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2024年3月23日

ガガガガガ、カッカッカッ、シャッシャッシャー、トトトトトト、コスコスコス、ガガガガガガetcみたいな音が絵を紙や板に絵を描くなら小さくとも鳴っていて、この音を含めて好きなのかもと思った。iPhoneに専用ペンで描くのもやってみたけど液晶をコツコツ叩く音しか聞こえなくてこの、音を含めた没入感がない。タトゥーを彫る人は手袋越しに触れる皮膚の感覚と、マシンのヴィィィィという音、皮膚にインクを入れていく時の手の感覚も混みで緊張感や懐かしさの混ざった私にはわからないような感覚を感じているのかもしれない。匂いも、そうだ。油絵の具ほどでないにしても、インクにも、アクリル絵の具にも匂いがある。 香りと匂いの違いはなんだ。香りの方がファッショナブルな雰囲気がする。なんだ、この香りは という言葉に含まれるのは、何か素敵な響きがするのに対して、なんだ、この匂いは という言葉に含まれるのは ガス、とか何か危険な響きがする。そして何故か、インクや絵の具の匂いというのは、香りと呼ぶ気になれない。良い匂いなのだが。


100円で売られるカプセルを飲めば1日中、健康状態も良く、飢えもせず生活できるようになったとしよう。そうなると最早食べ物はいらないとスーパーでもコンビニでも食材たる食材は売られなくなり、どこもかしこもがカプセル屋になったとしたら、私は自炊をさせろデモを起こすだろう。カプセルを飲むことに手触りや匂いが含まれないことに私は苛立ちを覚えたのだ。結果が一緒なら同じことだという合理主義の終点の駅の先にも土地があり、そこには非合理の世界が広がっている。あぁ、羨ましい。もやしを炒めたい。箸やスプーンを使いたい。そんなことにならないように祈った。食べることは栄養の為だろうか。本を読むことは情報を得る為だろうか。絵を見ることは。音楽を聴くとは。ひとつのことはいくつかの為であるべきだ。そして、その、「為」ということに捉われすぎないことも必要だと思う。ただ、電車に乗るのは隣や遠い駅に行く為だ。この、理由がありそれを達成しなければいけないものと、そうでもないものがある。そうでもないものというのは実はとても多いのだが、人によってはそれをもどかしく感じ、何かの為であるということにしなければ都合が良くないのかもしれない。



眠れないのでギリシャ神話の朗読を聞きながら横になっていたら更に眠れなくなってしまった。パンドラの箱って、パンドラが開けてほしいと頼んだ箱なのねってことが衝撃だったのもあり。


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GW1

今日は一日の途中でゴールデンウィークだと気づいた。なんとなく街並みの雰囲気も違ったからだ。路上でレッドホットチリペッパーズのコピーをやっている人たちがいてすごく良かった。ちょっとだけ踊った。can't stop addicted to the sinding. 世の中の連休といえば私にとっては昔から、忙しい日であるのだ。 世間はなんとかですねえと言ったり思ったりする時、狭く思うならそこは世間の外側、広くいくなら内側である。で、最近は内側にいるなと思っている。 iPhoneにデフォルトで内蔵されているgaragebandという音楽の打ち込みができるアプリがあるのだが、昨日今日とそれで少し遊んだりした。無料なのにあんなこともこんなこともワンタッチでできて、なんだか自分がすごい音楽をやっている人みたいな気持ちになった。気づいたら時間がたってて、気持ちはスクリレックスだったね。て、garagebandがすごいだけなのだが。少しDTMをやることに興味が向かっている。ゲームボーイを改造して色んな線をつなぎ、音楽をやったりするやつをやりたい。 楽器のビジュアルに対して多くの人が何か特定のイメージを持っている訳だけど、例えばこれがそもそもは楽器でないものを楽器にした時にどんな音楽が生まれるか、あるいは生もうとするか。そこにはそもそものイメージがない。イメージがないものをやる時に新しくイメージを生もうとしたり、ビジョンを改めて考えたりする必要に迫られるのではないか。抽象的な日記になった。

