むかしむかしのある夜のこと、あるところに、へべれけで歩いている青年がいました。「うぃー、、ひっくっ、この辺りで休もう。」ちょうどいい茂みを見つけると青年はそこに座り込み、そのうちに横になり、しばらく動かなくなりました。「いけない、行かなくちゃあ。」そうして立ち上がり、とぼとぼと歩きはじめ、信号に差し掛かると、青年は携帯電話と財布を無くしたことに気付きました。
さあ、ここからどうなるこの話。いつの時代のどんな場所にも、ダメな青年はいるものですな。ははぁ、そして、私のことなのだが、10日ほど本当に大変で、連絡手段と身分証というのが結構なレベルでライフラインになっていることに気付かされた日々であった。それなりに新鮮で楽しくもあったが、一ヶ月とかになってくるとキツいだろうな。いや、それはそれで何か生き延びる手段を見つけるのだろうし、あえてそうしている人もいるだろう。
こういう風にしたいのだが、連絡をしなければいけない→連絡ができない→人に頼むしかない
という状態がしばしばでてくる。良かったことといえば、道を聞いたり、どうすれば良いか人に尋ねるなど、連絡手段がある時よりも知らない人とのコミュニケーションが活発になったことだ。自分だけ昔話のような意識でしばらくいた。
iPhoneとか、ガジェットに対する意識も見つめ直した。自分に対して、持っているこの機材がオーバースペック過ぎるのである。バスケのルールを知らないが着るユニフォームのようだ。あまりに頼り切りになるのも良くないなと思ったし、もう少し距離を取りつつ、寝る前に見たりしないようにしつつ、、そういうマイルールを決めた方が良いだろうなとも。目覚まし時計を買ったので、「寝る時は目覚まし時計で起き、iPhoneは寝床から遠い所で充電しておく」というルールなど。はい。
ここ10日間くらいは本当に健康だった。全然絵も描かなかったけれど。食欲が増え、少し太ったかもしれない。何かを作って売るとか、働いてお金をもらうとか、そういうことと同じように何かを買うということも考えていかねばならない。絵が売れたらなるべくそれで絵の具を買うとか、、画材に使うのと、本を買うのには罪悪感が無いな。1人で缶チューハイに溺れて潰れていたというのは罪だ。可愛い画用紙とか、買った方が全然良かったと思うよ。面白く考える為に、消費も生産みたいなイメージで考えていきたい。マルセルデュシャンの泉みたいに。
昔、絵の具がレディメイドであるのだから、それによって描かれた絵もレディメイドであるという文章を読んだことがある。なんとなくそのことを思い出している。絵の具のチューブというのは商品であり、既製品なのである。そのチューブから絵の具を絞り出し、それをパレットの上で混ぜてキャンバスに絵を描いたりするのだが、このパレットとキャンバスもどこかで買ってきたものだったりする以上、既製品を組み合わせたものがオリジナルのキャンバス作品と言えなくもない。これは、マルセルデュシャンのレディメイド作品の、椅子に車輪がついている作品を思い出す。なんて名前なんだろうと調べると、その見た目の通り「自転車の車輪」というタイトルの作品であった。マルセルデュシャンはディテールより全体の構造に興味がある人物なのだろうか。いつか研究してみたい。それは作品の研究というよりも、何を考えていたのかの研究である。確か、ローズ・セラヴィという名前で女装する活動も行っていたはずだ。それをマン・レイが写真に収めていた。
自分がやることは無いと思っているけれど、現代美術のアイディアの部分には非常に関心を持っている。と、これも、普通に絵を描いたり、オリジナルのものを作りたい、アイデンティティとか、、そういうことが半分と、買ってきたものをポンと置いて、サインをして、これが自分の作品ですと言う度胸がないのが半分と、という感じがする。いや、でも絵を描くのがしたいかな。ふと、部屋にあるマティスの展覧会のチラシを見た。4月27日から8月20日まで東京都美術館でとあるので、どこかのタイミングで見にいきたい。素朴に、筆跡が丸出しな感じが好きで、こういう絵というのが写真術の普及を境に沢山でてくる感じがする。それ以前はもっとリアルで筆跡は見えづらいような。ちょっと力が抜けたような絵が名作とされはじめたのは結構最近のことなのかもしれない。
日記が書ける幸せを噛み締めている。しかし、iPhoneに依存しないように。布団で眠る。
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