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4月3日から4日

 あまり寝ていなかったのに早起きした日であった。朝は6時。そのまま散歩。早起きした時に謎の長時間の散歩をしている時がある。結果、時間的には遅く起きたのと同じことになってしまう。

部屋の片付けをした。綺麗になると、綺麗になる前よりも広く感じる。部屋は6畳は狭いのだが、ここのスペースを広く感じるか狭く感じるか。ここは何坪、そこは何坪、坪あたりいくら、土地、そういう話が多い現代では、1畳あたりでできることを増やしていくことが大切ともいえる。1畳のスペースに住まい、本当に満ち足りた生活ができるのであれば、その人は幸せな人であるともいえるだろう。私はどちらかというとそれに近いような感じはするが、絵とか道具があるのでその分は場所をとってしまう。そして、なんだかんだ6畳より12畳とかの方がいいや、そりゃ。スペースはこれからどんなに時代が変わっていっても常に意識の的であるだろう。メタバースが主流となった現代で現実のスペースの意義とは?? みたいな論がメタ雑誌的なもので取り上げられたりする。


なにはともあれ。住まいが綺麗だと気持ちがいい。私は案外、綺麗好きなのではないかと思う。前にルームシェアで住んでいたところが、私の何も考えず大量に描いた絵と、本の山、コンビニの弁当の残骸や吸い殻、缶ビール、缶コーヒー、ペットボトル、画材、走り書きのメモ、、そんな状態、作品とゴミが共存した、セミ(半分)ゴミ屋敷であったので、数少ない当時の家に来た人は、もれなく全員が狂気を感じて帰っていった。それでもって、別にそれで良いとも思っていた。絵を描くことに夢中になっていて、それ、それは描いた絵のことではなく、それを描くライフスタイルがどう思われるかということは関心の範囲外であり、ある種、何かを作るということが自分の生活について考えないことの免罪符になっていたような所があった。


高円寺に行き、5月末にやるポップアップの話をした。私は似顔絵を描いたりすることになりそう。自分で、自分たちでやることを決められるというのはとても良いことだ。公園で久しぶりにキャッチボールをした。


電車で家に帰る時、最近読んでいるサヴィニャックの自伝が残り数ページで読み終えてしまうことに気づいた。次は電車で何を読もうか。サヴィニャックの自伝面白い。昔読んだアンディ・ウォーホルの自伝と似た匂いがする。こういうものを買った、あの人がこういう風に言っていた、私は悩んでいる、なんとなくそういうテンションには、昔々の高尚さみたいなものがなくて気楽に読める。高尚さに触れたい時もあるが、ある程度読み流せるラフさが好きな時もある。サヴィニャックの装飾に対する考えが刺激になった。刺激になったというのは、サヴィニャックは自らのやっていることを装飾ではない、自分は装飾には向いていないと考えていたことである。これ、今ではごちゃごちゃになっているが、何か視覚的なものを作る人にも、装飾向きの人とそうでない人がいる。そして私は装飾向きではないのだと思う。壁画、めちゃくちゃに大きい絵、そういうことが、できないのである。何をしたら良いのかがわからなくなってしまう。私は与えられたテーマを基に広げたり、小さなジュエリーのような絵を作ったり、文章を書いたり、そういう、ちょっと素敵なちまちまが良い。


段々と文章が雑になっている気がしているが、修行。今は麹味噌汁を温めているところである。具材は、しめじ、えのき、ほうれん草。豆腐も入れようかと思ったが、止めにした。その前に、じゃがいもを入れようかと思って止めにもした。豆腐を入れるならじゃがいもは合わないんじゃないかと判断したのである。結果どちらも入れていないのだが。汁物、これとこれは合わないというのはなんなのだろう。なぜ、そういう感覚が生まれるか。ほうれん草とじゃがいもは合うし、ほうれん草と豆腐も合う。しかし、じゃがいもと豆腐は合わない感じがするのである。ここで気になるのは中間管理職のような、ほうれん草の存在である。はい。

コメント

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2024年3月7日

3月最初の日記。期間が空いてしまった。今日は目覚めるとひどい2日酔いだった。近所のスーパーで経口補水液と野菜ジュース、バナナを買って、イートインコーナーで飲み食いした。1日初めの飲み物1口目。ぷはぁと声がでる。あまり気にしていないが、座る時にどっこらせと言うお爺さんになる要素が私にはある。そのまま色んな食材買って自炊。2日酔いというのは、普段思わないことを思うようにできているのか、あぁ、なんでも、丁寧に袋やパッケージに入れられて売られている。もやしの袋然り、納豆は3個入りセットで丁寧に梱包されていて、キチっと積み上げられている。どの梱包も寸分違わず、目に見える違う部分としたら賞味期限の印刷くらい。奥の方に手を伸ばし1番賞味期限が遠い納豆を買った。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の作品を思い出す。あの、本気だけど皮肉でもあるような良くわからないあり方は結構好きだ。なんとなく、ロックの時代の作品という感じがする。華々しさと自分自身や自分が生きている文明に対する自虐が同居している。だからか、ロック音楽のアルバムというものは1曲目で車の自慢をしたかと思えば、2曲目ではダメ人間のバラードになったりしていて、そういう表現の為ピエロ役を買ってでるような所も結構好きだった。まぁ、そうでない人が沢山いるのもわかるけれど、根本的に自分を下げて矛盾を楽しむユーモアがあって、そういう所に今また惹かれはじめている。甲本ヒロトの良さとラップスターの良さは結構違う気がする。と、詳しくないが今のアメリカのラッパーであまり伝統的な感じがしない人、例えばLil uzi vertの曲を聴いたりすると、も、もしかしてふざけているのでしょうかとも感じるので、文化が受け入れられ成熟してくるとちょっとおちゃらける感じの人が求められてくるのかもしれない。 暫く書いてないと指筆がはかどらない。やはりなるべく毎日書くべきだな。無料でできるのだし、何か発見をするのも文章を書いている時が多い。 唐突なコラージュみたいな文章だ。「自分にとって」絵を描くのは、やっぱり何かの為って所がもっとあった方が良いんじゃないかと思っている。今まで、絵を描くことには理由がいる→絵を描くことには理由はいらない という思考の経緯を辿っていたのだが、ここにきて違う形で当初の意識にまた戻った。違う形とは何かを考えるのなら、元々どういう形で...

