新潮美術文庫のアンリ・ルソーの小さい画集を電車の中で見た。ルソーは元々税関の仕事をして、休みの日に絵を描いていた、魅力的な素人の人、日曜画家という風に知られていて、絵についているキャプションにもその旨が反映されている。技術不足だろうか、遠近法に興味が無いなどと言われてしまっているのだが、通常、画集には絵があり、その絵の題があり、何か補足説明が書かれる時は絵の解説に加えてその作家を敬うような内容が多いのだが、この画集はリスペクトを示しつつも微妙にダメ出しもしていて、他の画集とは異なるシュールな空気が少し流れている。
描かれるジャングルの植物が好きだ。ルソーの絵以外で見たことのない不思議な立体感を持っている。浮き上がってくるがのっぺりとした感じで、なんとなくグラフィックソフトで作られたような感じもする。
こう、スマートフォンとかパソコンとか無い時代の人たちって映像メディアが無い分すごくリアルに生きているという印象があったけれど、昨日画集見たユトリロ然り、ルソー然り、絵葉書を見て描いたり記念写真を見て描いたりしていて、何か、教会の絵が描かれたりしていると私は、その教会の前に座って絵を描くその人を思い浮かべるのだが、そこにいないことは往々にしてあるようだ。ピカソのゲルニカも新聞記事か何かを見て描いたという。
何かメディアで見て、それに反応して描くというのは良くも悪くも現代的な感じがあるけれどそれはとりわけ今に始まったことでもないのだろう。印刷物が生まれ、つまり複製技術が生まれた時からその手法は生まれていたのだと。
明後日からまたばっちり制作できる。絵は絵で視覚として目に見える物を作り、 日記は視覚以外のもの、聴覚や味覚、嗅覚、触覚にシフトしていきたいのだが、どうするべきか。
その赤は... というよりも、その味は... というのがやりたいのだ。何故って、自分自身すごく半人前の中でこの色とか、輪郭とか、そういうことを書いていくのがちょっと恥ずかしい。もっと、力がついたら本格的にやってみても良いかもしれない。
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