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3月, 2024の投稿を表示しています

2024年3月31日

3月最後の日。昨日の深夜に食べた電子レンジで温めるタイプの五目炒飯が、プラスチックのスプーンとすごくマッチしていて美味しかった。あまり好かれないのかもしれないが、こういうスプーンや、割り箸の美味しさというのもあると思った。勿論、高級な箸の美味しさもあるだろうし、ハードなハイキング中にカップ麺を食べる時、箸もフォークも何もないことに気づき、落ちている木の枝を2本拾ってひたすら洗い、その木の枝で食べる野生の美味しさもあるかもしれない。実は子どもの頃止むに止まれずやったことがあるがそれはそれは美味しかった。止むに止まれなければおすすめはしないのだが。 節約しなければいけないのだがチューブ型の水彩絵の具を9つ買った。自分の普段の生活で見慣れない色。ざっくり青と呼ぶか緑と呼ぶか迷う色たちはずっと好きだ。なにか神秘的な気持ちになる。水彩絵の具という道具自体にも神秘的なものを感じる。この、神秘っていうのをもっと突き詰めていきたいな。透けることは非常に大きい。ガラス、綺麗な海、窓、トレーシングペーパー、強く太陽に照らされた時。

2024年3月30日

落としたのが効いたのかiPhoneのカメラが変な感じになっているのでしばらく写真を撮るってことが少なくなりそう。それかこの変な感じを活かしてやってみるか。 iPhoneで書いておいて変だけれど、自分が思うこと以外のことに頼りすぎだ。ケータイとパソコンはその最たるものになっている。見たとか、聞いたとか、知ったとか、友達と共有とか、そういうことでは満足できない気持ちが突き動かされる衝動になっている。生まれてから今まで何枚写真を撮っても永遠に写真展は始まらずにペンを握る。見たいのは目の前の景色じゃないものなんだね。

2024年3月29日

自分の世界に溺れて鬱屈としている時が良くある。と、これは誰にでもあるのだろう。その鬱屈を見ないように資格の勉強をしたり、趣味を作ったり、気晴らしをしたりする。私もそうだ。キリル文字が気になっていて、昨日はロシア語の勉強をして、キリル文字のアルファベットを沢山書いた。字に馴染みがないので、文字を書きうつす時は手とか林檎を見て絵を描くような感じがした。何故かなんとなく、多言語習得しようと思った。理由は何だろう。目の前のこと、生きること暮らすこと、新鮮に感じられるからだろうか。そういう人になって見える世界が気になる。林檎をみて、りんごと思うのだろうか。違う言葉として思うのだろうか。文章を書いているという良くあることが、当たり前に誰かにとっては違う言葉なのだ。そうすると私は何か見えていないものが沢山あることになる。勿論全て見切ることはできないのだけれど、もう少しは見たい。見えているものに飽きているのかな。 中国語も漢字で似ているから良いんじゃないかと思ったけど、難しそうだった。簡単な言葉はないと思うけれど。似ているからこその難しさか。夢をゆめとか、むと読まないことがわからなくなる。一方、ヘブライ語とか、アラビア語とか、日本語とかけ離れて見える言葉は全くの赤ちゃんとしての状態で向き合えるので素直になれる。 こうして今まで書いていて、日記という性質もあるからかもしれないが、私は私が言語というものに非常に興味を持っていることがわかる。これは一つ、暮らしたり活動したりする上で何か向き合うべきテーマがここにあるという気がしている。気がしたい、のかもわからないけれど、そういうことにしておこう。言葉を学ぶことが絵の為にもなっていくと信じている。

2024年3月25日

急に活字を読む気持ちにならなくなってしまい、ここぞとばかりに音楽を聴いたり絵を見たりしている。聴いてる見ているといってもiPhoneなのだが。生のライブや生の絵を見たい気分だ。それによって何かを確信したいというより確信したものを揺らされたいという気持ち。しかしこれは今にはじまったことではない。単にそういう性格なのだろう。突然変異にゆらされぶらされることを好んでいる。意識がどんどん色んなものに浮気していく。電車に乗って田園風景からビルだらけの風景になっていくことや、電車に乗って山沿いを走っているうちに眠ってしまい起きると窓から海が見えたり、そういう移動の気晴らしで、もといた場所にアイディアを持ち帰る。そうやって吸収した明るいものも暗いものもこの身体の中に入っていて、引き出すことを上手くしていきたい。