つづき

apple IDがわからなくなったりして前のiPhoneの引き継ぎが何もできていない。ほぼアナログの生活は気づくことが沢山あった。まとまった量の文章を読むのは紙の本の方が読みやすいということや、普段iPhoneをいじっていた時間が暇になるので頭の中でギャグを考えたりした。気分が晴れない時に考えるギャグは結構面白い。淡々と自分に対しての冷めた視点がでてくる。逆に気分が良い時はギャグを欲していない気もする。四六時中笑っている人が求めるのは意外に禅的なものだったりするのだろうか。 音楽の聴けない散歩はつまらなそうに感じたがやってみると捗った。音楽がある時は意識が音に向かうのだが、ないと行き先の無くなった意識が目の前の景色や自身の考えに向かっていった。考えは徐々に形を変えて増幅し空想になり、膨らみきるとそこに溺れ景色にはとんと興味がなくなってしまう。方向音痴なのはこのあたりにも原因がありそうだ。夕焼けで空の色が変わったり、不思議な形の雲がでてきたりしなければ歩いている中で色や形に興味を持つことはなく、自分の考え(考えというのも言葉だ)や街中の看板、地名、言葉が頭に入ってくる。この名前はなんなのか、意味の中を自分の身体が歩いた。絵を描くには満たない脳を持ち絵を描くにはどうしたら良いだろうか。 印象に残った夕焼けの色や建物の形を覚えているだろうか。私は覚えていない。覚えているといえばほとんど、印象に残ったということだけだ。だから写真を撮ったりするのだろうか。目に焼き付けるということができず、一日経って頭の中で現像してみても抽象としてのイメージしかでてこない。そんな風に、私の視覚はひたすらに一時的な映像の連続として続いてきた。誰しもそんなものなのではないかと思うのは間違いで、人によっては一度通った道はもう忘れず、住んでいる建物の窓の数まで覚えていたりする。建築的視覚とでも言うべきだろうか。それに比べると私の視覚というのは貧弱である。人間の目というものがその人にとって二つまでしか持てない以上、他の目に何が見えているのかというのは永遠にわからない。 思うに、日本の都市型の視覚というのは混乱であるが、雪景色や砂漠にある視覚というのは調和された視覚である。生活の必要から環境に応じて視覚も変化していき、雪景色の中にいる人には私には見えない白が見え、砂漠にいる人には私には見えない砂の色が見え...

ゆうーつ

 フライヤーができた。できる前の生活を反省する。ぐだぐだぐだぐだぐ… 一体何をやっているのだ。散歩したり頭を掻きむしったりする前にもう少し思ったことに集中したらどうだ。もう少しストイックでいて良いのじゃないかと思った。しかし、ここで気合いと根性といったような出来もしない体育会系を自分に対して向けるのはまずくいくだろう。工夫だ。工夫。 例えば、何かのアレルギーがある人は工夫の大切さを知るはずなのである。これを食べるとこうなるからとか、金属アレルギーだけどアクセサリーをつけたいから、こういう素材のものを、というのがあるはずなのだ。 そういう人に比べると私はただその場の思いつきに任せ過ぎなのだ。生活、流れていく時間、感情や欲という闘牛士がひらひらさせる赤い布に突撃する私は牛。紙に書いた自分との約束なんかしれっと破り、何時に寝て何時に起きるか、そういうことも自分でわからなかったのだ。 まぁ、あまり自分を責めるのは止めよう。ただ、中々できなくとも、変わろうという意思を持ち続けることは忘れずに。一気に変えようとしてもリバウンドがくるし、潔く自分のことを諦めるのもやっぱり違う。大事なことはいさぎわるく。 果たして、この自己満足という四字熟語がばっちり似合うこの日記はどこへ向かうのか。今日はぐだぐだしていた時間にこのことについて考えた。ひとまず、日記のことは置いといて、自己満足というやや嫌われがちな言葉について考えてみた。中学生くらいの頃、山田かまちの詩で、自己満足、、という言葉ではなかった。自己中心についてしっかり考えないと、他人中心になってしまう、、という言葉だったか失念してしまったのだが、とにかくそういうことを書いている詩があった。他の詩にも、自己中心という言葉がでてきた。そうした、悪い意味とされる言葉を一度自分の中で噛み砕き、それが結果悪かったとしても、、そういう試みが気になる。あるかどうかもわからない未来よりも輝かしい過去の方が良いというのはリリー・フランキーさんの言。 私は、自己満足が他人の満足につながるようなことが良いと思っている。その為にも絵を描いていきたい。自己満足と公共のマリアージュというのが今日頭の中に浮かんだ言葉であった。その時、ドリームシアターのENEMY INSIDEを聴いていた。間奏のプログレな展開、カオスに盛り上がる部分は部活を辞めて暇で暇で...