片付け

部屋の片付けをしようしようと試みるが遅々として進まず、なぜこんなに単純なことができないのかと悩む。何から手をつけて良いかわからない。イメージが湧かないのだ。 こういう部屋にしたい、するという目標があればできるのだろうか。その目標が持てない。特に無いのだろう。私にあるのは快適なのが良い、散らかっているより片付いていた方が良いはずという抽象的過ぎる意思だ。 夏バテ気味であまり調子が良くない。これも色々進まないことの原因だろう。ちょっと休むのも良いかもしれないと、横になり大きく伸びをした。日記が下手になっていることに気づいた。リハビリとして適当に書いてみる。お腹の調子が悪い。しじみの味噌汁を飲もう。ああいう、プハア系の飲み物が好きだ。そういう意味では、炭酸飲料も味噌汁も似ている。似ても似つかない二つの飲み物は、プハア系というジャンルによって結びついた。こういう、名付けによって関係なさそうなものが一緒のグループになることが気になる。 コンビニに行ってしじみではなくあさりの味噌汁を買った。なぜだか大きな貝の方が魅力的に見えた。お湯を注ぐ。店の外では電灯の光に向かって虫たちが突撃していた。夏の風物詩であり、昔は何故そんな行動をするのか意味がわからず怖かった記憶があるが、今はどちらかというと共感している。懸命に生きていく。 暑い疲れたお腹痛いというかなり駄目な独り言を言った。味噌汁を飲むと少し落ち着いた。お腹に染みる。トランプも買おうと思ったけど、行ったコンビニにはなかった。

深夜各停

 電車の中で日計りという写真集を見た。私の好きな写真集である。本は読んだと言うのに、写真集は見たと表すのは、文字があるかないかということが読むと見るの違いと認識しているのだろうか。しかし、写真の中にも文字が入っている。それらの多くは看板や貼り紙。飲み屋の名前、貼り紙禁止。 ただ、看板を読んだとはあまり言わないだろう。そうすると、文字が多いと読む、少ないと見たと呼ぶのだろうか。3文字を読むと思うか、見ると思うか。ファッションブランドのロゴを読むのか、見るのか。私は見た。 写真の特性に朧気ながら気づく。この写真集の中にある写真は古くて1990年、新しくて2002年。私が生まれる前のものもあれば、生まれた後のものもある。ただ、2002年の時点で私は思いつく限りでは新宿に一度も行ったことはなかった。その写真の中にいる人、人々、服装、街並み、看板、見た私は時代を感じとった。今のことではないということを。見たことのないことを見た、その場所にいなかったことへのノスタルジー。それは厳密にはノスタルジーではなく、ノスタルジー風である。何がそう思わせるのかはわからない。懐かしさと新鮮さ。行ったことがある土地だと、この場所は通ったことがある、良く行ってた、今もいたりする。しかしそこにまつわる風景は目の前にある写真とは少し違う。その少しの違いというのは例えば、建物が変わっていたり、新しい店ができていたり、その前を横切る人たちが違ったりする。横切る人まで街並みに入れれば一瞬でも同じ瞬間はない。その一瞬というものに何かを感じる、もしくは感じたいと思う人が取り憑かれたように写真を撮ったりするのかもしれない。 日記も2度と同じものは書けないと思う。それは良し悪しとは別の、ただそういう瞬間だったからというのがある。そういう、コントロールのできなさを、たまたま写り込んだもの、それらはノイズであるが一つの魅力なのである。絵にコーヒーをこぼした時、何か予測していなかったことが目の前で起きる時、それらにどう反応するか、頭の中で作り上げたものは外側に出る時、頭の中のものにはならない。それはもどかしさでもあるが現実である。誰もが頭の中のことをそのまま、ただただそのままにいけば、ここで写真を撮る時にこういう人が走り、こういう人は立ち止まり、こういう人は後ろを向いていて、、スタジオではそれが可能かもしれない...