2024年3月24日

眠さ乗り切るレッドブル。足が痛くて座って安堵する。ふかふかの布団に転がる時の気持ちを想像して幸せな気持ちする。まだなっていないのだが。この先にささやかでも希望があるということは良いことだ。眠い時とそうでない時と眠ることの価値は違うのだ。かつての砂糖やバナナは高級品だったという。手に入らなかったからだ。この、手に入るか入らないかということに人の考えが如何に左右されているかということを大きなリサイクルショップに行く度に思う。 私はどうしたいのだろう。誰もが手に入れられなかったものを手に入れたいという野望はわかるが、誰とも同じだという共感も捨て難い。誰とも違う、憧れられることのないものこそ本当で、それを大切にしたいという気持ちもある。布団に辿り着いた。寝る。

2024年3月23日

ガガガガガ、カッカッカッ、シャッシャッシャー、トトトトトト、コスコスコス、ガガガガガガetcみたいな音が絵を紙や板に絵を描くなら小さくとも鳴っていて、この音を含めて好きなのかもと思った。iPhoneに専用ペンで描くのもやってみたけど液晶をコツコツ叩く音しか聞こえなくてこの、音を含めた没入感がない。タトゥーを彫る人は手袋越しに触れる皮膚の感覚と、マシンのヴィィィィという音、皮膚にインクを入れていく時の手の感覚も混みで緊張感や懐かしさの混ざった私にはわからないような感覚を感じているのかもしれない。匂いも、そうだ。油絵の具ほどでないにしても、インクにも、アクリル絵の具にも匂いがある。 香りと匂いの違いはなんだ。香りの方がファッショナブルな雰囲気がする。なんだ、この香りは という言葉に含まれるのは、何か素敵な響きがするのに対して、なんだ、この匂いは という言葉に含まれるのは ガス、とか何か危険な響きがする。そして何故か、インクや絵の具の匂いというのは、香りと呼ぶ気になれない。良い匂いなのだが。 100円で売られるカプセルを飲めば1日中、健康状態も良く、飢えもせず生活できるようになったとしよう。そうなると最早食べ物はいらないとスーパーでもコンビニでも食材たる食材は売られなくなり、どこもかしこもがカプセル屋になったとしたら、私は自炊をさせろデモを起こすだろう。カプセルを飲むことに手触りや匂いが含まれないことに私は苛立ちを覚えたのだ。結果が一緒なら同じことだという合理主義の終点の駅の先にも土地があり、そこには非合理の世界が広がっている。あぁ、羨ましい。もやしを炒めたい。箸やスプーンを使いたい。そんなことにならないように祈った。食べることは栄養の為だろうか。本を読むことは情報を得る為だろうか。絵を見ることは。音楽を聴くとは。ひとつのことはいくつかの為であるべきだ。そして、その、「為」ということに捉われすぎないことも必要だと思う。ただ、電車に乗るのは隣や遠い駅に行く為だ。この、理由がありそれを達成しなければいけないものと、そうでもないものがある。そうでもないものというのは実はとても多いのだが、人によってはそれをもどかしく感じ、何かの為であるということにしなければ都合が良くないのかもしれない。 眠れないのでギリシャ神話の朗読を聞きながら横になっていたら更に眠れなくなってしまった。パンド...

