時間が空いた。前回の日記で模写をやってみると書いたが全くやっていない。やっぱりなんかプライドみたいなものが邪魔しているのだろうか。彫刻の絵、とかは良いと思う。絵の絵になってきたりすると抵抗が生まれる。別のメディウムに翻訳したいという欲。ハリウッド映画の音楽のボサノヴァカバーがめちゃめちゃ良いとUSENのチャンネルで知った。I don't wanna miss a thing.
少し、文章書くよりは絵に向かいたいと思っているのだが、そういう人の文というのもあると思うので書いていく。理屈として通ってなくても許可する文章だ。
今の時代を形作っているのはイヤホンとスマートフォンだ。個人が個人の世界の中で個人として生きがちになっている。イヤホンというのは1人に対してのみ向けられた音響システムであるので、現代ではアイドル音楽を聴いている隣でヘビーメタルを聴いている人がいる状況が普通に起きている。個々の世界に生きているので干渉(イヤホンというのは他人の聴覚に干渉せず音を聴く為のものともいえる)が起きにくいが、同時に分断も起きやすい。誰もが同じもので盛り上がるような状況は今やもう起きていない。と、誰もが同じもので盛り上がるような状況というのがあった時代が歴史の中のどこかであったかどうかというと無いとも思うのだが、本を読み歴史を遡ると、もう少し若者は若者、等の意識はもっと強かったのだと思う。今、あらゆる若者が熱狂しているものがあるのだろうか。あらゆる物事が人それぞれになっていき、全米は泣かない。
と、ここで薄々感じていたこうした日記の難しさに気づく。今ここにある言語空間に支配的なものは裁く視点だ。私はこれについてこう考えている。私は物事を客観的に多角的に見ることができる。ということが延々と続くとき批評には近づくがポエジーからは遠くなる。この書き方の加害性も感じていなければならない。明日からは書き方を変えてみる。
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