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久々に何も無かった日

IPhone紛失してから色々忙しかったが、今日は久しぶりにiPhoneがあり、のんびりできた日だった。12時頃まで寝て、リサイクルショップに行き、ASOLOというイタリアのブランドの登山靴(かなり大きめな欧米の子ども向け)と、ナイキのコルテッツ購入。コルテッツの形が好きで昔カラフルなやつを履いていた。今回買ったのはネイビー。物欲が弱い方だが、洋服とか靴、本に対しては結構ある方かもしれない。 このところ自炊もずっと続いているし自炊の本を作りたいと思ったぐらいなので、この食材が買いたいとか調味料が欲しいとも思うように徐々になってきた。 そうすると物欲。結構あるのだろうか。しかし、食材、しめじ、豆腐、調味料、米油、ブラックペッパー、そういうものが欲しいというのは果たして物欲と呼ぶのだろうか。食欲?

衣服や靴のポータブルさにずっと惹かれ続けている。上着を着て何処かに行くことはその上着を運ぶことになる。普通、運ぶというのは何か箱や袋などに入れて、持ち上げたりしなければいけないのだが、服の場合は着ることによって運ぶという離れ業ができるのである。靴も履いて動いて運ぶことができる。二足以上になれば他の荷物と同様になるのだが。

本が欲しいのは、それらを並べる楽しみというのをまだ発明していなくて、それらを読む楽しみ、ページを開く楽しみ知る楽しみという所に集中している。もう少し装丁やブック・デザイン的なところにも興味を持っていきたい。というか、興味はあるのだが、なんとなく雰囲気がいいとか、小さくてかわいいとかで止まっている。それもそれで素敵な感情だが、もう少し解像度も上げたい。この紙、○○紙??とか思わないんだもんね。花や草木に対する感覚もそうで、興味を持ちたいと思いつつ毎年、金木犀ってなんですかと思っている。この形の草がなんという植物ですというよりも何かエピソードとともに頭の中に入れば覚えられる気がする。花言葉や草言葉。まぁ、なんで覚えたいのかも理由は特にないのだけれど。

ホワイトボードとそれ用のマーカー、タブレット型電子メモパットを買った。今日結構買い物をしている。  ホワイトボードに絵を描いては消し、描いては消し、描い。 メモパットに絵を描いては消し、描いては消し、描。
気づくとすごく時間は経っていた。紙に書きたくはないけど絵を描きたいという自分自身のニーズに気づいた瞬間を何時間か続けていた。 目の前にあったペットボトル。キッチンの絵。それらは料理のように現前し、食事のように消失する。
こうした方が遠近感がでるかなとかやりながら、サクッと消す。久しぶりに絵がうまくなりたいと素朴なことを思った日でもあった。そんじゃ今まで何考えてたのよと考えると、魅力がある絵を描きたいと思っていたのだった。そこから技巧的なことは省かれていたと思う。 もう少しそのことについて考えた方が良いかもしれないなと思った。

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GW1

今日は一日の途中でゴールデンウィークだと気づいた。なんとなく街並みの雰囲気も違ったからだ。路上でレッドホットチリペッパーズのコピーをやっている人たちがいてすごく良かった。ちょっとだけ踊った。can't stop addicted to the sinding. 世の中の連休といえば私にとっては昔から、忙しい日であるのだ。 世間はなんとかですねえと言ったり思ったりする時、狭く思うならそこは世間の外側、広くいくなら内側である。で、最近は内側にいるなと思っている。 iPhoneにデフォルトで内蔵されているgaragebandという音楽の打ち込みができるアプリがあるのだが、昨日今日とそれで少し遊んだりした。無料なのにあんなこともこんなこともワンタッチでできて、なんだか自分がすごい音楽をやっている人みたいな気持ちになった。気づいたら時間がたってて、気持ちはスクリレックスだったね。て、garagebandがすごいだけなのだが。少しDTMをやることに興味が向かっている。ゲームボーイを改造して色んな線をつなぎ、音楽をやったりするやつをやりたい。 楽器のビジュアルに対して多くの人が何か特定のイメージを持っている訳だけど、例えばこれがそもそもは楽器でないものを楽器にした時にどんな音楽が生まれるか、あるいは生もうとするか。そこにはそもそものイメージがない。イメージがないものをやる時に新しくイメージを生もうとしたり、ビジョンを改めて考えたりする必要に迫られるのではないか。抽象的な日記になった。

片付け

部屋の片付けをしようしようと試みるが遅々として進まず、なぜこんなに単純なことができないのかと悩む。何から手をつけて良いかわからない。イメージが湧かないのだ。 こういう部屋にしたい、するという目標があればできるのだろうか。その目標が持てない。特に無いのだろう。私にあるのは快適なのが良い、散らかっているより片付いていた方が良いはずという抽象的過ぎる意思だ。 夏バテ気味であまり調子が良くない。これも色々進まないことの原因だろう。ちょっと休むのも良いかもしれないと、横になり大きく伸びをした。日記が下手になっていることに気づいた。リハビリとして適当に書いてみる。お腹の調子が悪い。しじみの味噌汁を飲もう。ああいう、プハア系の飲み物が好きだ。そういう意味では、炭酸飲料も味噌汁も似ている。似ても似つかない二つの飲み物は、プハア系というジャンルによって結びついた。こういう、名付けによって関係なさそうなものが一緒のグループになることが気になる。 コンビニに行ってしじみではなくあさりの味噌汁を買った。なぜだか大きな貝の方が魅力的に見えた。お湯を注ぐ。店の外では電灯の光に向かって虫たちが突撃していた。夏の風物詩であり、昔は何故そんな行動をするのか意味がわからず怖かった記憶があるが、今はどちらかというと共感している。懸命に生きていく。 暑い疲れたお腹痛いというかなり駄目な独り言を言った。味噌汁を飲むと少し落ち着いた。お腹に染みる。トランプも買おうと思ったけど、行ったコンビニにはなかった。

深夜各停

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