電車の中で本を読んだ。長い道のりの中50ページ。本は、鈴木大拙 著の 東洋的な見方。 これは大分前に読んだやつだが、今日急いで家をでる時になんとなく目についてバックパックの中に入れ、駅まで小走りし、いまだにアナログに切符を買い、改札を通り、駅のホームで待つ間と到着した電車に乗り座席に座っている間に読んだ。 前にこの本を読んだことは覚えているにも関わらず内容を全く覚えていない。前はこういう時に自分の記憶力を嘆いていたが、最近はこういうことも楽しめるようになったと思う。何も受験勉強をしているわけではないのだ。第一に、何もかも覚えていたら何かの試験には有利だが暮らすことはかなり苦しいものになるだろう。亡き祖父が何食わぬ顔でぼけていた理由でもあるかもしれない。どんどん覚えてどんどん忘れる。
本の中で禅僧たちがやり取りをする。この人たちがかなり人をくったような人たちというか、語弊を恐れずにいえばちょっと意味不明で理不尽だったりするのだが、これはどういうことか。不立文字。言葉では説明できず体験するしかないことを本で説明しようとしている。つまり読んだからわかったどうだということができないのだが、こういう文字との関わり方はなにか詩のようで面白い。
感覚は色々あり、私は何かの感覚でいる時に別の感覚もあるということを忘れないようにしたい。文章を書き言葉にこだわり、言葉が全てであると思う時、言葉を持たない人はどうなるのか。見知らぬ国で日本語は誰にも伝わらず、私が日本語しか使えないという時、私は無力だということになる。 理屈っぽくもあり、まあ、なんとなくです。という感覚もあり、そのように多重の感覚を持ち、その時々で切り替えていることにもっと自覚的でいたいと思っている。ギタリストが曲をアドリブで弾く時、スポーツマンがスポーツの試合をする時、そこからナイスプレーが生まれる時、なんかこうなった、無心、わからん ということがあるはずである。
この日記は帰りの電車の中で書いている。少し疲れているのか何を書いているのか自分でも良くわかっていないのだが。 今の疲れは心地よい疲れである。ぷはぁ ってひらがなが合う感じだ。 何が良い疲れで何が悪い疲れだろうか。 鈴木大拙によると、こう、二分するというのが西洋の考え方なのだという。そして、それが悪いというわけではなく、東洋の分けないという考え方を展開させていく。 というさっき読んだばっかりのことは一旦置いといて、良い疲れと悪い疲れが自分の中ではある。程度によるかもしれないが、身体からくる疲れはそんなに悪い時はなかった。心からくるものには注意が必要だ。心の中、感じることで、悪い方にいきそうなもの。悲しさや寂しさは案外ころっと忘れたりまた思い出したりするもので放っておけば良いのだが、焦りがよくない。焦りは自分が感じることの中で一番嫌な思いだと思う。
電車を降りて、歩く。いつもよりのんびりめに。今日はマネスキンというミュージシャン。知った。
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