにどう反応するか、頭の中で作り上げたものは外側に出る時、頭の中のものにはならない。それはもどかしさでもあるが現実である。誰もが頭の中のことをそのまま、ただただそのままにいけば、ここで写真を撮る時にこういう人が走り、こういう人は立ち止まり、こういう人は後ろを向いていて、、スタジオではそれが可能かもしれない...

train train train

 電車の中で本を読んだ。長い道のりの中50ページ。本は、鈴木大拙 著の 東洋的な見方。 これは大分前に読んだやつだが、今日急いで家をでる時になんとなく目についてバックパックの中に入れ、駅まで小走りし、いまだにアナログに切符を買い、改札を通り、駅のホームで待つ間と到着した電車に乗り座席に座っている間に読んだ。 前にこの本を読んだことは覚えているにも関わらず内容を全く覚えていない。前はこういう時に自分の記憶力を嘆いていたが、最近はこういうことも楽しめるようになったと思う。何も受験勉強をしているわけではないのだ。第一に、何もかも覚えていたら何かの試験には有利だが暮らすことはかなり苦しいものになるだろう。亡き祖父が何食わぬ顔でぼけていた理由でもあるかもしれない。どんどん覚えてどんどん忘れる。 本の中で禅僧たちがやり取りをする。この人たちがかなり人をくったような人たちというか、語弊を恐れずにいえばちょっと意味不明で理不尽だったりするのだが、これはどういうことか。不立文字。言葉では説明できず体験するしかないことを本で説明しようとしている。つまり読んだからわかったどうだということができないのだが、こういう文字との関わり方はなにか詩のようで面白い。 感覚は色々あり、私は何かの感覚でいる時に別の感覚もあるということを忘れないようにしたい。文章を書き言葉にこだわり、言葉が全てであると思う時、言葉を持たない人はどうなるのか。見知らぬ国で日本語は誰にも伝わらず、私が日本語しか使えないという時、私は無力だということになる。 理屈っぽくもあり、まあ、なんとなくです。という感覚もあり、そのように多重の感覚を持ち、その時々で切り替えていることにもっと自覚的でいたいと思っている。ギタリストが曲をアドリブで弾く時、スポーツマンがスポーツの試合をする時、そこからナイスプレーが生まれる時、なんかこうなった、無心、わからん ということがあるはずである。 この日記は帰りの電車の中で書いている。少し疲れているのか何を書いているのか自分でも良くわかっていないのだが。 今の疲れは心地よい疲れである。ぷはぁ ってひらがなが合う感じだ。 何が良い疲れで何が悪い疲れだろうか。 鈴木大拙によると、こう、二分するというのが西洋の考え方なのだという。そして、それが悪いというわけではなく、東洋の分けないという考え方を展開...

自家発電

 自炊日記に転換しようかと思ったのだが、すぐにネタ切れしそうなので止める。自炊のzineを作りたいと思った。「食べるログ」 ピーマンとは何か。追求しすぎてピーマンだけで一冊出来上がってしまうようなものや、ピーマンと例えばピカソを結びつけたような、食から良くそこまで話を飛ばせたなという本、しかし無理やりにというわけでなく自然につながっていくのである。妄想が広がる。妄想ばかり広がってほぼ何も成せていない人生なので、まとめていくことがこれからは重要になる。 今日は途中までフライヤーを作った。フライヤーを作るのは面白い。フライヤーを作っているうちに作りたい作品ができてきたりもする。順序が逆の気もするのだが。しかし、フライヤーも作品なのだと思う。作品だと思う範囲が広がってきた。 こないだ読んだ、「美学 ジェンダーの観点から」が面白かった。そこではもやもやと思っていたが言葉になっていないことが言語化されていた。そういう言葉に触れて初めて意識的になる。この本に触れたことは私にとって財産になるだろう。自分がやってきた、考えてきたことにもつながっていると思うし。高級に見えるもの。チープに見えるもの。仕事に見えるもの。趣味に見えるもの。そういう区分に見えるものがなんなのかということを私も考えていきたい。 いつの間にか、花粉のことを忘れている。苛立ちながら鼻をかんでいたことも、目が充血していたことも私はすぐに忘れてしまう。

