あまり寝ていなかったのに早起きした日であった。朝は6時。そのまま散歩。早起きした時に謎の長時間の散歩をしている時がある。結果、時間的には遅く起きたのと同じことになってしまう。
部屋の片付けをした。綺麗になると、綺麗になる前よりも広く感じる。部屋は6畳は狭いのだが、ここのスペースを広く感じるか狭く感じるか。ここは何坪、そこは何坪、坪あたりいくら、土地、そういう話が多い現代では、1畳あたりでできることを増やしていくことが大切ともいえる。1畳のスペースに住まい、本当に満ち足りた生活ができるのであれば、その人は幸せな人であるともいえるだろう。私はどちらかというとそれに近いような感じはするが、絵とか道具があるのでその分は場所をとってしまう。そして、なんだかんだ6畳より12畳とかの方がいいや、そりゃ。スペースはこれからどんなに時代が変わっていっても常に意識の的であるだろう。メタバースが主流となった現代で現実のスペースの意義とは?? みたいな論がメタ雑誌的なもので取り上げられたりする。
なにはともあれ。住まいが綺麗だと気持ちがいい。私は案外、綺麗好きなのではないかと思う。前にルームシェアで住んでいたところが、私の何も考えず大量に描いた絵と、本の山、コンビニの弁当の残骸や吸い殻、缶ビール、缶コーヒー、ペットボトル、画材、走り書きのメモ、、そんな状態、作品とゴミが共存した、セミ(半分)ゴミ屋敷であったので、数少ない当時の家に来た人は、もれなく全員が狂気を感じて帰っていった。それでもって、別にそれで良いとも思っていた。絵を描くことに夢中になっていて、それ、それは描いた絵のことではなく、それを描くライフスタイルがどう思われるかということは関心の範囲外であり、ある種、何かを作るということが自分の生活について考えないことの免罪符になっていたような所があった。
高円寺に行き、5月末にやるポップアップの話をした。私は似顔絵を描いたりすることになりそう。自分で、自分たちでやることを決められるというのはとても良いことだ。公園で久しぶりにキャッチボールをした。
電車で家に帰る時、最近読んでいるサヴィニャックの自伝が残り数ページで読み終えてしまうことに気づいた。次は電車で何を読もうか。サヴィニャックの自伝面白い。昔読んだアンディ・ウォーホルの自伝と似た匂いがする。こういうものを買った、あの人がこういう風に言っていた、私は悩んでいる、なんとなくそういうテンションには、昔々の高尚さみたいなものがなくて気楽に読める。高尚さに触れたい時もあるが、ある程度読み流せるラフさが好きな時もある。サヴィニャックの装飾に対する考えが刺激になった。刺激になったというのは、サヴィニャックは自らのやっていることを装飾ではない、自分は装飾には向いていないと考えていたことである。これ、今ではごちゃごちゃになっているが、何か視覚的なものを作る人にも、装飾向きの人とそうでない人がいる。そして私は装飾向きではないのだと思う。壁画、めちゃくちゃに大きい絵、そういうことが、できないのである。何をしたら良いのかがわからなくなってしまう。私は与えられたテーマを基に広げたり、小さなジュエリーのような絵を作ったり、文章を書いたり、そういう、ちょっと素敵なちまちまが良い。
段々と文章が雑になっている気がしているが、修行。今は麹味噌汁を温めているところである。具材は、しめじ、えのき、ほうれん草。豆腐も入れようかと思ったが、止めにした。その前に、じゃがいもを入れようかと思って止めにもした。豆腐を入れるならじゃがいもは合わないんじゃないかと判断したのである。結果どちらも入れていないのだが。汁物、これとこれは合わないというのはなんなのだろう。なぜ、そういう感覚が生まれるか。ほうれん草とじゃがいもは合うし、ほうれん草と豆腐も合う。しかし、じゃがいもと豆腐は合わない感じがするのである。ここで気になるのは中間管理職のような、ほうれん草の存在である。はい。
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