2024年3月22日

時間が空いた。前回の日記で模写をやってみると書いたが全くやっていない。やっぱりなんかプライドみたいなものが邪魔しているのだろうか。彫刻の絵、とかは良いと思う。絵の絵になってきたりすると抵抗が生まれる。別のメディウムに翻訳したいという欲。ハリウッド映画の音楽のボサノヴァカバーがめちゃめちゃ良いとUSENのチャンネルで知った。I don't wanna miss a thing. 少し、文章書くよりは絵に向かいたいと思っているのだが、そういう人の文というのもあると思うので書いていく。理屈として通ってなくても許可する文章だ。 今の時代を形作っているのはイヤホンとスマートフォンだ。個人が個人の世界の中で個人として生きがちになっている。イヤホンというのは1人に対してのみ向けられた音響システムであるので、現代ではアイドル音楽を聴いている隣でヘビーメタルを聴いている人がいる状況が普通に起きている。個々の世界に生きているので干渉(イヤホンというのは他人の聴覚に干渉せず音を聴く為のものともいえる)が起きにくいが、同時に分断も起きやすい。誰もが同じもので盛り上がるような状況は今やもう起きていない。と、誰もが同じもので盛り上がるような状況というのがあった時代が歴史の中のどこかであったかどうかというと無いとも思うのだが、本を読み歴史を遡ると、もう少し若者は若者、等の意識はもっと強かったのだと思う。今、あらゆる若者が熱狂しているものがあるのだろうか。あらゆる物事が人それぞれになっていき、全米は泣かない。 と、ここで薄々感じていたこうした日記の難しさに気づく。今ここにある言語空間に支配的なものは裁く視点だ。私はこれについてこう考えている。私は物事を客観的に多角的に見ることができる。ということが延々と続くとき批評には近づくがポエジーからは遠くなる。この書き方の加害性も感じていなければならない。明日からは書き方を変えてみる。

2024年3月14日

土方久功の作った仮面が面白くて、模写してみている。模写ってなぜか全然やったことないのだが、やってみてノートを見るとまるで他人のもののようで面白い。 他人と自分が混ざったようだ。マスク、化粧は今気になることだ。化粧は、いわゆるナチュラルなメイクではなく、ドラァグクイーンみたいな装飾としての化粧。思い切り変身するもの。デビットボウイみたいなのも良いな。 模写はやってみて結構面白かったから明日もやってみる。なんとなく、自分の中からでてきたものに飽きてきているのかもしれないな。でもそうすると、自分の作品っていうものは何になるんだろう。

2024年3月13日

走ったり休んだり、晴れたり雨降ったりな3日間だった。自炊は汁物はもちろん、炒め物も多めに作って、食べきれなかったらタッパーに入れて冷蔵庫へ。そのやり方が良いんだってチキンのハーブ焼きのスパイスの包装に2人分×2袋入りと書かれているのを見て気づく。律儀に1人分作るなんてことはメーカーも想定していないのだ。 水菜は炒めると水分がでてくる。だから水菜って名前なのだろうか。ベーコンに塩振って一緒に炒めると美味しい。お世話になっております。食材を買って冷蔵庫に入れて、そこからブリコラージュとしての料理を作って食べて生きる。 片付けするとそういえばあったわという絵の具がでてきたりする。それらもブリコラージュすることによって何か新しい形にしていく。絵を腐らない目の料理と置き換えても面白い。その代わり腹の足しにもならないのだけれど。良くご飯を食べる前に写真を撮るのは、目の前にあるものが儚いものだと知っているから。これから口を通って違う世界に行くからだ。人間は腸が他の動物に比べて短いらしく、その理由は消化にエネルギーを使わないからだという。火を覚えた人間は煮たり焼いたりすることで腸が短くてもお腹を壊さない技を覚えたのだ。野生動物みたく草をそのまま食べまくったり、狩りをして生肉を食べていたりしたらすぐにお腹を壊してしまう。実は火とお腹の弱さが結びついていたのだ。 昔のジャマイカの音楽を聴いてサーカスの歴史の本を読んだが、意外にこれが中々合う。特に管楽器の音が入っている音楽が合うという気がする。