4月3日から4日

 あまり寝ていなかったのに早起きした日であった。朝は6時。そのまま散歩。早起きした時に謎の長時間の散歩をしている時がある。結果、時間的には遅く起きたのと同じことになってしまう。 部屋の片付けをした。綺麗になると、綺麗になる前よりも広く感じる。部屋は6畳は狭いのだが、ここのスペースを広く感じるか狭く感じるか。ここは何坪、そこは何坪、坪あたりいくら、土地、そういう話が多い現代では、1畳あたりでできることを増やしていくことが大切ともいえる。1畳のスペースに住まい、本当に満ち足りた生活ができるのであれば、その人は幸せな人であるともいえるだろう。私はどちらかというとそれに近いような感じはするが、絵とか道具があるのでその分は場所をとってしまう。そして、なんだかんだ6畳より12畳とかの方がいいや、そりゃ。スペースはこれからどんなに時代が変わっていっても常に意識の的であるだろう。メタバースが主流となった現代で現実のスペースの意義とは?? みたいな論がメタ雑誌的なもので取り上げられたりする。 なにはともあれ。住まいが綺麗だと気持ちがいい。私は案外、綺麗好きなのではないかと思う。前にルームシェアで住んでいたところが、私の何も考えず大量に描いた絵と、本の山、コンビニの弁当の残骸や吸い殻、缶ビール、缶コーヒー、ペットボトル、画材、走り書きのメモ、、そんな状態、作品とゴミが共存した、セミ(半分)ゴミ屋敷であったので、数少ない当時の家に来た人は、もれなく全員が狂気を感じて帰っていった。それでもって、別にそれで良いとも思っていた。絵を描くことに夢中になっていて、それ、それは描いた絵のことではなく、それを描くライフスタイルがどう思われるかということは関心の範囲外であり、ある種、何かを作るということが自分の生活について考えないことの免罪符になっていたような所があった。 高円寺に行き、5月末にやるポップアップの話をした。私は似顔絵を描いたりすることになりそう。自分で、自分たちでやることを決められるというのはとても良いことだ。公園で久しぶりにキャッチボールをした。 電車で家に帰る時、最近読んでいるサヴィニャックの自伝が残り数ページで読み終えてしまうことに気づいた。次は電車で何を読もうか。サヴィニャックの自伝面白い。昔読んだアンディ・ウォーホルの自伝と似た匂いがする。こういうものを買った、あの人が...

エブリデイフール

明日は忙しく、日記を書ける気がしないので、今のうちに明日の日記を書いてしまおう。生活をする前に日記を書こうというのである。なんだか本末転倒の感じもあるが、いいんだ。現在は4月2日朝の0時35分。日本語としては、4月1日の深夜。と呼ばれる時間帯だろうか。しかし、カレンダーを見ると4月2日なのである。レイモンサヴィニャックの自伝を行きの電車の中で読んでいたが面白い。絵を描く人の中にも、言葉にしたくないタイプの人と、したくて仕方ないタイプの人がいるのだろう。サヴィニャックはしたいタイプな気がした、、、が、自伝を文章で書くという本の性質上、そういう風に見えてしまうのは仕方がないのではないか、と、にわかな編集者のようなことも思ってしまったりもする。 話が止まってしまった。 久々にイヤホンを耳につけなかった日であった。音楽は基本的にいつもイヤホンをつけて聴くのだが、今日はなんとなく、読書だけに集中してみた。なんだか気持ちが良かったので、これからはイヤホン無しの、電車は読書の人になっていこう。これが昭和スタイルだ。いや、平成初期スタイルもか。 眠気、花粉、そして禁煙の効果か帰りの電車は満身創痍であった。今日は個人的に花粉が凄まじく、なんども強いくしゃみをしたので、肋骨に痛みもある。まぁ、寝て起きれば治っているのさ、頑丈だけが取り柄である。以上になります。お疲れ様でした。