ガガガガガ、カッカッカッ、シャッシャッシャー、トトトトトト、コスコスコス、ガガガガガガetcみたいな音が絵を紙や板に絵を描くなら小さくとも鳴っていて、この音を含めて好きなのかもと思った。iPhoneに専用ペンで描くのもやってみたけど液晶をコツコツ叩く音しか聞こえなくてこの、音を含めた没入感がない。タトゥーを彫る人は手袋越しに触れる皮膚の感覚と、マシンのヴィィィィという音、皮膚にインクを入れていく時の手の感覚も混みで緊張感や懐かしさの混ざった私にはわからないような感覚を感じているのかもしれない。匂いも、そうだ。油絵の具ほどでないにしても、インクにも、アクリル絵の具にも匂いがある。 香りと匂いの違いはなんだ。香りの方がファッショナブルな雰囲気がする。なんだ、この香りは という言葉に含まれるのは、何か素敵な響きがするのに対して、なんだ、この匂いは という言葉に含まれるのは ガス、とか何か危険な響きがする。そして何故か、インクや絵の具の匂いというのは、香りと呼ぶ気になれない。良い匂いなのだが。
100円で売られるカプセルを飲めば1日中、健康状態も良く、飢えもせず生活できるようになったとしよう。そうなると最早食べ物はいらないとスーパーでもコンビニでも食材たる食材は売られなくなり、どこもかしこもがカプセル屋になったとしたら、私は自炊をさせろデモを起こすだろう。カプセルを飲むことに手触りや匂いが含まれないことに私は苛立ちを覚えたのだ。結果が一緒なら同じことだという合理主義の終点の駅の先にも土地があり、そこには非合理の世界が広がっている。あぁ、羨ましい。もやしを炒めたい。箸やスプーンを使いたい。そんなことにならないように祈った。食べることは栄養の為だろうか。本を読むことは情報を得る為だろうか。絵を見ることは。音楽を聴くとは。ひとつのことはいくつかの為であるべきだ。そして、その、「為」ということに捉われすぎないことも必要だと思う。ただ、電車に乗るのは隣や遠い駅に行く為だ。この、理由がありそれを達成しなければいけないものと、そうでもないものがある。そうでもないものというのは実はとても多いのだが、人によってはそれをもどかしく感じ、何かの為であるということにしなければ都合が良くないのかもしれない。
眠れないのでギリシャ神話の朗読を聞きながら横になっていたら更に眠れなくなってしまった。パンドラの箱って、パンドラが開けてほしいと頼んだ箱なのねってことが衝撃だったのもあり。
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