2024年3月10日

スヌーズを5回ほど押して起床。電車の中で読む本を机の上から探す。イギリス諷刺文学の系譜という本にした。上着を着てリュックを背負う。上着のポケットの内側が破れている。携帯や財布を勢いよく突っ込みすぎなのかもしれない。もう少し丁寧に入れていく。歩く。駅。電車。本を読んだ。珍しく音楽を聴いていない。カナル型ワイヤレスイヤホンのイヤーピースがどこかへ行ってしまったのだ。おそらく、別の上着のポケットに入っているのだろう。 本にはやたらと私の知らない名前がでてきた。特に、紙面の至る所に登場するメニッポスという言葉には面食らったが、この、読者が色々知っている前提で突き進んでいくタイプの本は好きだ。多少わかりにくくても深みや厚みを感じる。知らない言葉を見るのが好きというのかもあるのかもしれないが。だからか、知らない街の看板がズラッと並んでいる所とか好きだ。写真を撮ってしまう。それは、目の話なのだけれど、耳の話としては、空港で色んな言語で色んな案内が四方八方から飛んでくる感じとか、聴こえてくる音が何重ものレイヤーとして重なっていることが好きなのだと思う。色んな音や声が混ざっている所を通り過ぎていくと、また新しい音が聴こえはじめる。そういう所は大抵、目にも眩しく、チカチカしていたり、ピカピカしていたり、ごちゃごちゃしていたりする。雑多さの中には色んな物も人も馴染みやすい。ベトナムの街のバイクの渋滞の、バイクの車種や乗っている人は違うのだが誰も何者でもなくなっているような感じは、波になることや人ごみというものになるイメージだろうか。色んな人がいすぎると不思議な匿名性が生まれる。そこに埋没するのも結構好きだ。 と、本と全く関係ない感想文。メニッポスとか知らない言葉に詰まって大して読めなかったのだ。

2024年3月9日

生活に白けない技術が必要だと気づく。それが無いから、娯楽が好きなのか。どこかで消費する娯楽では足らず、生産する娯楽になってきた。視覚を満たしたいという欲求や隙間を埋めたいという欲求や今なにかやってみたいという欲求が混ざって新しい痕跡ができる。この欲求のカクテルはなんなのか。今の人間のあり方が動物としてのあり方として歪なんだと思う。猫が走り回ってたりするのになにか、深い意味を求めるが、案外走りたいから走っているだけなのかも。あんまり人間はそれができない。走ることに理由が必要だと考える人が沢山。健康の為、間に合わないから、マラソン大会にでるとか。

2024年3月7日

3月最初の日記。期間が空いてしまった。今日は目覚めるとひどい2日酔いだった。近所のスーパーで経口補水液と野菜ジュース、バナナを買って、イートインコーナーで飲み食いした。1日初めの飲み物1口目。ぷはぁと声がでる。あまり気にしていないが、座る時にどっこらせと言うお爺さんになる要素が私にはある。そのまま色んな食材買って自炊。2日酔いというのは、普段思わないことを思うようにできているのか、あぁ、なんでも、丁寧に袋やパッケージに入れられて売られている。もやしの袋然り、納豆は3個入りセットで丁寧に梱包されていて、キチっと積み上げられている。どの梱包も寸分違わず、目に見える違う部分としたら賞味期限の印刷くらい。奥の方に手を伸ばし1番賞味期限が遠い納豆を買った。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の作品を思い出す。あの、本気だけど皮肉でもあるような良くわからないあり方は結構好きだ。なんとなく、ロックの時代の作品という感じがする。華々しさと自分自身や自分が生きている文明に対する自虐が同居している。だからか、ロック音楽のアルバムというものは1曲目で車の自慢をしたかと思えば、2曲目ではダメ人間のバラードになったりしていて、そういう表現の為ピエロ役を買ってでるような所も結構好きだった。まぁ、そうでない人が沢山いるのもわかるけれど、根本的に自分を下げて矛盾を楽しむユーモアがあって、そういう所に今また惹かれはじめている。甲本ヒロトの良さとラップスターの良さは結構違う気がする。と、詳しくないが今のアメリカのラッパーであまり伝統的な感じがしない人、例えばLil uzi vertの曲を聴いたりすると、も、もしかしてふざけているのでしょうかとも感じるので、文化が受け入れられ成熟してくるとちょっとおちゃらける感じの人が求められてくるのかもしれない。 暫く書いてないと指筆がはかどらない。やはりなるべく毎日書くべきだな。無料でできるのだし、何か発見をするのも文章を書いている時が多い。 唐突なコラージュみたいな文章だ。「自分にとって」絵を描くのは、やっぱり何かの為って所がもっとあった方が良いんじゃないかと思っている。今まで、絵を描くことには理由がいる→絵を描くことには理由はいらない という思考の経緯を辿っていたのだが、ここにきて違う形で当初の意識にまた戻った。違う形とは何かを考えるのなら、元々どういう形で...